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シーン16 円形闘技場②

「……はい、ぴったり十秒」


放心したままのリクノに向かって、俺はにっこりと微笑んでみせる。


直後――。


「ウォオオオオオオオオオオッ!!」


割れんばかりの歓声が闘技場を揺るがした。さっきまで俺を笑っていた連中が、今は一転して俺の勝利に沸いている。


「な、な、なんとぉぉぉ! これは大番狂わせ! 勝ったのは、バン選手だぁぁ!!」


レフェリーの絶叫が追い打ちをかけると、闘技場の熱気はさらに膨れ上がった。立ち上がった客たちが拳を突き上げ、足を踏み鳴らして騒ぎ立てる。賭けに敗れた者たちからは怒声とも悲鳴ともつかない声が飛び交い、会場はますます収拾がつかなくなっていく。


その熱気を裂くように、リクノの声が飛んできた。


「ま、待て! 今のはちょっとぼーっとしてただけだ! もう一回だ!」


顔を真っ赤にして叫ぶリクノを見て、俺は肩をすくめた。


「言っただろ? 偉そうなセリフは、負けたとき恥ずかしくなるからやめろって」


そう言って、悠々と舞台を降りていく。


「やるじゃねぇか、あんちゃん」


声をかけてきたのは、先ほどの受付係だった。馴れ馴れしく俺の肩をばしばし叩いてきて、かなり機嫌が良さそうだ。


「おかげでこっちは大儲けだ。ほら、賞金十万セルだ」


そう言うと、受付係は俺の胸元に封筒を押しつけてきた。


礼を言ってそれを懐にしまう。だが、頭の中は六百四十万セルでいっぱいだった。にやけそうになるのをこらえながら、足取り軽く戻っていく。


「どうだ? 言った通り、パーペキだったろ?」


得意げに声をかけると、イオンの肩が小さく跳ねた。次の瞬間、彼女はさっと手を背中へ隠し、気まずそうに俺を見上げてくる。


……おい。何だ、その反応。


「何隠した?」


一歩詰め寄ると、彼女は無言のまま目を泳がせた。口元をきゅっと結んだまま、背中に回した手だけが所在なさげに揺れる。


それでも無言で圧をかけ続けていると、やがて観念したように、その手が前へ戻ってきた。


差し出されたのは、一枚の賭け札だった。


眉をひそめて受け取り、そこに記された文字を確認する。賭け金は六万四千セル。だが、その横に書かれていた名前は、なぜかリクノだった。


「な、なに、これ……」


見間違いだと思って、もう一度目を凝らす。


それでも、そこに俺の名前はなかった。


呆然と賭け札を見つめていると、イオンは胸元のロケットをぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声で言った。


「リクノさんに、賭けちゃいました……」


「はぁ~~!?」


思わず声が裏返った。


「何でだよ! 間違えたのか!?」


「いえ……すごく、強そうだったので……」


「なっ!? 強そうだったので、じゃねーよ! 何してくれてんだ! 俺の六百四十万セルは!?」


「ごめんなさい……」


イオンは深く頭を下げた。その肩が小さく震えているのは分かったが、それで怒りが収まるわけではない。


「六百四十万セルだぞ! 六百四十万! しかも強そうだったからって……俺のこと、ちゃんと応援してた? してないよね!? どういうつもり? ねぇ、どういうつもり!?」


「本当にごめんなさい……」


「ごめんなさいで済むか! こうなったら、身体で払ってもらうしか――」


「少しよろしいですかな」


背後から、不意に声がかかった。


こんな時に誰だ。


怒りを引きずったまま振り返ると、そこには一人の老紳士が立っていた。黒の燕尾服を隙なく着こなし、白手袋を胸に添えた姿は、いかにも格式ある屋敷の使用人といった佇まいだった。


「誰だ? 今忙しいんだが」


「失礼いたしました。私はカイル家に仕えております、執事のリースと申します」


「……ご丁寧にどうも。俺はバンだ」


「存じております。先ほどの試合を拝見しておりましたので」


リースはにこりと微笑む。


「あのリクノ選手を倒してしまわれるとは、大変驚きました。その腕を見込んで、一つお願いしたいことがございます」


そう言って、懐から一枚の紙を取り出した。


「こちらは脅迫状です。ポート・ソレイユの爆弾魔から届いたものです」


「爆弾魔?」


俺が眉をひそめると、リースは静かにうなずいた。


「はい。高台に住む貴族ばかりを狙う殺人鬼です。標的を決めると、必ず事前に脅迫状を送りつけてくる。それでいて金品には手をつけず、ただ標的を爆破して殺す。町では、愉快犯の類いと噂されております」


物騒な話に、イオンの肩が強ばる。それでもリースは表情を変えず、静かに話を続けた。


「そして一週間前、我が主、カイル様の屋敷に脅迫状が届きました。予告されているのは、今日の深夜です。警備は万全に整えておりますが、それでも不安は拭えません」


「それで、腕の立つやつを探してたってわけか」


「はい。勝手ながら、あなた様ならばと思いまして」


「……悪いな。そういう面倒ごとは、もっと正義感にあふれたおせっかい野郎にでも頼んでくれ」


俺はろくに取り合わず、片手を振って話を切り上げようとした。


だが、リースの笑みは崩れなかった。


「そうおっしゃらず。もしお受けいただけるなら、報酬は弾ませていただきます」


「弾むって、どれくらいだよ」


リースはすっと身を寄せ、俺に耳打ちした。


「五十万セル!?」


思わず声が裏返った。


大金じゃないか。それもたった一晩で?


俺はごほんと咳払いをする。


「仕方ないな。よし、やろう。そんな物騒な奴、野放しにするわけにはいかないからな」


あっさり手のひらを返すと、イオンが不安そうにこちらを見上げてきた。明らかに行きたくなさそうな目だ。


そんな彼女の耳元に口を寄せ、ぼそりとささやく。


「……六百四十万」


それだけで十分だった。イオンは何も言い返せず、しゅんとうつむいてしまった。


こうして俺たちは、リースに案内されるまま、カイルとやらの屋敷へ向かうことになった。


***


闘技場を揺らしていた歓声も、ようやく落ち着き始めていた。観客たちは先ほどの勝負を興奮気味に語り合いながら、出口へ向かっていく。中には、外れた賭け札を握りしめたまま、席から立ち上がれずにいる者もいた。


そんな人影がまばらになりつつある観客席の一角に、スーツ姿の怪しげな二人組が腰を下ろしていた。


茶色のスーツを着崩した目つきの悪いやせ形の男――ギースは、座席に浅く腰かけ、だらしなく足を投げ出している。隣では、黒い肌をしたスキンヘッドの巨漢、ドリントンが微動だにせず腕を組んでいた。


二人の視線は、会場を後にするリオレスの姫を静かに追っている。やがてその姿が人波の向こうへ消えていくのを見届けると、ギースは小さく息を吐いた。


「行ったな」


「追わなくていいのか?」


ドリントンが低く尋ねる。


「こんな白昼堂々と攫っちゃあ、目立つだろ。部下に追わせてるから心配ねぇ。……それに、今はそんな気分じゃないしな」


ギースはそう言うと煙草に火をつけた。短く吸い込み、苛立ちを吐き出すように深く煙を吐いた。


「バンとかいったか。城で見かけた妙なやつ……まさかリクノに勝つとはな」


ちっと舌打ちをすると、手にしていた賭け札をくしゃりと握り潰した。


そのときだった。


「見つけたで! こんなところにおったんか!」


階段の下から、やけに大きな声が響いた。


露出の多い服を揺らし、黒いポニーテールの女が階段を駆け上がってくる。ステラだ。


ギースは煙草をくわえたまま、ちらりとそちらへ視線を流した。


「何だ、お前か」


「お前か、やないわ! 散々探したんやで!」


「よくここが分かったな。……ん? お前、泣いてるのか」


「な、泣いてへんわ! 迷子になって心細かったとか、これっぽっちもないわ!」


ステラは乱暴に目元をぬぐうと、すぐさまギースをじろりとにらんだ。


「闘技場なんかで何しとったんや。まさか、賭けでもして遊んどったわけやないやろな」


「当たり前だ」


即答したわりに、その視線はすっと横へ逃げた。


「なんで目ぇそらすん? まさか、うちの預けてた金、使っとらんやろな」


「……そんなことより、お前こそ今まで何してた?」


露骨に話を逸らされたことにも気づかず、ステラはぱっと顔を輝かせた。


「よくぞ聞いてくれた! リオレスのお姫さんの重要情報を手に入れたで!」


「ほぉ、どうやって?」


「そんなもん簡単や。男なんて、ちーっとおっぱい触らせようもんなら、聞いてもないことまでぺらぺらしゃべり出すもんやからな」


けたけた笑うステラを前に、ギースは露骨に顔をしかめた。


うんざりしたように煙を吐くと、吸いかけの煙草を足元へ放った。靴底で火を揉み消し、そのまま無言で腰を浮かせる。


「嘘、嘘、ウソやって! 聞いてぇや。お願いやから、聞いてください!」


逃がすまいと、ステラが慌ててその腕にしがみつく。


そんな彼女を、ギースはしばらく冷めた目で見下ろしていたが、やがて面倒くさそうに息を吐くと、どさりと腰を下ろした。


ステラはほっと胸をなで下ろすと、今度は意味ありげに声を潜めた。


「リオレスのお姫さん、生まれてからずっと閉じこもってたって話やったよな。あれ、ただの引きこもりとちゃうみたいやで。どうも十八年前の事件が関係してるっちゅう噂や」


「十八年前……姫が生まれた年か」


「そうや。ちょうどその頃、リオレスでえらい襲撃事件があったらしいんや。兵士はばかすか倒されるわ、王妃様まで殺されるわで、大騒ぎやったらしいで。しかも、それをやったんが、たった一人やったっちゅう話や」


「たった一人……神族か?」


「さぁ、そこまでは分からん。結局そいつは捕まったらしいわ。もうとっくに殺されとるやろ」


「その事件が、姫と何の関係がある?」


ギースが眉をひそめると、ステラは待ってましたと言わんばかりに、口角を上げた。


「実は、その犯人の狙いっちゅうのが、お姫さんの暗殺やったらしいんや。王妃様は姫をかばって殺された。そんで、それ以来ずっと、お姫さんは城の中で暮らすことになったっちゅうわけや」


「なるほどな。二度と狙われないようにするためか」


「そういうことや」


ステラは得意げに胸を張った。


「変だな。なら、なぜ今になって急に表へ出てきた?」


「それはもちろん――」


そこまで言いかけて、ステラの動きがぴたりと止まる。


「……そ、それくらい自分で考えぇや」


そう言うと、露骨に目をそらした。


ギースは何も言わず、じっとステラを見る。


その沈黙に耐えきれなくなったのか、彼女はわざとらしく咳払いをした。


「と、とにかくや。この国の連中が何か隠してるのは間違いないで。ずっと城ん中に閉じ込めていたのに急に結婚だなんて、明らかにおかしいしな。お姫さん攫おうとした蜘蛛男といい、どいつもこいつも、怪しい匂いがプンプンや」


そのときだった。


ぶぼぼぼぼぼっ!


場違いな爆音が、ドリントンの尻から響いた。


「うわっ、くっさ! 何しとるんや、自分っ!?」


ステラが鼻を押さえて飛び退くと、ドリントンは満足げに口元を緩ませた。


「ふっ……冗談だ」


「あんた、それいい加減にやめぇや。匂いの話したら屁こく奴。ちっともおもろくない上に、冗談になっとらんやん」


騒ぎ立てるステラをよそに、ドリントンはふと首をかしげた。黙ったまま尻のあたりに手をやり、何かを確かめる。


しばらくして、何かを悟ったように、ゆっくりと立ち上がった。


「どこ行くん?」


「お前が急に匂いの話を振るから、焦って実が出た。パンツを交換してくる」


「じ、冗談よな?」


「どうかな」


ドリントンはなぜか、ふっと意味深な笑みを浮かべると、そのまま何も言わずに去っていった。


「……何がしたいんや、あいつ」


ステラがその背中を呆然と見送っていると、背後でギースの声がした。


「……ああ、分かった。そこで待機してろ」


振り返ると、ギースは耳元の通信機に指を当てていた。通信を切ると、そのまま座席から立ち上がる。


「そろそろ行くぞ」


「行くって、どこへ?」


「姫を追う。奴ら、水鯢車すいげいしゃに乗りやがった。急がねぇと見失う」


「えっ、なんや。ちゃんと探しとったんか」


「当然だ。大金がかかってるからな」


「あぁ、そうやったな。忘れてた。お姫さん攫ったら、特別ボーナスやったな」


ステラはぽんと手を打ち、立ち上がった。だが、数歩進んだところで、ふと足を止める。


「……そや。今ので思い出したんやけど、うちが預けとったお金は?」


「行くぞ」


ギースはそれだけ言って、足早に歩き出した。

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