シーン15 円形闘技場①
「なかなか立派な建物じゃないか」
円形闘技場の前に立ち、俺は思わず感嘆の息を漏らした。
白い石造りの巨大な建物が、目の前にそびえている。外周には太い柱と半円のアーチが幾重にも連なり、上部には獅子のレリーフが彫り込まれていた。だが、その荘厳な造りとは裏腹に、出入りしているのは目つきの悪い荒くれ者ばかりだった。
……どうやら、上品な場所ではなさそうだな。
「イオン、大丈夫か?」
俺の心配をよそに、彼女は怯えるどころか、どこか嬉しそうに闘技場を見上げていた。
「大きいですね……」
どうやら、建物にすっかり目を奪われているらしい。ガラの悪い男がすぐ近くを通り過ぎても、ちらりとも見ようとしない。怖がって立ち止まられるよりはましだが、危ない人間かどうかの見分けはまだつかないようだ。これはこれで心配だ。
それに、この綺麗な顔立ちは嫌でも人目を引く。面倒な連中が寄ってきては困る。
俺は孤児院で借りてきたフード付きの灰緑色のマントをイオンに羽織らせ、フードを深くかぶせた。その影に顔が隠れたのを確認し、小さく息を吐いた。
「よし。これで準備は万端だ。じゃあ、行くか」
多少の荒事は覚悟しながら、闘技場の中へ足を踏み入れた。
――が、中に入った途端、拍子抜けする。
円形の舞台の中央で、男二人が白い台を挟んで手を組み合っていた。なんてことはない。ただの腕相撲だ。
「なんだ。緊張して損した」
思わずため息が漏れた。だが、それを見守る観客の熱気は、普通ではなかった。舞台を囲む観覧席からは、「ぶちのめせ!」だの「叩き潰せ!」だの、物騒な罵声が飛び交っている。
そこへ、勝敗を告げる鐘がカン、カン、カンと鳴った。
「リクノ選手の勝利ィィィ!」
舞台上のレフェリーが、声を張り上げる。
「強い! これで九十九勝無敗! 誰か、この男を止められる者はいないのか――!」
会場全体が一気に沸き立つ。席などないも同然で、観客のほとんどが立ち上がり、腕を突き上げる。地鳴りのような歓声が、空気そのものまで震わせているようだ。
この騒ぎ、イオンにはきついか?
いや、待てよ。さっきもガラの悪い奴をまるで気にしていなかったし、案外平気かも――と思って隣を見ると、彼女はフードの端を握りしめ、すっかりうつむいてしまっていた。
……そりゃそうか。
賞金十万セルをもらったら、こんなところすぐに出よう。そう決めて周囲を見渡すと、闘技場の奥に受付らしき場所が見えた。その横には、数字の並んだ大きな木板が掲げられている。前には人だかりができ、跳び上がって喜ぶ者や、頭を抱える者までいた。
……なるほど。賭けもやっているのか。こいつはラッキーだ。うまくいけば大儲けできる。
とりあえず、まずはエントリーだ。俺はうつむいたままのイオンを気にしつつ、受付らしき場所へ向かった。
そこでは、小太りな男が帳簿をつけていた。
「なぁ、エントリーって、ここでできるのか?」
「あぁ、そうだよ。挑戦希望者かい?」
俺がうなずくと、男は細い目でこちらの身体を品定めするように見てきた。
「大丈夫なのかい、そんな腕で。相手は九十九連勝中の化け物だよ。悪いことは言わない。やめときな」
九十九連勝か。ずいぶん派手に勝ってるな。そう思いながら舞台上に目をやる。上半身裸の大柄な男が、勝ち誇るように右腕を掲げていた。二メートルを優に超える巨体に、ライオンのたてがみのように逆立った金髪。あの体を見れば、腕力に自信があることだけは嫌でも分かる。
だが、見た目がどれだけ強そうだろうと、俺には関係ない。
「大丈夫だ。参加させてくれ」
そう言うと、男は呆れたように肩をすくめ、帳簿をこちらへ押し出した。
「怪我しても知らないよ。参加料一万セルだ」
「えっ? 金を取るのかよ」
「当たり前だろう。こっちは商売でやってるんだ」
「分かったよ」
ふう、と息を吐いてイオンへ目を向ける。
「一万セルだって。悪い、財布を貸してくれ」
イオンは財布を取り出したものの、胸元に抱えたまま、不安そうに俺を見上げた。
「バンさん、本当に参加するんですか?」
「あぁ。もちろんだ。十万セル、欲しいからな」
「でも、危ないんじゃ……」
「ただの腕相撲だ。心配いらないって。それに、俺にはこいつがある」
そう言って懐から銀色のライターを取り出し、蓋をキンとはじいて開けてみせる。だが、それでイオンの不安が消えるわけでもなかった。
納得しきれない顔の彼女をどうにかなだめ、俺は財布を預かった。紙幣の価値がよく分からず、中身をまとめて差し出すと、男は眉をひそめ、一枚だけ抜き取って残りを突き返してきた。
「釣りだ」
「あ、そう」
返された紙幣を受け取り、帳簿に自分の名前を書く。これでエントリーは済んだ。
となれば、次は肝心の話だ。
「なぁ、ここでは賭けもやっているのか?」
「あぁ。だが、参加者本人が賭けるのは禁止だぞ」
「知り合いが賭けるのは?」
「それなら問題ない。ただし、少しでも手を抜いたように見えたら、両方とも罰を受けてもらうことになる」
なるほど。なら、イオンに頼めば問題なさそうだ。
「ちなみに、今のオッズは?」
男は面倒くさそうに倍率表を顎で示した。
「リクノが一・〇一倍、挑戦者が百倍だ。奴が勝ちすぎて、もう賭けになってねぇ」
「百倍か」
俺は返された紙幣を男に見せる。
「じゃあ、仮に知り合いがこの手持ちを全部俺に賭けたら、いくらになる?」
「それくらい自分で計算しなよ……六百四十万セルだ」
「ろ、六百四十万!?」
思わず大きな声が出た。とんでもない額だ。これで、三号に約束した金と地位と女のうち、金は解決だ。まさか、こんなに早くうまくいくとはな。
そう思った矢先。
「さぁ、本日最後の試合だ! 挑戦者、バン選手! 対するは絶対王者、リクノ選手! リクノ選手、これに勝てば百勝達成だ!」
レフェリーの声が響いた。
やばい、もう行かないと。
俺は慌ててイオンに紙幣を握らせる。
「悪いけど、賭けの方頼む。もう全ぶっぱでいいからな」
そのまま舞台へ向かおうとしたところで、そっと袖をつかまれた。振り返ると、イオンが何か言いたそうに俺を見上げていた。
「バンさん……」
「そんな心配するなって」
俺は笑って、彼女の指をそっとほどいた。
「絶対勝つから。もちろん……パーペキにな」
俺は親指を立ててみせ、そのまま舞台へ向かった。
***
さて、どのオーブを使うか。
階段の手前で、俺はライターを取り出した。
腕力を上げるものはいくつかあるが、やりすぎれば目立つし、手加減して負ければ一文無しだ。
なら、あれがちょうどいいな。
側面の目盛りを合わせ、親指で着火ホイールを回す。ライターの先端に、淡い青色の球体が浮かび上がった。周囲をうかがいながら、それをこっそりつまんで口へ放り込む。
「おい、おやつ食ってんじゃねぇ。さっさと上がってこい」
ばれていた。だが、怪しんでいる様子はなさそうだ。
「悪い、悪い」
軽く片手を上げて舞台へ上がる。そのまま中央の白い台の前に立つや、リクノが鼻で笑ってきた。
「やれやれ……記念すべき百勝目の相手が、こんな貧相な男とはな。これじゃ盛り上がらねぇ」
ずいぶんと余裕だ。
「そういう偉そうなことは言わない方がいいぞ。負けた時、恥ずかしいから」
「はっ。最強の俺様が負ける? 笑わせるな。てめぇごとき、軽くひねりつぶしてやる」
「はぁ……いかにも、ぽっと出の噛ませキャラが言いそうなセリフだな。むしろ、すがすがしいまである」
その一言で、リクノの目尻がぴくりと動いた。
「何だと?」
鋭い視線がこちらへ突き刺さる。
そのとき、レフェリーが割って入った。
「さぁ、話はそこまで! 両者、手を組んで!」
リクノは舌打ちし、丸太のような腕を台へ叩きつけた。みしり、と嫌な音が鳴る。
「てめぇなんぞ、一秒で片づけてやる」
一秒。
……まずいな。煽りすぎたか?
このオーブは、相手に触れてから効果が出るまで時間がかかる。まともに始められたら、効く前に負けちまう。
勝負が始まってから、ほんの少し待ってもらわなくては。
だが、素直に言うことを聞くような奴じゃないしな。
俺がなかなか腕を出さず、周囲をきょろきょろしていると、観客席から「何やってんだ!」だの「早くしろ!」だのと容赦ないヤジが飛んできた。
その中で、リクノだけは余裕たっぷりに笑っていた。負けることなど、これっぽっちも考えていない顔だ。
待てよ……こいつなら、もしかして。
俺は両手を上げ、指を十本立ててみせた。
「十秒だ」
「あ?」
「俺に十秒だけくれ。それだけあれば、お前に勝ってみせる」
「ふん。たった十秒でどうにかなるわけねぇだろう」
「いーや、勝てるね。それとも怖いのか? 最強の男が聞いてあきれるな」
リクノの眉間が、ぴくりと跳ねた。笑みが消え、鋭い視線がこちらへ突き刺さる。
「舐めんじゃねぇ。いいだろう、待ってやる。だが、勝てなかった時には覚悟しろよ。その腕、へし折ってやる」
馬鹿で助かったぜ。
ほっと息をつき、俺はリクノの手を握った。その瞬間、とんでもない圧迫感が掌から腕へ伝わってくる。まともにやれば、まず勝てなかっただろう。
レフェリーが俺たちの手に軽く触れ、位置を確かめる。
闘技場のざわめきが、少しずつ引いていく。さっきまで飛び交っていた罵声も、足を踏み鳴らす音も止み、会場中の視線が台の上へ集まった。
「それでは参ります――」
「レディィィ……ゴー!」
次の瞬間、闘技場が爆ぜるような歓声に包まれた。俺は全身の力を腕に込める。だが、思った通り、リクノの腕はびくともしなかった。
「どうした! もう始まってるぞ!」
リクノは涼しい顔で、こちらの力を軽々と受け止めていた。わざと俺の腕を少し押し倒しかけては戻し、余裕を見せつけてくる。
「おいおい、相手になってねぇぞ!」
「リクノ、さっさと終わらせろ!」
観客席からは、俺を笑いものにする声ばかりが飛んでくる。
誰も俺が勝つとは思っていない。むしろ、どれだけ無様に負けるかを楽しんでいるようだった。
「――もうすぐ十秒だ。覚悟はいいか?」
リクノはにやりと笑い、勝負を決めにかかる。
しかし、次の瞬間、組み合った腕がぴたりと止まった。
ほんのわずか、会場の空気まで止まったような間。
そして――
ぱたり。
リクノの腕が、後ろへ倒れた。
「……え?」
しんと静まる観客席のあちこちで、そんな間の抜けた声が上がった。




