シーン13 オルカ
「見てください。あそこ、オモイルカの群れですよ!」
イオンが海を指さしながら、俺の肩を何度も叩いてくる。興奮して加減が分からなくなっているのか、少し痛いくらいだ。最初あれほど怖がっていたのは、何だったのか。今では目を輝かせ、海面を跳ねる生き物や空を舞う海鳥を、夢中になって目で追っている。
どうするか迷ったが、連れてきてよかったな。
そんなことを考えつつ、鳥の背に揺られながら進んでいると、遠くの海岸線に白い建物群が見えてきた。
「おっ。もしかして、あそこがポート・ソレイユじゃないか?」
群青の海に映える白壁の町並み。港には小さな人影が大勢行き交い、遠目にも賑わっているのが分かる。
「えっ、見たいです!」
イオンは待ちきれない様子で身を乗り出した。背中に胸の柔らかな感触が押し当てられ、俺の意識は完全にそちらへ持っていかれる。
……本当に、連れてきてよかったぜ。
よこしまなことを考えてにやけていると、突然、鳥が鋭く鳴いた。
おっと。ぼけっとしている場合じゃないな。飛んでるところを人に見られでもしたら、大ごとだ。
「少し進路を変えるぞ。しっかり掴まってろよ」
そう言って、右足で鳥の脇腹を軽く押す。すると、大きな翼がゆるやかに傾き、進路が左へ変わった。そのまま白い断崖の影に隠れ、海面すれすれを滑っていく。
陽光を受けた海は、まばゆいほどに輝いている。潮風が頬を撫で、翼の先が海面をかすめるたび、跳ね上がった水しぶきがきらめきながら散っていく。
「思ったより早く着きそうだな。こいつのおかげだ」
俺は鳥の首をぽんと叩いた。
「はい。セイリュウチョウを操れるなんて、バンさんはすごいです」
イオンは、心から感心したように言った。
「セイリュウチョウ? ああ、この鳥、そういう名前なのか」
「はい。リオレスの国鳥です。人に懐くことなんて、まずないのに……」
「えっ?」
思わず声が漏れた。
「どうしたんですか?」
「……いや、実はさっきのオーブ、万能ってわけじゃないんだ。大きさや懐きやすさに応じて効果時間が変わる。それで、ちょっと気になってな」
「で、でも、もうすぐ着くんですし。大丈夫ですよね?」
「ああ。もちろんだ。こんなところで効き目が切れるはずが――」
だが、お約束とでもいうのだろうか。言い終えるより早く、セイリュウチョウがくるりと首を回した。
青い目が、じろりとこちらを睨んでいる。
……まずい。完全に怒っている。
直後、巨体がぐらりと傾いた。
「うおっ!」
セイリュウチョウは翼をばたつかせ、首を振り、背中の俺たちを振り落とそうと暴れ出した。耳元でイオンの悲鳴が上がる。翼が海面を叩き、白い水しぶきが巻き上がる。顔にも服にも、海水が容赦なく降りかかった。
「落ち着け! 暴れるな! おい、こら、言うこと聞け!」
必死に押さえ込もうとするが、もちろん聞くはずもない。セイリュウチョウはさらに体をねじり、暴れ続けた。落とされてたまるかと、首元にしがみつく。
そのときだった。
突然、体がぐんと持ち上がった。
何が起きたのか理解する間もない。何かに引っかけられたみたいに、鳥ごと一気に引き上げられる。
そのまま断崖を越えたところで、鳥の背中から放り出された。
「ぐえっ!」
地面に転がった衝撃で、一瞬息が詰まる。何度か咳き込み、どうにか体を起こすと、背中にしがみついていたはずの感触が消えていることに気づいた。
「イオン、大丈夫か!?」
慌てて周囲を見回す。少し離れたところで、イオンがお尻をさすりながら座り込んでいた。どうやら無事なようだ。
……よかった。
ほっと息を吐いた、その直後。
突然、鳥の激しい鳴き声が聞こえてきた。
目を向けると、先ほどまで俺たちを乗せていたセイリュウチョウのくちばしに釣り糸が絡まっていた。ぴんと張った糸の先では、白銀の鎧をまとった女性が釣り竿を片手に持ったまま、呆然と固まっている。
……誰だ、あれ。
状況を飲み込めずにいると、セイリュウチョウがばさりと翼を振った。女性の手から釣り竿がするりと抜け、鳥はそのまま竿ごと空へ逃げていってしまった。
女性は遠ざかる鳥をしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、こちらを振り向いた。その目が、わずかに見開かれる。
「……まさか、イオン様?」
えっ? と思い振り返ると、いつの間にかイオンは俺の陰に隠れていた。上目遣いに女性を窺うその顔には、はっきりと警戒の色が浮かんでいる。
「誰なんだ?」
声を落として訊くと、イオンは小さな声で返した。
「……確か、オルカさん」
確か、か。
どうやら、仲良しってわけではなさそうだ。
それにしても、イオンもびしょ濡れだな。髪が頬や首筋に張りついてしまっている。
怪我とかはしてないよな。
何気なく視線を下ろす。
「なっ……」
そこで、思わず体が固まった。
彼女の白いブラウスは海水を吸い、肌にぴたりと張りついていた。薄い布越しに、肌の色がうっすら透けている。
「……どうしました?」
イオンが怪訝そうに眉をひそめる。やがて自分の胸元を見下ろし――その顔がみるみる赤くなった。
「きゃああああっ!」
鋭い悲鳴と同時に、平手が俺の頬へ飛んだ。
***
それから少し経った。頬はまだじんじんと痛んでいる。
イオンは海の方を向いたまま、膝を抱えて小さく座り込んでいた。背後のオルカを意識しているのか、肩に少し力が入っている。
そのオルカはというと、イオンの髪にそっと手をかざしていた。かざした手の周りには、薄い金色の光が浮かんでいる。そこから温かな風が流れ、水を含んで束になっていた髪を少しずつほどいていく。
「さあ、乾きました」
オルカが優しく微笑む。
するとイオンは小さく会釈だけして、そそくさと俺のそばへ戻ってきた。ほとんど礼にもなっていないが、オルカは気を悪くした様子もなく、穏やかに微笑んでいる。
なかなかできた奴だな。これまで会ってきた奴らとは明らかに違う。ここは仲良くしておいた方がよさそうだ。
俺もできるだけ愛想よく笑ってみせた。
「さっきは助かった。危うく海に叩き落とされるところだったんだ。俺はバンだ」
「バン殿ですね。私はオルカと申します」
丁寧に名乗るその声は、落ち着いていて柔らかい。
「さっき腕が光ってたよな。ということは、オルカは神族なのか?」
「ええ。私は神族の国、オラシオンより参りました」
オラシオン。
初めて聞く名だ。まあ、俺が知っている国なんてここくらいだが。
「そうなのか。オルカはどうしてリオレスに来たんだ?」
「それはもちろん、イオン様にお会いするためです」
オルカは穏やかな笑みを、俺の後ろに隠れているイオンへ向けた。だが、イオンは目が合った瞬間、すぐにうつむいてしまった。
何とも言えない、気まずい沈黙が流れる。
まずい。何とかしないと。
「そ、そうだ。さっきイオンの髪を乾かしてたよな。あれは風を操っていたのか?」
「いいえ、少し違います。私は波動を操ることができます」
なるほど。波動か。
たぶん、物質の動きを操る力なのだろう。空気の密度を変えて風を起こし、さらに振動させて熱を生んだってところか。
すごいな。ドライヤー要らずじゃないか。
そんなことをぼんやり考えていると、今度はオルカが話しかけてきた。
「ところで、バン殿たちは何をされていたのですか?」
「ああ。ポート・ソレイユに行こうと思ってたんだ。ちょっと金と女を――じゃなくて、観光がてらな。オルカは釣りをしてたのか?」
「はい。我々の国では海が珍しいので、せっかくだから試してみようと思いまして」
そう言うと、オルカは寂しげに自分の手元を見た。
「ですが、案外難しいものですね。今のところ釣れたのは、鳥とバン殿たちだけです」
「そりゃそうだろ。針が海まで届いてなかったぞ」
「……なんと」
オルカは驚きの表情を浮かべた。
「それに、エサもついてなかったし」
「エサ? 何かをつけないとだめなのですか?」
あまりに素っ頓狂な反応に、思わずため息が漏れた。
「当たり前だろ。虫とか、小魚とか、魚が食いつきそうなものを針の先につけるんだよ。あとは、きらきら光るものとかでもいいかもな」
「なるほど。教えていただき、ありがとうございます。新しい竿も必要ですし、町で探してみることにします」
「そうだ。どうせなら一緒に行かないか?」
「えっ? 良いのですか?」
一瞬、オルカの表情が明るくなった。だが、ふと俺の後ろへ視線を流すと、その笑みを引っ込めた。
「……いえ。せっかくのお誘いですが、少し用を思い出しました。残念ですが、またの機会に」
えっ? どうしたんだ、突然。
振り返ると、イオンが俺の服を掴んだまま、いまだ警戒した目でオルカを見ていた。
……なるほど。気を遣ったってところか。
だが、せっかく会えた、まともな相手だ。このまま別れるのは惜しい。
そう思い何度か引き止めてみたが、オルカは困ったように微笑むだけだった。
「またお会いした時には、ぜひ」
穏やかな笑みを浮かべ、社交辞令じみた言葉を残すと、オルカは静かに去っていった。




