シーン11 ザイカスの屋敷
リオレス国内でも有数の港町、ポート・ソレイユ。王国屈指の景勝地としても知られるこの町は、その八割が海抜の低い土地に広がっており、雨季や高潮のたびに浸水の危険にさらされていた。そのため、身分ある者たちの屋敷は、低地の喧騒から離れた高台に集まっている。
その高台へ続く夜道を、一台の馬車めいた乗り物が進んでいた。
ぺたぺたと湿った足音を立てて客車を引くのは、リオレス王国固有種のオオサンショウだ。水色と黒のまだら模様の体が街灯にぬらりと光り、頭の左右では桃色のえらがふわふわと揺れている。この国では、こうした乗り物を水鯢車と呼ぶ。
やがて水鯢車は、一軒の豪邸の前で止まった。門の前に控えていた黒スーツ姿の男たちが歩み寄り、一人がすばやく客車の扉を開ける。中から姿を現したのは、でっぷりと肥えた男だった。
首はほとんどなく、丸い胴体から妙に細長い手足が伸びている。仕立てのよさそうな茶色のスーツに金ぴかの革靴。両手の指には一本残らず指輪がはめられ、つるりと禿げ上がった頭には小さな帽子がちょこんと乗っていた。
ロベルタス・コーポレーション社長、ザイカス・ロベルタス・デ・ガストール。
彼が遠いエクス=マキナからこの地を訪れたのは、リオレスの姫君とオラシオンの法皇の婚姻の儀を祝うため――少なくとも、表向きはそういうことになっている。
「……まったく。こんな田舎臭い国で足止めとはな。ワシほどの男が、なんでこんな目に遭わなきゃならん」
水鯢車から降りるなり、ザイカスは吐き捨てるように言った。
「それもこれも、全部あの馬鹿どものせいだ。あぁ、くそ。腹立たしいったらない」
なおもぶつくさ文句を言いながら、彼は黒服たちを引き連れて屋敷へ入った。不必要に豪華な廊下を抜け、奥にある大広間の扉を押し開ける。
中は妙に薄暗かった。分厚いカーテンが外の灯りを遮り、燭台の炎だけがゆらゆらと揺れている。
中央に置かれた長テーブルの奥では、スキンヘッドの大男が金装飾の大椅子に腰を下ろしていた。黒い肌にサングラス。茶色のスーツは、分厚い筋肉ではち切れそうに張り詰めている。
「……戻ったか。姫は見つかったのか?」
低く響いたその声に、広間の空気が一段重くなった。
ザイカスは反射的に膝を折り、床へ手をつく。
「も、申し訳ございません! まだ見つかっておりません! ……って、待て待て待てぇーい! なんでワシが謝っとるんじゃ! そこワシの椅子やろがぁーい!」
だだっ広い広間に、伸ばした片手だけが虚しく取り残された。
気まずい沈黙が流れる。
……何か言え。
そう思ったところで、大男がようやく椅子から立ち上がった。
「ふっ……冗談だ」
「冗談で社長の椅子に座るな!」
舌打ちしながら椅子に腰を下ろすと、残っていたぬくもりが尻にじっとりとまとわりついた。
くそっ、最悪だ。ドリントンめ。
顔をしかめたところへ、横合いからだるそうな声が飛んできた。
「で、社長。リオレス王の様子はどうだったんすか? 挨拶に行ったんでしょ?」
茶色のスーツをだらしなく着崩した壮年の男――ギースが、長卓の上に足を投げ出したまま尋ねてきた。
「あぁ、姫が消えたってのに、知らん顔だ。婚姻の儀を前にそんなことが表沙汰になれば大恥だからな。隠しておきたいんだろう」
「でも、探してすらいないのはおかしくないすかねぇ。一国の姫なんでしょ?」
「それはワシも気になってる。しかもだ。姫を狙った例の蜘蛛男、指名手配にすらなっていなかった」
ザイカスの口元に、にやりと笑みが浮かんだ。
「くせぇ……くせぇぞ。こいつは怪しい臭いがプンプンしやがる――いや待て! 本当に臭ぇーーっ!」
たまらず鼻を押さえ、ドリントンを睨みつける。
「またお前か! 今、屁をこいただろ!」
「ふっ……冗談だ」
「冗談になっておらん!」
怒鳴っても、大男は眉ひとつ動かさない。
いつもこうだ。突っ込んでも、黙って見ているだけ。最後には、こっちが勝手に滑ったみたいな空気になる。
これ以上追及したところで、まともな答えが返ってくるはずもない。
ザイカスは深く息を吐き、本題に戻った。
「それで、ギース。姫の手がかりは?」
「全然っすね。あちこち探させてますけど、いまだに収穫なしです。あんな雷撃食らってちゃ、もう死んでるんじゃないすかね」
「雷撃? 何のことだ?」
「あぁ、言ってませんでしたっけ。でかい狼が姫さん連れて、空を走って逃げてたんすよ。そこへ禿げたごつい爺さんがハンマー振って、雷撃をぶっ放したんす。あれはやばかった。なあ、ドリントン?」
「激ヤバだ」
二人の声は軽い。だが、ザイカスの顔からは余裕が消えていた。
「……間違いない。雷帝アモンドだな」
「雷帝? 誰ですか、それ」
「リオレス王家家臣団の総隊長だ。この国じゃ英雄扱いされているが、ワシらからすれば厄介者でしかない。やばい奴リストに書いていただろうが」
「見てませんね」
ギースは平然と肩をすくめた。
「まあ、とにかく直撃してましたんで、お姫さんも死んじまったんじゃないすかね」
「いいや、それはない。もし姫が死んでいれば、リオレスなど今ごろ跡形もなく消え去っているだろうからな」
「……どういうことすか?」
ザイカスは、その問いには答えなかった。
真相を知れば、こいつらが今まで通り動くとは限らないからだ。
「余計なことなど考えるな。お前らは姫さえ捕まえてくればいい。ギース、今すぐ探しに出ろ」
「えっ、面倒くさ」
あまりにも気の抜けた返事に、ザイカスのこめかみがぴくりと引きつった。
「面倒くさいで済むか! そもそも、お前らがしくじらなければ、ワシはこんな田舎で足止めを食わずに済んだんだぞ!」
「いや、あれは無理でしょう。まさかお姫さんの誘拐がバッティングするとは思わないですし」
「お前らがもたもたしていたからだろうが! せっかくワシが裏で手を回して、城に潜り込ませてやったというのに――」
「しゃあないやろ!」
妙に自信たっぷりな声が割り込んだ。
「この最終兵器、ステラ様がおらんかったんやからな!」
壁にもたれた女が、得意げに親指で自分を指していた。長い黒髪をポニーテールにまとめ、青い瞳に、すらりとした長身。露出の高い服装からは、豊かな胸元と張りのある太ももが惜しげもなく覗いている。
「なーにが最終兵器だ。そもそも、お前はあの時、何をしていた?」
「えっ。いや、それは……その……あれや。せやから、ちょっとした事情というか……まあ、その……」
「つまみだされた」
横から、ドリントンがぼそりと言った。
「あーっ! 何でばらすんや!」
「つまみだされた? どういうことだ?」
「い、いや、ちゃうねん。つまみだされた言うても、その……見回りの兵と激しい戦いの末に、ちょっと城の外へ……押し出されたというか……一旦引いた? みたいな?」
その苦しい言い訳を、ギースがあっさり切り捨てた。
「こいつ、お姫さんそっちのけで城の食糧庫を漁ってたんですよ。そこを見回りの兵に見つかって、追い出されました」
「あーっ! ギースまで!」
「なんでうちだけのせいにしとんねん! お前らもおったやろ! 捕まったんが、たまたまうちやっただけや!」
「何のことだ? 知っているか、ドリントン」
「……いや、全く」
「ふざけんなや!」
ステラがギースの胸倉につかみかかる。その勢いに椅子が大きく揺れ、床をこする音と、長卓のグラスが跳ねる音が広間に響いた。
それでも当のギースは、ふんぞり返ったままろくに相手もしない。
「ええい、やかましい!」
ザイカスが長卓をどんと叩いた。
「どうでもいいから、さっさと姫を探してこい!」
その一喝で、広間は一瞬だけ静まり返る。
だが、誰も反省した様子はない。ステラはむくれたように唇を尖らせ、ドリントンはなぜか満足げにうなずいている。
そんな中、ギースが頭をかきながら言った。
「悪いんすけど、今日はもう無理っすね」
「は? なんでだ?」
「今月の残業時間が上限に達しそうなんすよ。だから今日はもう無理っす」
「何くだらんこと気にしてやがる! お前、それでも悪党か! さっさと行け!」
怒鳴りつけると、ギースの口元が吊り上がった。
「いいんすか? ロベルタス・コーポレーションは、表向きは優良企業でしょ。違法残業を強いてるなんて世間に知られたら、まずいんじゃないですか」
言い終えると、わざとらしく肩をすくめた。
くそっ。人の弱みに付け込みやがって。
だが、変な噂でも立って、株主に知られようもんならワシは終わりだ。
「……分かった。なら、姫を連れてくれば、特別ボーナスを出してやる」
その一言に、ギースの目つきが変わった。
「よし、行くぞ、お前ら」
そう言うなり、さっさと広間を出ていってしまった。
「あっ、待ってぇや!」
ステラも慌てて後を追う。
……かと思えば、扉の前でくるりと振り返った。
「うちという最終兵器がおるんや。大船に乗った気持ちでおったらええで。えぇと……カス……カス……あれ? スカ……スカトール社長? 何やったっけ。まあええわ」
直後、ばたんと扉が乱暴に閉まった。
まったく、どいつもこいつも舐めやがって。
ザイカスはため息を吐き、長卓の上のワイングラスを手に取った。
だが、馬鹿にしていられるのも今のうちだ。
姫さえ手に入ればこっちのものだ。ロベルタス・コーポレーションはさらに大きくなる。金も権力も、今以上に集まってくる。
苦節六十年。ついに、ここまでのし上がった。
あと少し。
もう少しで、この世界はワシの思うがままだ。
「フッ、フッ、フッ……ハッ、ハッ、ハッ、ハーッ! ……ひ、ひひひ、ひぃーーっ! ――って、おい! くすぐるな!」
振り返ると、すぐ背後にドリントンが立っていた。
しばらく、無言で目が合う。
一拍。
二拍。
長い沈黙ののち、ドリントンは何も言わずに踵を返した。
「……えぇ……無視?」
ザイカスはグラスを握りしめたまま、遠ざかっていくその背を呆然と見送るしかなかった。




