シーン10 キカイ石の洞窟
イオンと一緒に海を眺めていると、坊主頭の男の子――コナーが駆け寄ってきた。
「ラクリマが採れる洞窟、見せてあげる!」
その勢いに押され、俺たちはコナーについていくことになった。オビィは虫がいるから絶対に嫌だと、頼んでもいないのに拒否したため、俺とイオンだけが彼に案内されて、断崖沿いの細い道へ向かった。
道幅はかなり狭く、少し足を踏み外せば、そのまま崖下まで真っ逆さまだ。手すりなどもちろんない。右手には白く輝く岩壁が迫り、左手のはるか下では、青い海が陽光をきらきらと跳ね返していた。
前を行くイオンの足取りは、崖道に入った途端、目に見えて慎重になった。無理しない方がいいとは言ったのだが、それでも行ってみたいとのことだった。
「足元、気をつけてな」
そう言うと、イオンは小さくうなずき、両手を白い岩壁に添えた。足元を一つ一つ確かめながら、半歩ずつ慎重に進んでいく。一歩踏み出すたび、細い肩がこわばるのが後ろからでも分かった。
やがて、壁沿いに滑らせていた指先が何かに触れた、と思った瞬間――
「きゃあっ!」
彼女は弾かれたように体を引いた。
「イオン!」
慌てて右腕を伸ばし、その体を引き寄せる。足元から小石がいくつか崖下へ転がり落ち、白く砕ける波間へ吸い込まれていった。あと半歩でも体が崖側へずれていたら、本当に落ちていた。
「な、何してるんだ! 危ないだろ!」
「ご、ごめんなさい……」
イオンはしょんぼりとうつむき、すっかり縮こまってしまった。目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「あぁ、いや、こっちこそ大声出して悪かった」
……言い過ぎたな。
どうしたもんかと困っていると、「たぶん、こいつだよ」と横から声がした。
見ると、コナーの手の中で真っ白な小さなトカゲがじたばたともがいていた。岩肌とほとんど同じ色だ。これじゃ気づかないのも無理はない。
「一人じゃ心配だな。一緒に行こう」
腕を差し出すと、イオンがおずおずと手を添えてきた。少しでも崖から離れられるよう、そのまま彼女を壁側へ促し、俺が外側を歩くことにする。
「絶対押すなよ?」
冗談のつもりで言うと、その表情が少しだけ緩んだ。
それからは、二人並んで崖道を進んだ。
イオンは最初、俺の袖を控えめにつまんでいるだけだったが、海から風が吹き上げるたびに少しずつ身を寄せてきた。さっきの恐怖がまだ残っているらしい。しっかり掴まっていてくれた方がこっちも安心だと思っていたのだが、気づけばほとんど体を預けるように、ぴったりと寄り添っていた。
当然、当たるものは当たる。
柔らかな彼女の胸が腕に押し当てられ、思わず口元が緩んだ。あぁ、ふかふかだ。それに、あったかい。良いことはするもんだな。
……いや、まずいだろ。
そのよこしまな考えを打ち消すように、小さく咳払いをする。
「イ、イオン」
「……はい?」
「その……言いにくいんだが」
イオンは不安そうに目を瞬かせた。
「胸が当たってる」
その一言に、彼女の動きがぴたりと止まった。頬がみるみる赤くなっていく。
「……っ!」
次の瞬間、胸をどんと押された。
不意を突かれて足を踏み外し、気づけば体は崖の外へ投げ出されていた。慌てて伸ばした右手でどうにか縁にしがみつく。
「落ちる落ちる落ちるっ!」
我ながら情けない叫び声が、断崖に響いた。
***
何とか自力で崖道へ這い上がり、俺たちはコナーに案内されるまま洞窟の中へ足を踏み入れた。
中は思った以上に広く、壁のあちこちに横穴が黒く口を開けていた。その奥はどれも暗く、先がまるで見えない。コナーの手元で揺れる灯りだけが、濡れた足元を白くぼんやり照らしていた。
「この洞窟、危なくないのか?」
「ぜんぜん! ラクリマ採りにいつも来てるもん!」
そう言って、コナーは気にした様子もなく奥へ進んでいく。
あの足取りを見る限り、たぶん大丈夫なんだろう。
「イオン。行こうか」
そう声をかけると、彼女は小さくうなずき、今度は体が当たらないよう少し距離を取り、俺の腕をそっと掴んだ。
あの柔らかな感触が恋しくはあったが、もちろん口には出さなかった。
そのままコナーの灯りを頼りに、洞窟の奥へ進んでいく。足元はところどころ湿っていて、濡れた岩に足を取られそうになる。天井から落ちた水滴が、ぽつん、ぽつんと暗がりに響き、その音だけが妙に大きく聞こえた。
いくつかの分岐を抜けたところで、コナーが足を止めた。曲がり角の先から、淡い緑の光がかすかに漏れている。
「ここだよ!」
角を曲がった瞬間、思わず息が漏れた。
「こりゃ……凄いな」
広い空間の天井や壁から、水晶のような鉱石が突き出し、淡い緑の光を放っている。その光は明滅を繰り返し、まるで洞窟全体が静かに呼吸をしているみたいだった。
「見てきていいですか?」
イオンが、ちらりとこちらを見上げた。別に許可を取らなくてもいいんだが。そう思いながら「ああ」と返すと、彼女は緑の光に誘われるように、近くの鉱石へ歩いていった。
「ねぇ、すごいでしょ」
コナーが胸を張った。
「あぁ、キカイ石って、こんなふうに岩から出ているんだな。触ってもいいのか?」
「うん。僕たちが触ると吸収しちゃうけど、おじさんは人間だから大丈夫だよ」
おじさん?
そこは少し引っかかったが、今はそれよりキカイ石だ。そっと指先を伸ばし、淡く光る鉱石に触れてみる。
ほんのり温かい。
何てことはないエネルギーの結晶体だ。このままでも使えなくはないが、せいぜい弱い明かり程度だろう。色々なキカイに使うなら、このエネルギーを安定して留めておき、必要な分だけ取り出せる仕組みがいる。
……なるほど。それでイグナイトか。
「コナー、空のイグナイトは持ってたりしないのか?」
「あるよ。ほら、これ」
渡されたのは、直径三センチほどの無色透明な小球だった。ガラス玉に見えるが、指で押すとはっきり弾力がある。
確かコナーたちは肌で触れて、キカイ石の力を吸収していたな。じゃあ、こいつも同じように触れさせればいいのか?
そう思ってイグナイトを壁の鉱石へ近づけると、コナーが慌てて声を上げた。
「だめだよ! 直接当てたら、よーりょーオーバーになっちゃう。こうするの!」
コナーが腰の小さなトンカチでキカイ石をこつんと叩く。すると、足元に欠片がころりと落ちた。
「この小さいのに当ててみて」
言われた通り、欠片にイグナイトを触れさせる。すると、透明だった球はたちまち赤みを帯び、代わりにキカイ石の欠片はすうっと緑の光を失った。
へぇ、簡単だな。
イグナイトを目の高さへ持ち上げ、角度を変えながら透かすように眺める。内側では、赤い光がぼんやりと揺れていた。
「それで、こいつはどうやって使うんだ?」
「ちょっとだけつまんでみて。ちょっとだけだよ」
言われるまま指先で軽くつまむと、ぐっと押し返されるような反発と共に、じんわりと熱が伝わってきた。
「……へぇ、あったかくなった」
「他にも、冷たくなったり、風が出たり、びりびりしたりするのもあるんだよ」
指を折って数えながら、コナーは得意そうに言った。
「でも、強く握ると危ないから気をつけてね」
危ないって、何がどう危ないんだ?
尋ねようとした、そのときだった。
「きゃああああっ!」
突き刺さるような甲高い悲鳴が洞窟に響いた。
「イオン!」
考えるより先に、石床を蹴る。悲鳴のした方へ駆けて岩壁を回り込むと、イオンが壁際に座り込んでいた。顔は青ざめ、震える指で洞窟の奥の暗がりを指している。
「どうした、何があった?」
「む、虫が……」
その言葉に、張り詰めていた肩の力が少し抜けた。何だ、イオンもかよ。やれやれ、たかが虫くらいで――。
そう思いながら暗がりへ目を向けた瞬間、全身が固まった。
巨大なクモだ。大人の背丈ほどもある黒い体が、キカイ石の淡い光を遮るように暗がりの奥で蠢いている。頭部に並んだ無数の目が、ぎらぎらと光っていた。
いやいやいや、でかすぎんだろ。
逃げるか?
だが、イオンは腰を抜かしたまま立ち上がれそうにない。迷っている間にも、巨大グモは腹を低く沈め、ぎち、と嫌な音を立てて脚を踏ん張った。
次の瞬間、八本の脚が一斉に動き出す。
まずい! とっさにイオンの前へ出ると、背後からコナーが叫んだ。
「おじさん! イグナイトをあいつにぶつけて!」
迷っている暇はなかった。手の中のイグナイトを、巨大グモへ思い切り投げつける。赤みを帯びた球体が黒い腹へぶつかってぎゅっと縮んだ途端、ぼうっ、と赤い炎が巻き上がった。
炎に包まれた巨体が激しくのたうち、耳障りな悲鳴が洞窟に反響する。焦げた臭いが鼻を刺す中、その動きは次第に鈍くなり、やがて力尽きるようにその場へ崩れ落ちた。
やったか?
恐る恐る近づいてみると、巨大グモは炭のように黒く焼け焦げ、そのそばに色を失ったイグナイトが転がっていた。拾い上げてみると、赤みは消え、弾力も元に戻っている。
なるほど。押し込み具合で出力が変わるのか。握り過ぎると危ないってのはこのことだったんだな。
ほっと息を吐き、色の抜けたイグナイトを握りしめて、イオンの元へ戻った。
「大丈夫か?」
手を差し出したが、イオンはそれに気づいた様子もなく、俺の背後を見つめていた。その顔から、さっき以上に血の気が引いている。
「どうした?」
「バ、バンさん……」
その震える声に、嫌な予感が背筋を這い上がった。ゆっくりと振り返る。
倒れた巨大グモのさらに奥で、いくつもの脚が重なり合うように動いていた。黒い影が何匹も、音もなくこちらへ這い出してくる。
「嘘だろ……」
まずい。もう使えるイグナイトがない。代わりになるものはないかと、必死に辺りを見回す。
「どいて!」
コナーが俺の横をすり抜けた。首筋の黒い紋章が赤く染まり、細い体を包むように光が走る。何をするのかと思う間もなく、コナーは迫る巨大グモの群れへ掌を掲げた。
「えいっ!」
拍子抜けするほど軽い掛け声だった。
だが次の瞬間、その手の前で赤い光が爆ぜた。八歳の子供が放ったとは思えないほどの炎が洞窟を赤く染め、迫っていた群れを暗がりごと呑み込んだ。
炎の中で何匹もの黒い影が激しくのたうい、床を掻く耳障りな音が洞窟中に響き渡る。だが、それも長くは続かなかった。
やがてその音も途絶え、残ったのは黒く焼け焦げた残骸だけだった。
「大丈夫だった?」
炎の熱がまだ残る中で、コナーがけろりとしてこちらを見た。
すぐには返事ができなかった。焼け焦げた巨大グモの残骸と、何事もなかったように立っているコナー。その差が、あまりにも大きすぎた。
「つ、強いんだな、コナー」
ようやくそれだけ絞り出すと、コナーはきょとんと首をかしげた。
「えっ、そう? ただの虫じゃない」
ただの虫、か。
確か、八歳って言ってたよな? あんな小さい体で、この威力。神族ってのは、歩く高容量イグナイトみたいだな。
コナーが灯りを揺らしながら、背後の通路を振り返った。
「そろそろ帰る? 暗くなったら、崖の道あぶないよ」
「ああ、そうだな。イオン、立てるか?」
差し出した手を取ってゆっくり立ち上がると、イオンはそのまま俺の腕をぎゅっと掴んできた。
胸元の柔らかな感触が、しっかりと腕に伝わってくる。
……今度は何も言うまい。
そう固く心に誓い、俺は何食わぬ顔で歩き出した。




