シーン9 はじめての海
「でねでねっ? 聞いて聞いてぇ! そのお茶にね、なーんと、ラクリマのかけらが入ってたみたいでぇ!」
やけに上機嫌な声が、食堂に響く。
食事が終わってからというもの、オビィはずっと一人で話し続けていた。子供たちはとっくに外へ逃げ出し、残っているのは俺とイオンだけだった。
ラクリマというのは、神族にとってのキカイ石の呼び名らしい。人間がキカイという技術を生み出し、その動力源として使うようになってから、キカイ石と呼ばれるようになったのだとか。だが、まともな収穫と言えば、それくらいしかなかった。
オビィの口から出てくるのは、ラクリマで傷がすぐ治るからイタ気持ちいいプレイも大歓迎だの、うっかりラクリマを飲み込んでしまい尻がえらいことになっただの、興味もない下世話な話ばかりだ。
「――それでねそれでねっ? どうなったと思う? これがもう、すっごいのよぉ! なーんと、そのまま尻から出てきたの!」
そう言って腹を抱えるオビィに、俺もイオンも一言も返さなかった。
当然だ。今の話、もう何度も何度も聞いている。こっちはもう相槌すらしてないっていうのに、よく一人で続けられるよな。
……いや、待てよ。
これだけ勝手に盛り上がっているなら、俺がこっそり消えても気づかないんじゃないか?
よし、やろう。
音を立てないように、椅子を少しだけ引く。床がかすかに鳴ったが、オビィはこちらを見もしなかった。
ほっと息を吐き、ゆっくり腰を上げる。
そのままオビィに背を向けた、その瞬間。
「どこ行くのよ?」
低い声が、背中に刺さった。
くそっ、ばれた。
「あ、ああ、いや……ちょっとウンコに」
「ウンコ〜? ったく、しょうがないわねぇ。この家を出て、壁沿いにぐるっと回ったところよ。まだ話の途中なんだから、急いで戻ってきなさいよ!」
それは困る。またあの無限ループに巻き込まれるのだけはごめんだ。
「……いや、この腹の感じ……一時間はかかりそうだ」
わざとらしく腹を押さえてみせる。
「一時間!? どんだけでかいクソひねり出そうとしてるのよ」
「じ、じゃあ、そういうことだから、行ってくる」
これ以上突っ込まれると面倒だ。早めに話を切り上げて退散しようとしたところで、袖が何かに引っかかった。
振り返ると、イオンの細い指が、俺の袖をしっかり握っていた。頼りない手つきに見えて、離す気配はまるでない。
彼女の唇が小さく動いた。けれど、声は出なかった。潤んだ目だけが「置いていかないで」と訴えていた。
その気持ちを察して、思わず苦笑する。
「……一緒に行くか?」
そう聞くと、イオンはすぐにこくこくと頷いた。
「なーに? もしかしてイオンちゃんもウンコ?」
オビィはさらりと言い放った。
女の子に向かって何を聞いてるんだよ、こいつは。
案の定、イオンは言葉を失い、白い頬をみるみる赤く染めていく。
それでも、ここに残る方がよほど嫌だったのだろう。顔を伏せたまま、恥ずかしそうに小さく頷いた。
「はぁ~っ、全く、これだから人間は。でも、イオンちゃんはそんなにかからないわよね。終わったらすぐ戻ってくるのよ」
にっこり笑うオビィに、イオンは「えっ」とでも言いたげに顔を上げた。
すぐにまたこの空間へ戻らなければならない。そう理解したのか、その表情が曇る。
袖を握る細い指に力がこもり、俺の袖がほんの少し引かれた。
少し間を置いて、何かを思いついたのか、イオンの目がわずかに揺れた。けれど、それを口にしていいのか迷っているのか、うつむいたまま何も言わない。
やがて、逃げ場を失ったみたいに、小さな声が漏れる。
「……に、二時間くらい、かかります」
「にじかん!?」
オビィは目をひんむき、椅子から転げ落ちそうな勢いでのけぞった。
食堂に、何とも言えない沈黙が落ちる。
「い、いやぁ、驚いたわ。人は見かけによらないものね……。はみ出させないようにだけ気を付けてね」
イオンはますますうつむいた。耳の先まで真っ赤になり、握った袖を顔の前まで引き寄せて、必死に表情を隠そうとしていた。
***
廊下を抜け、外へ続く扉を開ける。
その瞬間、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。
目の前には、陽光を浴びた芝生が一面に広がっていた。短い草が潮風に撫でられ、きらきらと光りながら波のように揺れている。
その緑の先で地面は断崖となって切れ落ち、その向こうには、青い海がどこまでも広がっていた。
「へえ……いいところじゃないか」
風は暑くも寒くもなく、ただ心地よかった。耳に届くのは穏やかな潮騒と、遠くで遊ぶ子供たちの声だけだ。食堂で聞かされ続けた下品な声が、波の音にまぎれて遠ざかっていくようだった。
ふと隣を見ると、イオンが海を見つめたまま固まっていた。瞬きひとつせず、大きく見開いた目は、ただ目の前の海に釘付けになっている。
どうしたんだ? 何か面白いものでも見つけたのか?
そう思って見ていると、彼女は芝生へそっと足を踏み出した。一歩、また一歩。
最初は確かめるような歩き方だったのに、進むほどに足取りは早くなり、最後には海の方へ駆け出していく。
何だ、あれ、と目で追っていると、ふいに肩にずしりと重みが乗った。
振り返らずとも分かる。オビィだ。
「何もたもたしてるのよ。ウンコはどうしたのよ?」
まずい。疑ってついてきたのか。何とかごまかさないと。
「い、いやー……すごい眺めだな、ここ。ほら、あれだ。オーシャンビューってやつか? 人も少なくて静かだし、なかなか贅沢な場所じゃないか」
作り笑顔で、適当にほめてみる。
さすがに無理があるかと思ったが、意外にもオビィはあっさり機嫌を直した。
「そうでしょ、そうでしょ。ここは、リオレス王国の南の端よ。周りは危ない森で覆われているから、ほとんど人が来ないの。いわゆる穴場ってわ~け♡」
どうやら気はそれたらしい。ほっとしながら背後へ目をやる。
岬の背後一帯を、うっそうとした森が覆っていた。背の高い木々が幾重にも重なり、左右どちらへ目を向けても、壁のように行く手を塞いでいた。
簡単には外へ抜けられそうにない森だ。
その森のはるか向こうに、昨夜見た巨大な木がそびえていた。暗闇の中では輪郭しか分からなかったが、明るいところで見ると、ますます常識外れな大きさだった。
山のように太い幹から広がる枝葉が、岬の芝生にまで木漏れ日を落としていた。風が吹くたび、その淡い光の斑がゆらゆらと揺れる。
「あんまり端っこに行かないのよ!」
突然、オビィが大声を上げた。
何事かと振り返ると、断崖の縁にイオンが立っていた。
崖下を食い入るように見つめている。岩に波が砕ける音が、風に混じってかすかに届く。その音が響くたび、細い肩がびくりと震えた。
ふいに、頭上を大きな影が横切った。
イオンの視線が、その影を追うように空へ向かう。その先で、青と白の巨大な鳥がゆったりと舞っていた。
……でかい鳥だな。あれなら、人を乗せて飛べそうじゃないか。
そんなことを考えながら、もう一度イオンを見る。
彼女はまだ、断崖の縁に立ったままだった。風に髪を揺らされながら、ただ黙って、陽光にきらめく海を見つめている。
確かに、いい景色ではある。
だが、言っちゃ悪いが、俺はこれくらいの景色なら何度も見てきた。五分もすれば、飽きてくる。
そこまで見入るようなものでもないだろうに。
「……何がそんなにいいんだ?」
思わず口にすると、オビィが珍しく静かな声で答えた。
「そりゃあ、生まれて初めて見る海だからね。ああなるのも無理ないわよ」
「へぇ、そうなのか――って、生まれて初めて!? そりゃどういうことだよ」
「あら、そのままの意味よ。イオンちゃんはね、生まれてから十八年間、お城の外へ出たことがなかったのよ」
「はっ?」
思わず声が漏れた。
生まれてからずっと?
十八年も?
そんなことあるか?
そりゃ生きてたら嫌になって閉じこもることもあるだろうが、生まれてからずっとって。筋金入りのひきこもリストじゃないか。
だが、そう言われると色々と納得がいってきた。全然目は合わないし、やけにびくびくしているし、口数も少ない。どこか小さな子供みたいだとは思っていた。
なるほどな。だったら、人とまともに関わるのが苦手でもしょうがないか。
今日が生まれて初めての海ってわけか。
そう思いながら、イオンを見やる。
潮風にあおられた金色の髪が、肩から背中へさらさらと流れ、またふわりと浮き上がる。彼女は身じろぎもせず、ただじっと海を見つめていた。
どんな顔をしているんだろう。
急にそんなことが気になって、気づけば、足が断崖の方へ向いていた。
芝生の上を、そっと近づいていく。
ふいに、少し強い潮風が吹いた。イオンの髪がさらわれるように揺れる。彼女は片手で髪を押さえながら、それでも海から目を離さなかった。
声を出さずに、ゆっくりと歩み寄る。やがて、肩が並ぶ少し手前まで来たところで足を止めた。
さてと、お顔を拝見――。
興味半分で、そっと覗き込む。
その瞬間、息が止まりそうになった。
彼女の横顔は、思わず見入ってしまうほど綺麗だった。陽光がすっと通った鼻筋を照らし、わずかに開いた唇の端に小さな影を落としている。大きく見開かれた瞳は、海から跳ね返る光を受けて、濡れたようにきらきらと輝いていた。
「……きれいだな」
思わず、声に出していた。
まずい。
何を口走ってるんだ、俺は。慌てて海に視線を戻す。
ちらりと横目で様子を窺うと、イオンは水平線を見つめたまま、かすかに頷いた。
「……はい」
その瞳には、ただ青い海だけが映っていた。




