日本人町の象防柵 ―長篠の再来―
日本人町の北の空が、赤紫色に染まっていく。
太陽はとっくに西の空に沈み、本来なら満天の星が輝く時間だ。
だが、星々の光を掻き消すほどに、王宮の方角から迫りくる王軍の業火が夜空を焦がしていた。
南北を貫く目抜き通りは、逃げ惑う人々の怒号と喚声で響き渡っている。
「押さないで! 子供を先に! 南の船着き場へ急げ!」
町年寄たちの制止も虚しく、約三千の住人を抱える町は混乱の極みにあった。
平時には活気あふれる目抜き通りも、今は家財道具を一家や、親とはぐれた幼い子供たちが右往左往する地獄絵図だ。
お滝は町会所の前で、泣きべそをかきながら慕ってくる数人の子供たちの頭を、慈しむように優しく撫でた。
視線の先では、広場で避難の指示に忙しなく動くハナの姿がある。
(ああ、いよいよ来たのね……)
耳を劈く怒号も、炎の爆ぜる音も、今のお滝の意識から遠のいていく。
彼女の顔から迷いの色が消え、優しく子供たちの背をハナの方へと押し出した。
「ハナ、南門の葦の茂みに隠した平底船が数隻あるわ。この子たちを連れて対岸のポルトガル人居留区へ逃げ込みなさい。いいわね、決して戻るんじゃないわよ」
「お母様は……? お母様はどうするの!」
ハナの問いに答えず、踵を返すと町会所の奥へと消えた。
部屋の片隅に置かれた、煤けた長持を引っ張り出した。
蓋を開けると、そこには亡き夫の形見の武具、赤い胴丸が収まっていた。
お滝は慣れた手つきで手拭いを首から外し、鉢巻にして強く締めた。
古びた鎧の小札が擦れ合い、カチカチと擦れあう音が鳴る。
「お母様……?」
ハナはその母の姿に息を呑んだ。
目の前にいる母は、鯰の蒲焼を焼いていた陽気な商人の「お滝さん」ではない。
一分の隙もない、戦場の空気を纏った「武家の女」の姿だった。
「ハナ、早く行きなさい。あたしはこの町を守るよ。……“あの方”との約束なのさ」
ハナは一瞬、母の言葉にどきりとしたが、聞こえぬふりをして「ほら、早く!」と子供たちを促し南門へと走り出した。
*
日本人町は、西を流れるチャオプラヤ大河を天然の堀とした、南北に長い“要塞”と化していた。
レックが構築した「竹柵の陣」は、北、東、そして河沿いの三方に張り巡らされている。
特に、チャオプラヤ河の土手には、三百メートルにわたって鋭く削りされた無数の竹を幾重にも重ねた逆茂木が突き刺されていた。
かつて、織田信長が武田の騎馬軍団を三河の長篠で破った馬防柵を、ここでは“象防柵”として機能させる狙いだ。
唯一、南門だけは柵を最小限に留めていた。
そこは三千人の命を対岸のポルトガル人居留区へと逃がすための、細い「命の糸」だった。
対して、北の闇から迫るカラホムの象背部隊は十二頭。
一頭につき十名の歩兵が付き従い、総勢五百を超える兵団が赤土を跳ね上げて迫る。
日本人町の軍勢は、算盤を捨て鉄砲を担いだ商人、老若男女、軍の素人を含めても僅か三百に満たない。
「北を抜かれれば、南の避難民まで一気に飲み込まれるぞ……!」
レックは火の見櫓から、暗闇に蠢く巨大な影を睨みつけた。
「あのぉ、軍師様……本当にこれだけで、あの山のような獣を仕留めることができるのですか?」
陶器屋の五助が、震える指で弓の弦を弾きながら見上げて問う。
長次郎ら町の若者たちが、不安げに顔を強張らせている。
「仕留めるのではありません、歩みを鈍らせるのです。その重さの均衡を崩せば動けなくなる。いいですか、よく引き付けてからです!」
レックは櫓から降り、一人一人の弓を手に取って弦の張り具合を確かめて回った。
その時、人気が途絶えた目抜き通りを、鎧が擦れ合う音が近づいてきた。
お滝だった。
長槍を携えた彼女の姿にレックは息を呑んだ。
彼女はレックを優しく見つめ、静かに口を開いた。
「レック様……これは、亡き亭主の形見の鎧でございます。昔、あるお坊さんに命を救われたことがありました。清らかな袈裟をまとい、未来のこと未来の言葉で語る御仁でした。亭主が最期にこう言い残したのです―『いつか必ず、その方と同じ気配を持つ若者が現れる。その時は、命を懸けてでも守り抜け』と……」
お滝の指先が、レックの右頬に触れた。
バリケード戦で負った火傷の痕。
「その火傷の痕……あの方の顔にあったものと、まったく同じ場所に……」
レックの心臓が跳ねた。
お滝やハナが最初から自分を“特別な存在”として優しくしてくれた理由。
彼女たちは、自分の“過去の姿”と“未来の姿”を知っているのか?
もし自分がその僧侶だったとしたら、この戦いの結末も、そのあとの自分の運命も、すでにこの歴史の中に書き込まれているということか!
その瞬間、レックの中で何かが弾けた。
(……宿命だろうが、因果だろうが、関係ない、今、この時を生き抜くのだ……)
レックは火縄銃の引き金にかけた指に力を込め、お滝と視線を合わせた。
そこにはもはや迷いはなかった。
「軍師様、さぁ、号令を。この槍は、まだ錆びてはおりませぬぞ」
その瞬間だった。
最前線の竹柵が、先頭の戦象の重圧によって砕け散った。
狂ったように突き進もうとした巨体が、ガクリと前のめりに崩れる。
隠されていた落とし穴の底で、無数の竹杭がゾウの柔らかな足裏を深く貫いたのだ。
断末魔の咆哮が夜空を裂く。
狂乱したゾウが後続の兵をなぎ倒し、カラホム軍の進撃が止まった。
「第一列、放てっ!」
レックの号令とともに、硝煙が夜を貫く。
お滝は鎧を軋ませながら、誰よりも先に槍を突き出し、押し寄せるカラホム軍の波へと向かって一歩を踏み出した……。
(つづく)




