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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第十章 不落のアユタヤ象防柵

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日本人町の象防柵 ―長篠の再来―

 日本人町の北の空が、赤紫色(あかむらさき)に染まっていく。


 太陽はとっくに西の空に沈み、本来なら満天の星が輝く時間だ。


 だが、星々の光を掻き消すほどに、王宮の方角から迫りくる王軍の業火(ごうか)が夜空を焦がしていた。


 南北を貫く目抜き通りは、逃げ惑う人々の怒号(どごう)喚声(かんせい)で響き渡っている。


 「押さないで! 子供を先に! 南の船着き場へ急げ!」


 町年寄たちの制止も虚しく、約三千の住人を抱える町は混乱の極みにあった。


 平時には活気あふれる目抜き通りも、今は家財道具を一家や、親とはぐれた幼い子供たちが右往左往する地獄絵図だ。


 お滝は町会所の前で、泣きべそをかきながら慕ってくる数人の子供たちの頭を、慈しむように優しく撫でた。


 視線の先では、広場で避難の指示に忙しなく動くハナの姿がある。


 (ああ、いよいよ来たのね……)


 耳を(つんざ)く怒号も、炎の()ぜる音も、今のお滝の意識から遠のいていく。


 彼女の顔から迷いの色が消え、優しく子供たちの背をハナの方へと押し出した。


「ハナ、南門の葦の茂みに隠した平底船が数隻あるわ。この子たちを連れて対岸のポルトガル人居留区へ逃げ込みなさい。いいわね、決して戻るんじゃないわよ」


「お母様は……? お母様はどうするの!」


 ハナの問いに答えず、(きびす)を返すと町会所の奥へと消えた。


 部屋の片隅に置かれた、(すす)けた長持(ながもち)を引っ張り出した。


 蓋を開けると、そこには亡き夫の形見の武具、赤い胴丸(どうまる)が収まっていた。


 お滝は慣れた手つきで手拭いを首から外し、鉢巻にして強く締めた。


 古びた鎧の小札(こざね)が擦れ合い、カチカチと(こす)れあう音が鳴る。


「お母様……?」


 ハナはその母の姿に息を呑んだ。


 目の前にいる母は、鯰の蒲焼を焼いていた陽気な商人(あきんど)の「お滝さん」ではない。


 一分の隙もない、戦場の空気を(まと)った「武家の女」の姿だった。


「ハナ、早く行きなさい。あたしはこの町を守るよ。……“あの方”との約束なのさ」


 ハナは一瞬、母の言葉にどきりとしたが、聞こえぬふりをして「ほら、早く!」と子供たちを促し南門へと走り出した。



 日本人町は、西を流れるチャオプラヤ大河を天然の堀とした、南北に長い“要塞”と化していた。


 レックが構築した「竹柵の陣」は、北、東、そして河沿いの三方に張り巡らされている。


 特に、チャオプラヤ河の土手には、三百メートルにわたって鋭く削りされた無数の竹を幾重にも重ねた逆茂木(さかもぎ)が突き刺されていた。


 かつて、織田信長が武田の騎馬軍団を三河の長篠で破った馬防柵を、ここでは“象防柵”として機能させる狙いだ。


 唯一、南門だけは柵を最小限に留めていた。


 そこは三千人の命を対岸のポルトガル人居留区へと逃がすための、細い「命の糸」だった。


 対して、北の闇から迫るカラホムの象背(ぞうはい)部隊は十二頭。


 一頭につき十名の歩兵が付き従い、総勢五百を超える兵団が赤土を跳ね上げて迫る。


 日本人町の軍勢は、算盤(そろばん)を捨て鉄砲を担いだ商人、老若男女、(いくさ)の素人を含めても僅か三百に満たない。


「北を抜かれれば、南の避難民まで一気に飲み込まれるぞ……!」


 レックは火の見櫓から、暗闇に蠢く巨大な影を睨みつけた。


「あのぉ、軍師様……本当にこれだけで、あの山のような獣を仕留(しと)めることができるのですか?」


 陶器屋の五助が、震える指で弓の弦を弾きながら見上げて問う。


 長次郎ら町の若者たちが、不安げに顔を強張らせている。


「仕留めるのではありません、歩みを鈍らせるのです。その重さの均衡を崩せば動けなくなる。いいですか、よく引き付けてからです!」


 レックは櫓から降り、一人一人の弓を手に取って弦の張り具合を確かめて回った。


 その時、人気が途絶えた目抜き通りを、鎧が擦れ合う音が近づいてきた。


 お滝だった。


 長槍を携えた彼女の姿にレックは息を呑んだ。


 彼女はレックを優しく見つめ、静かに口を開いた。


「レック様……これは、亡き亭主の形見の鎧でございます。昔、あるお坊さんに命を救われたことがありました。清らかな袈裟をまとい、未来のこと未来の言葉で語る御仁でした。亭主が最期にこう言い残したのです―『いつか必ず、その方と同じ気配を持つ若者が現れる。その時は、命を懸けてでも守り抜け』と……」


 お滝の指先が、レックの右頬に触れた。


 バリケード戦で負った火傷の痕。


「その火傷の痕……あの方の顔にあったものと、まったく同じ場所に……」


 レックの心臓が跳ねた。


 お滝やハナが最初から自分を“特別な存在”として優しくしてくれた理由。


 彼女たちは、自分の“過去の姿”と“未来(いま)の姿”を知っているのか?


 もし自分がその僧侶だったとしたら、この戦いの結末も、そのあとの自分の運命も、すでにこの歴史の中に書き込まれているということか!


 その瞬間、レックの中で何かが弾けた。


(……宿命だろうが、因果だろうが、関係ない、今、この時を生き抜くのだ……)


 レックは火縄銃の引き金にかけた指に力を込め、お滝と視線を合わせた。


 そこにはもはや迷いはなかった。


「軍師様、さぁ、号令を。この槍は、まだ錆びてはおりませぬぞ」


 その瞬間だった。


 最前線の竹柵が、先頭の戦象の重圧によって砕け散った。


 狂ったように突き進もうとした巨体が、ガクリと前のめりに崩れる。


 隠されていた落とし穴の底で、無数の竹杭がゾウの柔らかな足裏を深く貫いたのだ。

 

 断末魔(だんまつま)咆哮(ほうこう)が夜空を裂く。


 狂乱したゾウが後続の兵をなぎ倒し、カラホム軍の進撃が止まった。


「第一列、放てっ!」


 レックの号令とともに、硝煙が夜を貫く。


 お滝は鎧を軋ませながら、誰よりも先に槍を突き出し、押し寄せるカラホム軍の波へと向かって一歩を踏み出した……。


(つづく)

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