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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第十章 不落のアユタヤ象防柵

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僧侶の伝言

 船底が泥を(こす)る音が、深夜の運河に重苦しく響く。


 南門の(あし)の茂みから滑り出した数隻の平底船(ひらぞこせん)は、泣き叫ぶ子供たちと母親たちを乗せてチャオプラヤの濁流へと押し出された。


 ハナは船尾で懸命に竿を操りながら、遠ざかっていく日本人町の光景を見つめていた。


 背後からは、夜気を引き裂く戦象の咆哮と、レックたちが放つ火縄銃の爆ぜる音が届く。


 それは、戦国の世を生き延び、この異国でようやく築き上げた平和な暮らしを、再び戦火の渦中へと引き戻す弔鐘(ちょうしょう)の響きのようだった。


「おハナさん、おハナさんの母上は……どうなっちゃうの?」


 膝を抱えて震える少年が、弱々しく衣の裾を掴む。


 ハナは唇を噛み、折れそうな心を、槍を振るい奮闘する「お滝」の残像で繋ぎ止めた。


「大丈夫よ。母はもう少ししたらここに来るからね……。さあ、立って。もうすぐ岸よ」


 ハナは対岸のぬかるんだ土手に船を寄せると、震える小さな体を引き寄せ、一人ずつしっかりと抱きかかえて岸へと押し上げた。


 対岸のポルトガル人居留区(きゅりゅうく)へ足を踏み入れた瞬間、ハナの胸の奥で、長い間「御伽噺おとぎばなし」として眠っていた古い記憶が、(にわ)かに色彩を伴って蘇った。


 それはまだ十にも満たぬ頃、蒸し暑い午後の昼寝の時間に、母、お滝から聞かされた話だ。


 かつて裏庭の木陰に現れたという、奇妙な僧侶の物語。


 色褪せているが塵一つない袈裟(けさ)(まと)い、現世の理から外れたような奇異な日本語とタイ語を話した男。


 彼は父、伊三郎(いざぶろう)が戦役で胸を深く貫かれ、村の祈祷師(きとうし)さえ(さじ)を投げた時、忽然(こつぜん)と現れたという。


 呪文や祈祷の代わりに、迷いのない手つきで白い布を裂き、見たこともない鋼の道具で父上の傷を縫い合わせ、父を死の淵から救い出した命の恩人。


『いいかい、ハナ』


 寝床でお滝は、ハナの頭を撫でながら静かに語り継いだ。


『そのお坊様はね、別れ際にこう言ったんだよ。「いつか、僕と同じ瞳をし、僕と同じ火傷(やけど)を負った男がこの町に現れる。その時、彼は自分の正体に迷い、進むべき道を見失うだろう」ってね』


 僧侶の右頬には、今のレックと全く同じ場所に、消えることのない火傷の痕があったという。


『ハナ、その人が来たら、あんたがその人の眼となり耳になってあげるんだよ。あんたの声が、迷えるあの方の道標(みちしるべ)になる。それが、父上の命を救ってくれたお坊様への恩返しになるんだから』


「……そうだったのね。私は、このために此処にいるんだわ」


 ハナは確信した。


 自分がなぜ、レックの放つ独特の言い回しや、彼の奥底にある孤独にこれほど()かれ、理解できてしまうのか。


 すべては、あの僧侶が母、お滝を通じて自分に遺した、時を超えた「伝言」のせいだったのだ。


 ハナは子供たちを居留区の教会へ預けると、止める修道士を突き飛ばすようにして、再びチャオプラヤ河の岸壁へと走った。


 暗い水面に漕ぎだしたとき、前方に浮かぶ巨大な“城”が目に入った。


 スペイン艦隊のガレオン船――デル・ロサリオ号――。


 甲板の上では、以前、長政とレックが乗り込み、酒を振る舞ったスペイン将兵たちが、不敵な笑みを浮かべて大砲の火門(ひもん)を点検していた。


「おい、娘! 日本人町はどうなっている? 王軍の象どもは、そろそろ竹柵に串刺しになった頃か?」


 革の帽子を(いじ)りながら声をかけてきたのは、以前レックが「友」と呼び、共に杯を乾かした砲術長だった。


「レック軍師様は今、北門で戦っています! すぐに加勢をお願いします、長政様が戻るまで町を……」


「長政か。あんなに剽軽(ひょうきん)で人たらしな男は、地獄の閻魔(えんま)でも手懐(てなず)けて戻ってくるだろうよ、はっはっは」


 一人の水兵が茶化す。


「おい、待てよ。あの凄腕の帰りを待つ間に、町が灰になっちゃあ寝覚めが悪い」


 そこへ、重厚な長靴(ちょうか)の音とともに一人の男が姿を現した。


 艦長のディエゴ・デ・シルバ司令官だ。


 彼は北の空に上がる火柱を黙って見つめ、威厳をもって宣告した。


「カラホム軍と日本人町が泥沼にハマれば、我々の権益も危うくなる。何より、あの若き日本人の若者に食わせてもらった酒の味を忘れるほど、我々スペイン海軍は野蛮ではない。……砲撃、許可する!」


 シルバ司令官の号令が飛んだ。


 将兵たちは巨砲をゆっくりと、レックたちが死守している北門の、さらにその外周の方角へと向けた。


 あくまで「酒の恩」と「長政への敬意」を示すための、威嚇(いかく)の援護射撃だ。


「恩を売るなら今だ。あの暴れ象どもを、我々の“雷砲(らいほう)”で少しばかり大人しくさせてやろう」


 シルバ司令官が剥き出しのサーベルを振り下ろした。


 瞬間、デル・ロサリオ号の舷側(げんそく)に並んだ黒鉄の砲門が一斉に火を噴いた。


—ド・ドォォーン!


 火縄銃の乾いた破裂音とは次元が違う。


 それは夜気(やき)を引き裂き、運河の水面を震わせ、腹の底に響き渡る凄まじい衝撃波だった。


 アユタヤの夜空を、数条のオレンジの尾を引く鉄球が切り裂いていく。


 これこそが、レックが酒樽(さかだる)一つで()ぎ取った“未来”の産声だったのだ……。 

 

(つづく)

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