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『サヤームの鈴 ―日本人義勇隊の軍師になった男―』四百年前のアユタヤ王朝、君に渡せなかった鈴が今、歴史の彼方から鳴り響く~  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー
第九章 アユタヤ燃ゆ、前夜

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南への伝令

 リゴールからの帰路、山田長政はかつてない窮地(きゅうち)に立たされていた。


 パタニ軍の残党は、領国を蹂躙(じゅうりん)された怒りに燃え、数千の兵が地の利を活かして長政の背後に執拗(しつよう)に食らいついていた。


 小高い丘で小休止をとりながら、馬上で長政が(うめ)いた。


 「ううっ……」


 右足の矢傷は、どす黒い腫れとともに、心臓の鼓動に合わせ、(きり)で突き刺すような激痛を全身に撒き散らしていた。


 長政は朦朧(もうろう)とする意識の中、視界が熱帯の陽光に焼かれ、白く(かす)む。


 退軍ルートの先には、大河パクパナン河が横たわっている。


 進軍時には乾季の名残で、馬の膝を濡らす程度の浅瀬が広がっていた場所だ。


 だが、南部の変わりやすい天候が牙を剥いた。


 行軍の最中、この辺りはスコールが七日間も降り続き、河は見る影もなく増水していた。


 渦を巻く濁流は、一歩踏み込めば人も馬も飲み込み、二度と浮き上がらせぬ(よど)みと化している。


 本来なら、一旦海上に出るか、内陸部を大きく迂回すべきだが、長政にはその猶予はない。 


 アユタヤでは、恩義あるソンタム王が遺した二人の王子が、簒奪者(さんだつしゃ)カラホムの手によって無惨に葬り去られた。


 その卑劣な暴挙を思い出すたび、腸が煮えくり返るような怒りが傷の痛さを上回る。


 一刻も早く戻らねば、日本人町の皆が、そしてお滝やハナが、あの男の毒牙にかかる。


「このままでは、ここで全滅か……。だが、死ぬわけにはいかぬ。皆が待っている……」


 前方には濁流、背後には迫りくる敵の軍勢。


 丘の上に立つ長政は、文字通り、崖っぷちへと追い詰められた。



 同じ頃、アユタヤ日本人町。


 先刻までの晴天が嘘のように、入道雲が鉛色に変色し、空を覆い尽くしていた。


 熱風が吹き抜け、不意に、針のような冷たい雨粒が頬を打つ。


 嵐の前触れだった。


 町会所の奥で、レックは嵐に急かされるように、まだ()えぬ手で筆を動かしていた。


 ハナが「レック様、怪我を診させてください」と声をかけるが、彼は聞こえないかのように紙に食らいついている。


 レックの頭の中には、かつて見たリゴール郊外の風景が、二〇二六年の詳細な地図データとして投影されていた。


 “その”湿地帯は現代では県立大学のスポーツ競技場として見事に整備されている。


 そこに(たたず)む、かつて日本人義勇隊が追撃戦で苦杯をなめたことを記す、古い石碑の文言を思い出していた。


(……頼む。気づいてくれ。あの袋の中の手紙を読んでくれ!)


 実は出征の朝、レックは長政が腰に下げた薬入れの革袋の中に、一枚の折り畳んだ羊皮紙(ようひし)を忍ばせていた。


 そこには、万が一、退軍時にこの湿地帯に追い詰められた際の戦法が記されていた。



 リゴール、パクパナン河の岸辺を見下ろす高台。


 長政が強行渡河(とか)の覚悟を決め、傷の痛みを散らす薬を求めて革袋に手を入れた時、指先に奇妙な紙の感触が触れた。


 引き出したのは、見覚えのない羊皮紙。


 その包みの表には、筆の跡も新しい文字でこう記されていた。


『いきはよいよい、かえりはこわい♪』


 不吉な歌の文句に、語尾に添えられた場違いな音符の印。


 レックが現代でSNSを打つ際に無意識に添える、あの奇妙な癖だった。


「……なんじゃ、これは?」


 長政は怪訝(けげん)そうに呟きながら、切り傷だらけの荒れた手で紙を広げた。


 そこには、蛇がのたくったような奇妙な曲線が密集する、見たこともない図解があった。


『長政様、この線が重なり合う場所は、泥の下に固い岩盤(がんばん)が走っています。強行に渡河を装い、この“浅瀬”を一直線に駆け抜けてください。追撃してきた敵を、沼の深みへ誘い込むのです』


「“いきはよいよい、かえりはこわい……” ああ、なるほど。そういうことか!」


 長政は思わず膝を打った。


 雨季の増水までも予見し、泥底に隠されたかつての古道の跡――砂礫(されき)が固まり、周囲より一段高くなっている浅瀬の底道を、レックは的確に指し示したのだ。


 長政の口元に、確信の笑みが浮かぶ。


 彼は馬首を翻し、全軍に向けて号令を発した。


「全軍、右の林を抜け、対岸へ前進せよ! 泥沼に足を取られるな。我らが通るべき道は、あの河の底にある!」


 雷鳴が轟くと同時に、日本人義勇隊が河へと突入した。


 追撃してきたパタニの残党兵たちは、勝利を確信して歓声を上げた。


「日本人どもが捨て身になって川に飛び込んだぞ!」と。


 彼らもまた、獲物を逃すまいと、長政たちの後を追って水に飛び込んだ。


 だが、次の瞬間、絶叫に変わったのは敵軍の方だった。


 長政の軍勢は、まるで見えない橋の上を駆けるように、濁流の中を驚異的な速度で進んでいく。


 対して、後を追った敵兵たちは、一歩踏み込むごとに底なしの泥に足を取られ、重い防具とともに水底へと引きずり込まれていった。


「今だ、放て!」


 レックの図解通り、高台へと迂回させておいた別働隊が、混乱する敵を見下ろすように姿を現した。


 頭上から降り注ぐ弓と火縄銃の猛射。


 逃げ場のない水中で、敵軍は水に落ちた羽虫のごとく、なす術なく撃ち落とされていった。


 一発の銃声が響くたび、泥水が赤く染まっていく。

 

 —わずか半刻。


 数倍の兵力を誇った残党軍は、レックが指し示した「沈んだ古道」という知略の前に完膚(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、撤退を余儀なくされた。


 パクパナン河を無事渡り切った対岸で、長政は息を弾ませ大きく息を吐いた。


「こわいながらも……とおりゃんせ、とおりゃんせ……か」


 長政は、生まれ故郷の村の境内で流行っていたわらべ歌を思い出した。


「レック軍師殿……今回もあなたの知恵に助けられたましたぞ」


 だが、渡河成功の余韻に浸る間はない。


 アユタヤまでは、ここから少なくともあと五日の強行軍が必要だ。


 長政は激しく(うず)く足の傷を荒縄で固く縛り上げ、手綱を握り直した。


 一刻も早く、アユタヤへ戻るのだ。そして、守るべき町へ。


 はやる気持ちと、傷口の痛みに(うな)される意識。


 長政は、土煙を上げる馬列の先頭で、沈みゆく夕陽を見つめていた。


 その眼差しには、アユタヤを血に染めようとするカラホムへの、静かな、しかし烈火のごとき戦意が宿っていた……。 


(つづく)

第九章「アユタヤ燃ゆ、前夜」では、ついに日本人町が総力を挙げて防衛戦へ備える姿が描かれました。リゴールでの長政の奮戦と負傷、そしてアユタヤに迫るカラホムの包囲網が、物語を決戦の直前へと押し進めます。レックは未来の知識を駆使して町にバリケードを築き、老武士や商人たちを説得しようとしますが、誇りや商魂との衝突に直面し、孤独な軍師としての覚悟を固めていきます。一方、ハナは長政への憧れとレックへの複雑な想いの狭間で揺れながらも、町を守るために立ち上がる。血と炎、そして泥の匂いが迫る中で、共同体の誇りと生存への意志が交錯し、物語は「アユタヤ燃ゆ」という歴史的惨劇の扉を開ける前夜へと突入しました。

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