セレスティア vs お父様
「お父様、お願いがございます!」
決意の朝から1時間後。
私は身支度と食事を済ませ、善は急げとばかりに父が働く執務室へと飛び込んだ。
「これはこれは。おはよう私の可愛いセレスティア。今日は早起きなんだね」
父であるアズール公爵は娘を大層可愛がっており、今も目尻を下げて私を抱きしめている。
これまで頑固一徹、常に不機嫌そうな昭和親父しか知らなかった身としては少しくすぐったいが、前世ではほぼ感じられなかった父親の優しさというものを実感できるのは、素直に嬉しい。
まあ彼も青野千鶴子からすればむしろ息子くらいの年齢ではあるけれど。
「それでお願いって何だい?欲しいドレスでもできた?」
「私、勉強がしたいのです。なので教師をつけていただきたくて」
「ほう、勉強!さすが私のティア。その年で勉強熱心だなんて我が娘ながら誇らしいよ。もちろん国で最高の教師を呼ぼう。何を学びたい?マナー?ダンス?外国語?それとも…」
「…いいえ。私が学びたいのは、算数と理科ですわ」
しかしそんなアズール公爵も、このお願いには面食らった様子だった。
「えっと…セレスティア、その年齢で勉強をしたいという志は立派だよ。…けれど、その…今ティアが言った科目は研究者になる人たちのものであって、ティアにはあまり関係のない分野だと思うんだ」
父は眉を下げて娘を諭そうとする。
無理もない。
今いるこの世界でも、女性…少なくとも貴族の女性の進路というのは、『結婚』のみである。
令嬢たちは幼い頃から淑女としての教養を積み、社交界では自らの魅力を殿方にアピールする。
貞淑に、賢明に、しかし男性より教養がありってはならない。
全てはより良い条件の男性と結婚するため。
それは千鶴子が幼い頃に散々聞かされて来た文言と同じものだった。
「…お父様。なぜその分野が私に『不要』とお決めつけになられるのですか?私はまだ8歳です。これからどうなるかは誰にもわかりません。学べることは全て学ぶべきだと思うのです」
「でもねティア、君は公爵令嬢なのだから、いずれ同格程度の家の御子息と結婚することになるだろう。その際にマイナスになり得る要素は、アズール公爵として看過することはできないよ」
ふむ、と父の言葉に思考を巡らす。
確かに婚姻で平穏を保つのは、貴族としての義務の1つだ。それを投げ出すというのであれば、権利も放棄するのが筋だろう。
だけどそもそも、私が勉強することが婚姻のマイナスになるということ自体、おかしいではないか。
千鶴子の父もよく「頭でっかちな女は可愛げがない」「女に学など無駄、大学に行く女は一生嫁に行けん」と言っていた。
若い頃はそういうものと思って従っていたが、それから70年経った世界はどうだ。
大学進学率の男女差はほぼなくなり、女性の社会進出が当然となった。
又姪に言わせれば、『ハイスペックな男性と結婚したければ、自分が良い大学を出て良い会社に就職するのが最短ルート』とのことだ。
恐らく男性側の意識も色々と変化してきているのだろう。
その世界を見てきた身からすれば正直、凝り固まった女性観でマイナスを付けられようとも痛くも痒くもない。
いずれその価値観が古めかしいと言われるようになった時、『非常識な異端の人間』は『勇気ある先駆者』へと変わる。
もちろん自分が偉大な先駆者になれると思っているわけではないが、誰かがやらなければ世界は変わらないのだから、立場もお金もある自分が動くことは大きな意味を成すのではないだろうか。
そこまで考えて千鶴子はふと、自分の中に渦巻くこの感情が『怒り』なのだと気がついた。
父や親族、社会から『女性に学はいらない』と言われる度に、ずっと胸を取り巻いていた感情。
なんだかスッキリしない気持ちになって、それでも男尊女卑の環境で育った私には、それが何なのかわからなかった。
今ようやく理解した。
私はその言葉が、考え方が、ずっと不快だったのだ。
青野千鶴子は自分の気持ちに気がつけず、行動しなかった。
ただ世間が変わっていくのを見ていただけ。
だから今回こそ踏み出したい。
同じ様な価値観で成り立っているこの世界で『自分らしく』生きて、あわよくば世間に一石を投じたい。
…とは言え、先ほども認識した通り私は公爵令嬢という責任ある立場だ。
我儘を通した結果ただ結婚の条件が悪くなりました、では許されない。
何かを変えるならば相応の結果が必要で、私はまだその段階には遠く及ばない。だって基礎すらわからないから学びたいだけだもの。
普段は娘に甘い父だが、公爵家の当主だ。
その責務は十分すぎるほど理解しているし、家族だからと言って情けや甘さを見せたりはしない。
そんな彼に自分の要望を主張するだけじゃ、我儘として片付けられるだけ。
自分の要求をいかに通すかは、交渉力が物を言うと…晴政さんが昔言っていた。(と、ご同僚から聞いた)。
ならば私が勉強することが公爵家にとってどの様なメリットになるかを示すしかない。
「………仰るとおり、現在の世間では女性が男性と同程度の学を修めることを良しとしておりません。そして私が貴族である以上、婚姻による家の存続および繁栄に寄与することは絶対的義務であることも理解しております」
「…そうだね。私達は一般市民にない権利を持っているけど、同時に義務も背負っている。それを無視することは、例え愛する幼い娘だとしても許されない」
「私とてアズール家の繁栄を心から願い、私の全てをもって貢献する所存です。…………けれどその手段は、必ずしも婚姻である必要はないと思っております」
「…………何だって?」
「例えば、新たな技術や道具の開発は、領地および帝国の発展に繋がります。それが嗜好品だとしても商業的利益が得られるのは大きなメリットですし、世界的な発見ともなれば外交カードにもなります」
「……セレスティアは、自分ならばそのような偉大な発明を成し遂げられると?」
「いいえまさか。けれど、発明において視点は多いほど良いと思っています。それは人員という意味でもそうですし、各々の知識も多岐に渡っていることが大事かと」
「………一理あるが、セレスティアがその一員である必要性を感じないな。女性が必要だとしても、ある程度学を修めた大人に頼めばよい」
「そうですね。今の私は基礎どころかスタートラインにも立っておりませんもの。到底ご納得いただける状態ではございませんし、成長したとしても十分な才能があるとは限りません」
「だとしたらあまりに馬鹿げた賭けだね」
「ええ。…ですからここは私の妥協すべき点です。女性としての一般教養は全て学びます。少なくとも同年代の公爵令嬢に求められるレベルを維持することを条件に、内密で教師をつけていただけないでしょうか」
「!それは真剣に言っているのかい?今は少女向けとは言え、かなり大変だと思うよ。ティアの出来によっては丸一日拘束されて、望む勉強などできないかもしれない」
「それは私の不出来のせいですから納得せざるを得ません。義務を果たさずして、どうして権利を主張できましょうか」
「………セレスティアは、どうしてそこまでして算数や理科を学びたいんだい?」
「理由などありません。ただ、それに興味があるからです。……………自分の気持ちを蔑ろにして生きれば、いずれ後悔する。それはもう嫌なんです」
公爵は息を呑んだ。
娘の強い意志と眼差しに気圧された。
公爵になって10年ほど。
人の裏も表も散々見てきた。
特に貴族なんて狡猾老獪な面々ばかりで、互いに笑顔を貼り付けながら情報戦を繰り広げるのが常だ。
交渉の場数はそれなりに踏んでいると自負していた…のだが。
「…はぁ…まさか8歳の愛娘に納得させられちゃうとはね…」
深くため息をつく。
「…お父様?…納得…ってことは、つまり…」
「うん。ティアの主張はわかった。算数と理科の教師を頼もう」
セレスティアの顔がパアアッと輝いた。
「ただしティアが自分で言ったとおり、一般教養が優先で、出来が不十分だと思ったら教育はすぐに打ち切る。いいね?」
「もちろんです!ありがとうございます、お父様!」
大喜びで抱きついてくる娘にまたも目尻を下げつつ、そっと頭を撫でる。
「さて、ノア。君が幼少期に使っていた算数と理科の教科書はまだあるかな?」
そして今まで自分の隣で成り行きを見ていた息子…セレスティアの7つ上の兄に問いかけた。
「僕の部屋にはありませんが、書庫に片付けてあると思います。あとで使用人に持ってこさせましょう」
「書庫!うちの書庫にあるの?それなら教科書だけでも早く読みたいわ!今から探してもらって、自分の部屋で目を通してみます。ありがとうございます、ノアお兄様!」
ノアの返答を聞くや否や、セレスティアは兄にもお礼とハグをして飛び出して行ってしまった。
その様子は幼い子どもらしくて微笑ましかったが、セレスティアが去った瞬間なんだかどっと疲労感が押しよせて来たので、欲求に抗うことなくソファへと腰掛けた。
「…………いや〜なんか今日のティア、すごい理路整然としてなかった?正直驚きすぎて腰が抜けるかと思ったよ」
「…そうは見えませんでしたが。父上もしっかり付き合ってましたよね。大分手加減はされていたようですが」
「まあまだ8歳だからねえ。何が何でも追い詰めて蹴落とすような野蛮な交渉はしないさ。…でも手加減があったとしても、私がセレスティアに納得させられてしまったのは本当だ。だから今回の交渉はティアの勝ちだね」
「………僕は反対です。わざわざ茨の道を進む必要なんてないでしょう。セレスティアはまだ幼いから、事の重大性も大変さもわかっていないんです」
「私もそう思ったさ。でも、ティアの最後の言葉………」
公爵はそこで言葉を止め、脳内で娘の様子を振り返った。
『自分の気持ちを蔑ろにして生きれば、いずれ後悔する。それはもう嫌なんです』
あまりに重い言葉だった。
およそ8年しか生きていない少女の言葉とは思えない、幾層にも重ねられた重みがそこにあった。
確かに、『未来』のために『現在』を犠牲にすることが必ずしも正しいわけではない。
将来の婚姻を重んじるあまり、今現在のセレスティアの気持ちを全て無視するのは彼女の幸せのためと言えるのか?
そう疑問に感じた…、いや、正確に言うと『疑問を感じさせられた』結果、セレスティアの要望を叶えるという判断になったわけだ。
「…ティアの最後の言葉がなんです?」
「………いや、なんというか…。…あの時なんだか、ティアが何十年も生きた老君のように見えてね……」
「…何を仰っているんですか。とにかく、僕は反対ですからね!」
自分でも頓珍漢だと思いつつ感想を述べれば、真面目な息子は臍を曲げてしまったようで、捨て台詞を吐きながら部屋を出ていってしまった。
恐らくはぐらかされたと思ったのだろう。本当にそう感じたのだが。
一人部屋に残された公爵は、少し姿勢を崩し天を仰ぐ。
「ああ、それにしても…………子どもの成長というのは嬉しいが、寂しくもあるなあ…」
そして疲労感に紛れた寂しさをゆっくりと噛みしめた。




