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ノルディアの商業組合に、今までとは少し違う空気が流れ始めた。
原因は、一枚の書類だった。
「……海外輸出計画?」
リリアーナが書類を読み上げる。
向かいに座ったエドワードが頷いた。
「はい」
「本当に、始めるんですか?」
「始めましょう」
机の上には、すでに大量の資料が積まれていた。
外国向けの価格表。
輸送費。
関税。
魔石の規格。
各国の商習慣。
現地での修理体制。
そして――
「駐在員の募集要項まで作ってあるんですか?」
「昨日の夜に」
「いつ寝ているんです?」
「それはリリアーナさんもでしょう」
痛いところを突かれて、リリアーナは黙った。
ここ数週間、二人はほとんど毎日のように顔を合わせていた。
朝から会議。
昼は工房。
午後は商業組合。
夕方から外国向け資料の作成。
夜は、その日の問題点を整理する。
そして翌朝には、新しい問題が増えている。
「まず、外国向けの仕様書です」
リリアーナが紙を広げる。
「魔道具の構造は共通でも、説明の仕方は国によって変えたほうがいいと思います」
「同感です」
「それから魔石の規格も統一したいです」
「各国で魔石の呼び方が違いますからね」
「修理部品についても、現地で交換できるように一覧を作って……」
話しているうちに、机の上の書類がまた増えていく。
エドワードが苦笑した。
「……これ、本当に全部必要ですか?」
「必要です」
即答だった。
「海外で魔道具を売るなら、『売って終わり』にはしたくありません」
リリアーナは一枚の仕様書を指で押さえた。
「どの国の人が買っても、安全に使えて、壊れたら直せるようにしたいんです」
その言葉に、エドワードは少しだけ目を細めた。
「そういうところですよ」
「え?」
「リリアーナさんらしいなと思って」
「私らしい?」
「ええ」
エドワードは微笑んだ。
「売上より先に、使う人のことを考える」
リリアーナは少し照れたように視線を落とした。
「……だって、魔道具ですから」
「理由になってませんよ」
「なっています」
「はいはい」
二人で笑った。
そんな日々が、しばらく続いた。
やがて、駐在員の募集が始まった。
条件は厳しかった。
外国語を話せること。
魔道具の基礎知識があること。
商談ができること。
簡単な修理ができること。
何より、ノルディアの技術を正しく伝えられること。
応募者は予想以上に多かった。
その面接にも、リリアーナとエドワードが立ち会った。
「どうして海外へ行きたいんですか?」
リリアーナが尋ねる。
「ノルディアの魔道具を、もっと多くの人に知ってほしいからです」
「外国で失敗した場合は?」
「原因を調べて、ノルディアへ報告します」
「商売よりも、報告を優先できますか?」
「はい」
リリアーナは頷いた。
隣にいたエドワードも満足そうに頷く。
「合格ですね」
面接が終わると、リリアーナは椅子に深く腰を下ろした。
「……疲れました」
「お疲れ様です」
エドワードが机の上に何かを置いた。
小さな包みだった。
「これは?」
「菓子です」
「またですか?」
「またです」
包みを開けると、以前エドワードが王都から持ってきてくれた菓子と同じものが入っていた。
「覚えていたんですか?」
「もちろん」
「……ありがとうございます」
リリアーナは一つ口に入れる。
疲れていたせいか、いつもより甘く感じた。
「おいしい……」
「でしょう?」
エドワードが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、リリアーナの胸が少しだけ温かくなった。
「エドワードさん」
「はい?」
「どうして、こんなに私を気にかけてくれるんですか?」
エドワードの手が止まった。
一瞬だけ、部屋が静かになる。
「……気づいてなかったんですか?」
「え?」
「僕が、あなたを特別に気にかけていること」
リリアーナは目を瞬いた。
「特別……?」
エドワードは困ったように笑った。
「これは、仕事の話ではありません」
そう言って、少しだけ距離を取った。
「だから、今すぐ答えをくださいとは言いません」
「……」
「海外展開が始まれば、もっと忙しくなるでしょう」
エドワードはリリアーナを見る。
「だから、あなたが落ち着いてからでもいい」
リリアーナはしばらく何も言えなかった。
自分は、今までずっと仕事のことばかり考えていた。
魔道具。
工房。
学校。
ノルディア。
そして、これからは海外。
忙しくて、考える暇がなかった。
けれど、その中でいつも隣にいた人がいる。
失敗したときに一緒に悩んでくれた。
注文が殺到したときには喜んでくれた。
疲れているときには甘い菓子を置いていった。
危険があれば真っ先に心配してくれた。
「……エドワードさん」
「はい」
「私も……」
そこで言葉が止まった。
エドワードは急かさない。
ただ、静かに待っている。
「私も、エドワードさんがいると安心します」
それだけ言うのが精一杯だった。
けれど、エドワードには十分だったらしい。
ふっと表情が柔らかくなる。
「それだけでも、嬉しいです」
「……それだけ、ですか?」
「ええ」
「なんだか、ずるいです」
「何がです?」
「私ばかり恥ずかしいみたいで」
エドワードが笑う。
「では、お互い様ということで」
「どうしてですか」
「僕も、かなり緊張しています」
「……そうは見えません」
「見せないようにしているんですよ」
二人の間に、小さな笑い声が落ちた。
その夜、仕事を終えた二人は商業組合の屋上に出ていた。
ノルディアの街には、魔道具の明かりが灯っている。
市場も。
工房も。
学校も。
宿屋も。
以前は何もなかった場所に、人々の暮らしが広がっている。
そして遠くには、海へ続く街道が伸びていた。
「もうすぐですね」
リリアーナが言った。
「ええ」
「海外への最初の船」
「三週間後です」
リリアーナは海の向こうを見つめた。
「どんな国なんでしょう」
「行ってみますか?」
「……私も?」
「もちろん」
エドワードは笑った。
「ノルディアの魔道具を一番よく知っている人が、海外展開から外れるわけにはいかないでしょう?」
「それは……そうですね」
リリアーナも笑った。
けれど、本当は別の理由でも行きたいと思っていた。
海の向こうを見てみたい。
ノルディアの魔道具が、どこまで届くのか確かめたい。
そして何より。
エドワードと一緒に、新しい場所へ行ってみたい。
「エドワードさん」
「はい?」
「海外展開が終わったら……」
「はい」
「少しだけ、休みませんか?」
エドワードが目を丸くした。
「リリアーナさんから、そんな言葉が出るとは」
「私だって休みます」
「では、どこへ?」
リリアーナは少し考えた。
「……海が見えるところ」
「今、見ていますよ」
「もっと近くで」
エドワードが微笑む。
「分かりました」
二人はしばらく黙って、街の明かりを眺めた。
仕事は山積みだった。
明日になれば、また仕様書を確認しなければならない。
駐在員の面接も残っている。
外国語版の説明書も完成していない。
海外向けの修理部品も準備しなければならない。
それでも。
以前なら、仕事が終われば一人で工房へ戻っていたリリアーナが、その日は隣にいるエドワードを見ていた。
「……明日も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
エドワードが答える。
「一緒に頑張りましょう」
その言葉が、不思議なくらい嬉しかった。
世界へ出ていく準備をする日々。
忙しくて、眠る時間さえ惜しい毎日。
けれどその中で、リリアーナは少しずつ気づき始めていた。
自分が楽しみにしているのは、海外展開だけではない。
その先も、その隣にエドワードがいることを。
それが今のリリアーナにとって、何より嬉しいことだった。




