10
ノルディアから最初の船が出る朝。
港には、普段より多くの人が集まっていた。
積み込まれているのは、ノルディア製の魔道具だ。
小型の照明器具。
給水装置。
厨房用の加熱器。
そして、貴族向けに作られた冷却魔道具。
木箱には一つ一つ、外国語で書かれた説明書が同梱されている。
「積み込み、完了しました!」
港湾管理の職員が声を上げた。
「魔石の予備も?」
「三箱あります!」
「修理部品は?」
「確認済みです!」
「外国語の仕様書は?」
「こちらに!」
次々と報告が飛び交う。
その中心にいるリリアーナは、最後の書類を確認していた。
「……これで大丈夫ですね」
「ええ」
隣に立つエドワードが頷く。
「では、行きましょうか」
リリアーナは顔を上げた。
「本当に、私たちも乗るんですね」
「第一陣ですから」
「駐在員の人たちだけではなく?」
「最初だけは、僕たちが直接見たほうがいいでしょう」
エドワードは船を見上げた。
「どんなに準備しても、実際に行ってみなければ分からないことがあります」
「……そうですね」
二人は船へ乗り込んだ。
ノルディアの港が少しずつ遠ざかっていく。
リリアーナは甲板から街を眺めた。
工房。
学校。
市場。
倉庫。
街道。
すべてが小さくなっていく。
「帰ってきたら、何か変わっているでしょうか」
「きっと変わっていますよ」
エドワードが笑う。
「僕たちがいない間にも、ノルディアは動き続けますから」
「……そうですね」
リリアーナも笑った。
船は、海の向こうへ進んでいった。
◆
目的地の港町――アルセリア。
王国から船で二日半。
海運によって栄えた大きな港町だった。
港へ入った瞬間、リリアーナは目を丸くした。
「……大きい」
石造りの倉庫が並んでいる。
色鮮やかな帆を張った船が何隻も停泊している。
市場からは、聞き慣れない言葉が飛び交っていた。
「ここが、これからノルディアの魔道具を売る街です」
エドワードが言った。
「まずは商館を借りています」
「もう?」
「海外展開をするなら、先に場所を押さえておかないと」
やはり、この人は抜け目がない。
リリアーナは少し笑った。
「エドワードさんらしいです」
「褒めています?」
「もちろんです」
アルセリアに到着してから、十日ほどが過ぎた。
ノルディア商会の仮店舗には、連日多くの客が訪れていた。
その理由は、店の奥に設置された一台の魔道具だった。
「本当に……涼しい」
最初に試した商人は、驚いたように声を漏らした。
アルセリアは、一年を通して暑い。
昼になれば太陽が容赦なく照りつけ、石造りの建物でさえ熱を持つ。
貴族の屋敷では冷却魔法を使える魔術師を雇ったり、氷を輸入したりして暑さをしのいでいるが、どちらも決して安くはない。
そんな国に、ノルディアのクーラーが持ち込まれた。
「こちらの魔石一つで、これだけ冷えるんですか?」
「はい。部屋の広さにもよりますが、この大きさなら一般的な応接室に対応できます」
リリアーナが説明すると、客は何度も頷いた。
「しかも静かだ……」
「家具のように置けるのもいい」
「操作も簡単ですね」
クーラーには、「弱」「中」「強」の三つしかない。
複雑な魔法操作も必要ない。
魔石を入れて、スイッチを押すだけ。
「これは売れるぞ」
最初の商人がそう呟いた。
その言葉は、あっという間に広がった。
翌日には二組。
その翌日には五組。
さらにその翌日には、貴族の使いが店を訪れた。
「こちらが、ノルディアの冷却魔道具ですか?」
「はい」
リリアーナが答える。
「旦那様が一度、実物を確認したいと」
「もちろんです」
その貴族を店の奥へ案内する。
クーラーを動かす。
しばらくすると、暑さで火照っていた客の顔から、みるみるうちに汗が引いていった。
「……これは素晴らしい」
貴族は立ち上がった。
「三台注文しよう」
「ありがとうございます」
「いや、五台だ」
「五台、ですか?」
「寝室にも必要だ」
それを聞いていた別の客が口を挟む。
「では我が家も四台」
「うちは六台だ」
「我が家にも!」
一気に注文が増えた。
リリアーナは目を丸くする。
「……エドワードさん」
「はい」
「これ、思っていた以上ですね」
エドワードは笑っている。
「常夏の国ですから」
「そうでした」
その日の夕方。
商会の帳簿を整理していたリリアーナは、机いっぱいに並んだ注文書を見つめていた。
「……三十二台」
「はい」
「今日だけで?」
「三十二台です」
「昨日までの分を合わせると?」
「五十七台」
リリアーナは黙り込んだ。
クーラーはノルディアで作っている。
当然、完成した製品は船に積んで運ぶ。
ところがアルセリアは海の向こうだ。
輸送には時間がかかる。
さらに、クーラーは魔石を使う。
問題はそこだった。
「エドワードさん」
「何でしょう?」
リリアーナは注文書の一枚を手に取った。
「魔石のことなんですが」
「はい」
「アルセリアで使われている魔石って、ノルディアのものとは少し違いますよね」
「品質も産地も違います」
「だったら……」
リリアーナは机に広げた地図を見る。
ノルディア。
海。
そして、その向こうにアルセリア。
「クーラーだけ、アルセリアで作ってはどうでしょう?」
エドワードの手が止まった。
「現地生産ですか?」
「はい」
リリアーナは地図を指差す。
「クーラーは、他の魔道具よりも魔石の消費量が多いです」
「輸送するたびにノルディアから魔石を送るとなると、かなりの負担になります」
「それに、注文がこれだけ増えるなら、完成品を船で運ぶより、現地で組み立てたほうが早い」
エドワードは黙って考え込んだ。
リリアーナは続ける。
「ノルディアでは、設計と魔法陣、それから重要な部品を作る」
「アルセリアでは、外装と組み立てをする」
「そして、アルセリア産の魔石を使って動かす」
「そうすれば、輸送するのは小さな部品だけで済みます」
エドワードの表情が変わった。
商人の顔になっていく。
「現地の工房と提携すれば、人材も確保できます」
「はい」
「魔石の調達も現地でできる」
「はい」
「注文を受けてから組み立てれば、納期も短縮できます」
「そう思います」
「修理拠点も同時に作れますね」
「……そこまで考えていました」
エドワードが笑った。
「やっぱり、あなたはすごいですね」
「そんなことありません」
「ありますよ」
エドワードは地図を見つめた。
「ノルディアの技術をアルセリアで作る」
「はい」
「そして、アルセリアで使われる魔道具をアルセリアの人たちが作る」
「そのほうが、この国に根付きます」
リリアーナは頷いた。
「ノルディアで全部作って、外国へ売り続けるだけでは限界があります」
「だから現地に工房を作る」
「はい」
「……新しい街が生まれるかもしれませんね」
「工房一つから始めるんです」
「その工房で働く人が増えて、修理店ができて、魔石を扱う商人が増えて……」
「学校も必要になるかもしれません」
リリアーナが言うと、エドワードは吹き出した。
「もう学校まで考えているんですか?」
「ノルディアで分かったんです」
リリアーナは笑った。
「技術だけ作っても、人がいなければ続きませんから」
「確かに」
二人はしばらく地図を眺めていた。
やがてエドワードが言った。
「では、明日から調べましょう」
「何をですか?」
「アルセリアの魔石鉱山」
「工房候補」
「職人」
「土地」
「それから、現地の法律」
リリアーナは頷いた。
「忙しくなりますね」
「ええ」
「また休めなくなりそうです」
「……その代わり」
エドワードが少し笑う。
「今日のところは仕事を終わりにしませんか?」
リリアーナは時計を見る。
すでに夜だった。
「そうですね」
「せっかくアルセリアに来たんですから」
エドワードが立ち上がる。
「夕食くらい、ゆっくり食べましょう」
「……はい」
二人は注文書を片付けた。
机の上には、まだ大量の仕事が残っている。
けれど、明日から始める新しい計画のことを考えると、不思議と疲れは感じなかった。
ノルディアで生まれたクーラー。
それは今、海を越えてアルセリアへ渡った。
そして今度は――。
アルセリアの人々の手によって、この国の暮らしを変えようとしていた。
リリアーナは店を出る前に、もう一度クーラーを振り返った。
静かな音を立てながら、冷たい風が店内を満たしている。
「……ノルディアだけの魔道具じゃなくなるんですね」
「ええ」
エドワードが隣で答える。
「それでも、最初に作ったのはノルディアです」
「はい」
「だから、きっと大丈夫です」
その言葉に、リリアーナは微笑んだ。
海の向こうで始まった、新しい挑戦。
それは単なる海外販売ではない。
ノルディアの技術が、別の国の人々の手に渡り、その土地に合わせて姿を変えていく。
その最初の一歩が――。
常夏の国アルセリアで始まろうとしていた。
二人は毎日のように働いた。
商談。
市場調査。
修理業者との打ち合わせ。
魔石の品質確認。
現地の法律の確認。
そして駐在員たちへの引き継ぎ。
最初はリリアーナ自身が説明していた魔道具の扱いも、少しずつ現地スタッフに任せるようになった。
「この部分は、こう説明してください」
「はい」
「故障した場合は、まずここを確認します」
「分かりました」
「それから、こちらの部品はノルディアから定期便で送ります」
駐在員たちは真剣にメモを取っている。
ある日の夕方。
リリアーナは商館の帳簿を閉じた。
「……思ったより、大丈夫ですね」
エドワードが顔を上げる。
「何がです?」
「私たちがいなくても、ここが回りそうです」
「僕もそう思っていました」
エドワードは窓の外を見る。
「最初は僕たちがいなければ何も進まないと思っていました。でも違った」
「駐在員の人たちが、ちゃんと判断できるようになっています」
「ノルディアで育てた人材が、ここでも仕事を始めている」
リリアーナは頷いた。
「なら……」
「ええ」
エドワードが笑う。
「少しくらい、仕事を忘れてもいいんじゃないですか?」
「……少しくらい?」
「一日くらい」
リリアーナは考えた。
「一日だけですよ」
「もちろん」
その翌朝。
二人は商館を出た。
仕事用の服ではない。
リリアーナは淡い色のワンピース。
エドワードも、普段より少しだけラフな服装だった。
向かったのは、アルセリアの海辺だった。
白い砂浜。
青い海。
海岸沿いには小さな店が並び、観光客や地元の人々で賑わっている。
「綺麗……」
リリアーナは思わず足を止めた。
「気に入りました?」
「はい」
海を見るのは久しぶりだった。
ノルディアにも海へ続く道はある。
けれど、ここは違う。
遠くまで広がる海を見ていると、自分たちが本当に国境を越えてきたのだと実感する。
「少し歩きませんか?」
エドワードが尋ねた。
「はい」
二人は並んで歩き始めた。
しばらくすると、小さな露店が目に入った。
「これは……?」
「貝細工ですね」
エドワードが答える。
店先には、小さなペンダントや髪飾りが並んでいた。
リリアーナが一つの髪飾りに目を留める。
青い貝殻を使った、小さな花の形。
「可愛い……」
「買いましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
「欲しそうでしたけど」
「見ていただけです」
「では」
エドワードは店主に話しかけた。
「これを一つ」
「えっ?」
リリアーナが振り向く。
「エドワードさん?」
「今日の記念です」
「でも……」
「海外初出張の記念」
そう言われると、断りにくかった。
「……ありがとうございます」
受け取った髪飾りを手のひらに乗せる。
「帰ったら、大切にします」
「帰ってからも?」
「もちろん」
エドワードは何も言わず、少しだけ笑った。
昼には海辺の食堂で食事をした。
魚料理。
焼きたてのパン。
見たことのない香辛料を使ったスープ。
「美味しいですね」
「よかった」
「エドワードさんは食べないんですか?」
「食べていますよ」
「さっきから私が食べるのを見ているだけじゃありません?」
「……ばれましたか」
リリアーナは笑った。
「変な人ですね」
「リリアーナさんが美味しそうに食べているので」
「それ、理由になっています?」
「僕にとっては十分です」
不意に言われて、リリアーナは黙った。
頬が熱くなる。
エドワードも少し気まずそうに水を飲んだ。
「……仕事の話をしましょうか」
「今、休んでいるんじゃなかったんですか?」
「そうでした」
二人は顔を見合わせて笑った。
その日の午後。
海岸に沿って歩きながら、リリアーナはぽつりと言った。
「楽しいです」
「僕もです」
「仕事をしているときも楽しいんですけど」
「はい」
「こうして何も考えずに歩くのも、いいですね」
エドワードはしばらく黙っていた。
やがて、静かに言う。
「僕は、こういう時間がもっと欲しいと思っています」
リリアーナが横を見る。
「ノルディアに帰っても?」
「はい」
「でも、忙しいですよ?」
「知っています」
「学校もありますし、工房もあります。海外展開も続きます」
「分かっています」
「きっと、また朝から晩まで仕事です」
「それでも」
エドワードは足を止めた。
リリアーナも立ち止まる。
「仕事が終わったあとに、こうして一緒に歩けたら嬉しいです」
海風が二人の間を通り抜けた。
リリアーナはしばらく黙っていた。
そして、小さく笑う。
「……私もです」
「本当ですか?」
「はい」
「では、帰国したら」
「はい」
「また誘っても?」
リリアーナは頷いた。
「仕事じゃない日に」
「もちろん」
二人は再び歩き出した。
肩が近い。
けれど、以前のように少し離れて歩くことはなかった。
◆
さらに数日後。
二人は商館の最後の会議を終えた。
「駐在員への引き継ぎ、完了しました」
「こちらも問題ありません」
現地の責任者が頷く。
「ノルディアとの連絡も週二回行います」
「何か問題があれば、すぐ連絡してください」
「承知しました」
リリアーナは商館を見回した。
最初に来たときは、何も分からなかった。
けれど今は違う。
現地の商人がノルディアの魔道具を知っている。
駐在員が商談をしている。
修理担当者が育っている。
倉庫には商品が並んでいる。
「……任せても大丈夫ですね」
リリアーナが言った。
エドワードも頷いた。
「ええ」
二人は、翌日の船で帰国することを決めた。
◆
帰りの船。
甲板から海を眺めながら、リリアーナは髪に手を添えた。
あの日買ってもらった青い貝細工の髪飾りをつけている。
「似合っていますね」
後ろから声がした。
「ありがとうございます」
「大切にしてくれているんですね」
「はい」
少しだけ振り返る。
「約束しましたから」
エドワードは嬉しそうに笑った。
船はゆっくりとノルディアへ向かっていく。
◆
二日半後。
ノルディアの港。
「お帰りなさい!」
「無事だったか!」
「海外はどうだった?」
「注文は取れたんですか?」
港には多くの人が集まっていた。
二人が戻った瞬間、質問が飛び交う。
「ちゃんと売れましたよ!」
リリアーナが笑って答える。
「駐在員たちにも仕事を任せてきました」
「海外の商人とも契約できました!」
歓声が上がる。
その日の夜には、商業組合で報告会が開かれた。
海外市場の状況。
売れた魔道具。
改善点。
今後の輸送計画。
駐在員の活動。
次の出荷予定。
話しているうちに、気づけば夜が更けていた。
「今日はここまでにしましょう」
エドワードが言う。
「そうですね」
リリアーナも書類を閉じる。
外へ出る。
ノルディアの街には、いつもの明かりが灯っていた。
学校から帰る子どもたち。
市場を片付ける商人。
工房へ向かう職人。
宿へ入っていく旅人。
何も変わっていない。
けれど。
リリアーナには、少しだけ違って見えた。
海の向こうにも、ノルディアの魔道具を待っている人たちがいる。
そして――。
隣には、いつものようにエドワードがいる。
「明日から、また忙しくなりますね」
リリアーナが言った。
「そうですね」
「海外からの注文も増えるでしょうし」
「駐在員から報告も届くでしょう」
「仕様書も改訂しないと」
「次の魔道具の開発もあります」
二人は顔を見合わせた。
そして、同時に笑った。
「……いつもの日常ですね」
「ええ」
海外へ行っても。
海辺で一日を過ごしても。
帰ってくれば、やっぱり仕事は山積みだ。
けれど、以前とは一つだけ違っていた。
「では、また明日」
「はい」
別れ際。
エドワードが少しだけ振り返る。
「リリアーナさん」
「はい?」
「今度の休み――」
そこで一瞬、言葉を選ぶ。
「海ではなくても、どこかへ行きませんか?」
リリアーナは笑った。
「仕事ではなく?」
「もちろん」
「……考えておきます」
そう答えながら、彼女の頬には小さな笑みが浮かんでいた。
二人はそれぞれの家へ帰っていく。
明日になれば、また忙しい一日が始まる。
海外からの注文。
新しい魔道具。
学校の問題。
工房の改善。
次々と押し寄せる仕事。
けれど、リリアーナはもう知っている。
その忙しい毎日の中にも――。
仕事とは別に、一緒に笑える時間があることを。
そして、その時間を。
少しずつ楽しみにしている自分がいることを。




