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ノルディアの街に、以前のような慌ただしさはなくなっていた。


魔道具工房には今日も職人たちが働き、商業地区では国内外から訪れた商人たちが忙しそうに行き交っている。


クーラーをはじめとする魔道具は、王都だけではなく各地の貴族領や商業都市へ届けられ、海の向こうのアルセリアにも現地生産の仕組みが根付き始めていた。


以前なら、何か問題が起こるたびにリリアーナが飛んでいかなければならなかった。


魔道具の不具合があれば工房へ。


新しい注文が入れば商人との打ち合わせへ。


材料が不足すれば仕入れ先と交渉し、職人が足りなければ訓練校へ顔を出す。


海外から問い合わせが届けば、エドワードと二人で朝から晩まで書類と向き合った。


けれど――。


「……暇ですね」


ある日の午後。


工房の窓から外を眺めながら、リリアーナがぽつりと呟いた。


隣で書類を確認していたエドワードが顔を上げる。


「それ、世間一般では『順調』と言うんだと思うよ」


「でも、今日の予定は?」


「午前中に工房の視察。終わった」


「午後は?」


「職人長たちとの会議。終わった」


「海外からの連絡は?」


「担当者が処理した」


「新しい魔道具の試作は?」


「若い職人たちに任せてある」


「……」


リリアーナは黙った。


エドワードは笑う。


「もう、リリアーナが全部やらなくてもいいんだよ」


「それは分かっています」


「本当に?」


「……分かっています」


少し不満そうに答えるリリアーナを見て、エドワードは苦笑した。


かつて、自分が何かをしなければ何も始まらなかった。


村の井戸から始まった小さな魔道具。


そこから水路ができ、工房ができ、学校ができ、商業都市が生まれた。


今では、自分が一日休んでも何も止まらない。


むしろ、それこそが自分の目指していた場所だった。


「……私、ちゃんと役目を果たせたんでしょうか」


「もちろん」


エドワードは即答した。


「リリアーナが作ったのは魔道具だけじゃない」


「え?」


「人だよ」


エドワードは窓の外を指した。


工房では若い職人たちが笑いながら作業している。


その中には、かつて文字すら読めなかった子供たちもいる。


今では立派な職人として働き、自分たちで新しい魔道具を考えていた。


「リリアーナが一人で全部やっていたら、ノルディアはここまで大きくならなかった。自分で考えて、自分で作って、自分で次の人に教えたから、今のノルディアがある」


「……」


「だから、もう休んでもいいんだ」


エドワードは優しく笑った。


「僕がいるから」


リリアーナの胸が、小さく跳ねた。


けれど、その日はそれ以上何も言わなかった。


◇◇◇


その日の夕方。


「リリアーナ」


「はい?」


「少し、付き合ってほしい場所がある」


「どこですか?」


「秘密」


「秘密?」


「うん」


「……新しい魔道具の試験ですか?」


「違う」


「海外向けの商談?」


「違う」


「では、新しい工房の候補地?」


「違います」


リリアーナは首を傾げた。


「では何でしょう?」


「着いてからのお楽しみ」


「……気になります」


「たまには仕事以外のことで気になってよ」


「?」


エドワードは笑った。


二人が向かったのは、ノルディアの街を一望できる小高い丘だった。


そこは、まだ街が村だった頃から二人が何度も訪れていた場所だった。


夕暮れの街には魔道具の灯りが一つ、また一つと灯っている。


工房の煙突。


学校の鐘楼。


市場の屋根。


そして、その向こうに広がる海。


リリアーナは目を細めた。


「綺麗ですね」


「うん」


エドワードは隣に立った。


しばらく二人は、何も言わず街を眺めていた。


やがて――。


「リリアーナ」


「はい?」


「覚えてる?」


「何をですか?」


「僕が初めてノルド村に来たとき」


「ああ……」


リリアーナは笑った。


「覚えています」


「君、僕が商人だと分かった途端に、魔道具の話を始めたんだよ」


「……そうでしたっけ?」


「そうだよ」


「何を話しました?」


「水車の仕組みと、魔石の消費効率と、風力の利用について」


「……」


「三時間」


「そんなに?」


「三時間」


エドワードは笑った。


「僕は商談に来たつもりだったのに、気づいたら君の研究発表会を聞いていた」


「……申し訳ありません」


「いや」


エドワードは首を横に振る。


「楽しかったよ」


その言葉に、リリアーナが顔を上げる。


「それからずっと、君と一緒にいた」


「そうですね」


「村が変わっていくのも見た」


「はい」


「工房ができて、学校ができて、ノルディアになって」


「はい」


「海を越えてアルセリアにも行った」


「……楽しかったですね」


「うん」


エドワードは少しだけ黙った。


そして、ゆっくりとリリアーナの方を向いた。


「僕はね」


その声が、いつもより少しだけ緊張していた。


「君と一緒に働くのが好きなんだ」


「私もです」


「君が魔道具について夢中になって話しているのを見るのも好きだ」


「……ありがとうございます」


「失敗して落ち込んでいる君を見るのは嫌だけど、そこから立ち上がる君を見るのはもっと好きだ」


リリアーナは黙って聞いていた。


「それに」


エドワードは小さく笑った。


「仕事が終わったあとに、一緒にご飯を食べる時間も好きだ」


「……はい」


「海辺を歩くのも好き」


「はい」


「君が笑うのも好き」


リリアーナの頬が少し赤くなる。


「……エドワードさん」


「うん」


「今日、どうしたんですか?」


「実は」


エドワードは苦笑した。


「ずっと緊張してる」


「え?」


エドワードは懐から小さな箱を取り出した。


リリアーナの目が丸くなる。


「……これは?」


「開けて」


震える指で蓋を開く。


そこには、一つの指輪が入っていた。


青い石が、小さな夕陽を受けて輝いている。


「アルセリアの海の色に似ているでしょう?」


「……綺麗」


「君があの海を見て、綺麗だと言っていたから」


リリアーナは指輪を見つめた。


アルセリアの海。


白い砂浜。


二人で食べた昼食。


買ってもらった貝殻の髪飾り。


夜の海辺で交わした会話。


その一つ一つが胸に蘇ってくる。


エドワードは一歩だけ近づいた。


「リリアーナ」


「はい」


「僕と結婚してください」


リリアーナの目が大きくなる。


「これからも、君と一緒に生きていきたい」


エドワードは続けた。


「仕事仲間としてだけじゃなくて」


一度、息を吸う。


「夫婦として」


リリアーナは何も言わなかった。


ただ、指輪を見つめている。


エドワードの表情に、少しずつ不安が混じった。


「……急だったかな」


「いえ」


「嫌だった?」


「違います」


「じゃあ――」


リリアーナが顔を上げる。


その目には、うっすら涙が浮かんでいた。


「私も、エドワードさんと結婚したいです」


「……本当に?」


「はい」


エドワードの顔が一気に明るくなる。


「本当に?」


「はい」


「後から変更は?」


「ありません」


「契約書は?」


「いりません」


「婚姻届は?」


「必要です」


「明日でも?」


「早すぎませんか?」


「じゃあ明後日」


「エドワードさん」


「はい」


「落ち着いてください」


「無理だよ」


エドワードは笑った。


「今、人生で一番嬉しいから」


リリアーナも笑った。


「私もです」


エドワードはそっと彼女の手を取る。


「じゃあ、指輪を」


「はい」


指輪が指にはめられる。


青い石が、夕陽を受けてきらりと光った。


「似合ってる」


「ありがとうございます」


「綺麗だよ」


「……もう」


リリアーナが照れながら笑う。


そのとき。


丘の下から、妙に大きな歓声が聞こえた。


「おめでとうございまーす!」


「末永くお幸せにー!」


「エドワードさん、ちゃんと成功しましたかー!?」


「……」


リリアーナが固まる。


エドワードも固まった。


二人で丘の下を見る。


そこには――。


職人。


商人。


侍女。


訓練校の教師。


近隣の村人。


ノルディアの住民たち。


大勢が隠れていた。


「……」


「……」


「エドワードさん?」


「はい」


「皆さん、知っていたんですか?」


「……たぶん」


丘の下から声が飛ぶ。


「リリアーナ様! おめでとうございます!」


「絶対幸せになってくださいね!」


「エドワードさん、泣いてますよ!」


「泣いてない!」


「泣いてるぞー!」


「うるさい!」


リリアーナはとうとう吹き出した。


「ふふっ……あはは!」


「笑わないでよ」


「だって……」


「僕だって知らなかったんだよ。いつの間にかみんなにバレてて」


「それだけ皆さんが二人のことを見ていたんですよ」


「……そうだね」


エドワードも笑った。


そして二人は、並んで街を見下ろした。


「これから、どうなるんでしょうね」


リリアーナが呟く。


「色々あると思う」


「仕事も?」


「もちろん」


「魔道具も?」


「もちろん」


「新しい街も?」


「きっとできる」


「海外との取引も?」


「増えるだろうね」


リリアーナは楽しそうに笑った。


「忙しくなりそうです」


「……」


エドワードが眉を寄せる。


「結婚したばかりなのに、もう仕事の話?」


「だって楽しみですから」


「……」


「どうしました?」


「いや」


エドワードは苦笑した。


「僕、君と結婚したら、少しは君を独占できると思ってたんだけど」


「独占?」


「うん」


「どういう意味ですか?」


「仕事が一番だった君の中で、僕が少しだけ一番になれるかなって」


リリアーナは目を丸くした。


そして――。


「大丈夫ですよ」


「本当?」


「エドワードさんは、仕事と比べるものではありませんから」


「……」


「大切なものが違うんです」


エドワードは数秒黙った。


「……それはずるい」


「何がですか?」


「そんなこと言われたら、もっと好きになる」


「もう十分好きでしょう?」


「そうだけど」


「ふふっ」


二人は笑った。


夕暮れのノルディアに、街の灯りが次々とともっていく。


かつて一人の令嬢が追放された、小さな辺境の村。


そこは今では、世界中から人が集まる街になっていた。


そしてその街で。


リリアーナとエドワードは、新しい人生を始める。


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