4
王城・大議事堂。
普段ならば王国の重要な政策を決めるために使われるその場所に、今日は重苦しい空気が満ちていた。
議場の最上段には国王。
その左右には宰相、財務卿、外務卿、魔法技術局長、軍務卿。
そして議場の中央には、王太子アルベルトが一人で立っていた。
今日の議題は一つ。
――王太子アルベルトの進退について。
宰相がゆっくりと立ち上がる。
「これより、王太子アルベルト殿下の進退について審議を開始いたします」
議場が静まり返った。
「今回の審議は、リリアーナ・フォン・エルメリア嬢との婚約破棄のみを理由とするものではありません」
アルベルトは腕を組み、正面を見据えていた。
「王太子としてこれまで行ってきた政策、人材登用、外交、財政、軍務への関与。そして、王太子としての判断が国益にどのような影響を与えたか。それらを総合的に確認します」
最初に立ち上がったのは財務卿だった。
「財政面から申し上げます」
一冊の資料を開く。
「王太子殿下は、ここ三年間、王都の大規模な祝賀事業を複数承認されています」
アルベルトの眉が動く。
「王都は王国の顔だ。祝祭や式典は、王家の威信を示すために必要なものだ」
「その点については異論ありません」
財務卿は淡々と答えた。
「しかし、その一方で、地方の水路整備や農業支援については予算削減を提案されています」
「王都の財政状況を考慮した結果だ」
「承知しております」
財務卿は一枚の資料を取り出した。
「ですが、その後ノルド村の魔道具によって、地方農業の生産性が大きく改善しました」
アルベルトの表情が強張る。
「現在、各領主から同様の魔道具を導入したいという申請が相次いでいます」
「……それは結果論だ」
「はい」
財務卿はあっさり認めた。
「結果論です。しかし、王太子の判断を審議する以上、結果を無視することもできません」
「私の判断がすべて間違っていたと言いたいのか?」
「そうは申し上げていません」
「ならば――」
「ただ、判断の結果について説明する責任はあるかと」
アルベルトは言葉を詰まらせた。
次に立ったのは魔法技術局長だった。
「魔法技術について申し上げます」
彼は一枚の図面を掲げた。
「これはリリアーナ嬢が最初に設計した給水装置です」
アルベルトの視線が図面に吸い寄せられる。
「現在、この技術は改良され、国内各地で使われています」
「彼女は王宮の技術者ではない」
アルベルトが言った。
「当時、私がその能力を知らなかったことを責められても困る」
「能力を知らなかったことではありません」
局長は静かに答えた。
「調査しなかったことを問題にしています」
「……」
「王太子妃候補に対する魔法適性調査では、通常魔法だけでなく、魔法陣構築、魔力制御、魔道具操作、魔法理論への理解なども確認することになっています」
「セレネが調査をしていなかった」
「はい」
「ならば、彼女の責任だろう」
アルベルトが即座に返す。
「私は専門家として彼女の意見を聞いた。専門家の報告を信じることまで、王太子の落ち度にするのか?」
議場がざわめいた。
魔法技術局長は少しも動じなかった。
「信じることが問題なのではありません」
「では何だ」
「疑問を持ったときに、確認しなかったことです」
アルベルトの顔が険しくなる。
「私は王太子だ。魔法の専門家ではない」
「だからこそ、専門家を一人だけに任せるべきではなかったのです」
「……!」
アルベルトが息を呑んだ。
局長は続ける。
「少なくとも、婚約破棄と追放という重大な決定をする前に、別の専門家による再調査を求めることはできたはずです」
「……当時は必要ないと判断した」
「それが今回、問われている判断です」
アルベルトは拳を握った。
だが、まだ引かなかった。
「それでも、私は間違っていたとは思わない」
議場が静まり返る。
「リリアーナは魔力が少なかった。王太子妃として王族の魔法儀式や結界維持に関わることもある。私は将来の王妃に必要な能力を考えた上で判断した」
「では、今もそう考えているのですか?」
宰相が尋ねた。
アルベルトは答えかけて――止まった。
頭の中に、ノルド村で見た光景が蘇る。
水を汲む人々。
畑へ流れる水。
回る風車。
夜の村を照らす魔法ランプ。
そして何より、自分の前で静かに「帰りません」と告げたリリアーナの姿。
「……」
「殿下?」
「……私は」
アルベルトは喉を鳴らした。
「王太子妃として必要な能力を考えた。それは間違いではない」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
「だが……」
そこで声が止まる。
「だが?」
宰相が促す。
アルベルトは目を伏せた。
「……あれほどの才能があるとは、知らなかった」
議場に沈黙が落ちる。
その瞬間、アルベルトの頭の中で、別の疑問が浮かんだ。
――では、なぜ自分は知らなかった?
その問いに、答えられない。
次に宰相が取り出したのは、別の資料だった。
「では、次の問題に移ります」
「……何だ」
「リリアーナ嬢を追放した後の対応です」
アルベルトの顔が強張る。
「殿下は彼女をノルド村へ追放しました。その時点では、彼女の魔法技術者としての能力をご存じなかった」
「そうだ」
「しかし、ノルド村から魔道具が王都へ届き始めた後も、再調査を行っていません」
「……」
「さらに、各地から彼女の技術について報告が上がった後も、正式な調査団を派遣していない」
「それは――」
「なぜですか?」
アルベルトの口が止まった。
「……必要性を判断していた」
「何を?」
「本当に一時的な成果なのか。それとも継続的な技術なのかを」
「その確認に一年近くかかりました」
「慎重だったんだ!」
アルベルトが声を荒らげる。
「王国の政策を決めるんだぞ! 一つの村から出てきた魔道具だけで、すぐに国策を変えられるわけがない!」
「その通りです」
宰相は冷静だった。
「ですが、王太子殿下はその間に何をしたでしょうか?」
アルベルトは答えられない。
「何もしなかったわけではない!」
「では、何を?」
「……」
「調査団は?」
「……」
「技術者の派遣は?」
「……」
「リリアーナ嬢への正式な照会は?」
「……」
一つも答えられない。
アルベルトの呼吸が少しずつ荒くなった。
「……私は、王太子だ」
突然、アルベルトが呟いた。
「私は王国全体を見なければならない」
「その通りです」
「一人の令嬢だけを特別扱いすることなどできない!」
「ではなぜ、後になって王命で呼び戻そうとしたのですか?」
その質問に、アルベルトの顔から血の気が引いた。
「……国のためだ」
「ならば最初から国のために調査すべきだったのでは?」
「……」
「そして、彼女が拒否したときには?」
アルベルトは黙り込んだ。
王命。
あのとき、自分はそう言った。
『王命に逆らうのか?』
しかし、リリアーナは怯えなかった。
「私は、もう王都には戻りません」
あの言葉が蘇る。
自分の隣に立つことを当然だと思っていた女性が、もう自分を必要としていなかった。
「……私は」
アルベルトの声が震えた。
「ただ、戻ってきてほしかっただけだ」
議場が静まる。
「彼女が……あそこまで遠くに行ってしまったことを、認めたくなかった」
宰相が眉を寄せる。
「殿下」
「私は、王太子だ」
アルベルトは顔を上げた。
「婚約者だった彼女が、私の知らないところで別の人間たちと笑っている。私が必要とされなくなったように感じて……」
言葉が途切れる。
「……だから、戻せると思った」
その告白に、議場は完全に静まり返った。
アルベルト自身も、今になって初めて気づいたのだ。
国のためだと思っていた。
だが、その奥には別の感情があった。
自分の元から去っていったリリアーナを、取り戻したかった。
しかし、それを認めることは王太子としての自分の判断が、公私混同だったと認めることでもある。
「……私は」
アルベルトは俯いた。
「間違っていたのか?」
誰もすぐには答えなかった。
そのとき、外務卿が立ち上がる。
「殿下。もう一つ、ご報告があります」
「……何だ」
「ハルト商会についてです」
「……エドワードか」
「はい」
アルベルトの顔がわずかに強張る。
「エドワード・ハルト殿は、ハルト商会の次期当主です」
「それは知っている」
「王室特許商会として、国外交易を担う商会です」
アルベルトの表情が変わる。
「ノルド村の魔道具について、正式な販売契約を結んでおります」
「……」
「そして、国外への輸出についても、すでに複数の商人から問い合わせが来ています」
アルベルトは俯いた。
リリアーナの隣にいた男。
自分がただの商人だと思っていた男。
その男は、リリアーナと肩を並べて新しい事業を作ろうとしている。
「……リリアーナは」
思わず口から名前が漏れた。
「今、あの男と……?」
誰も答えない。
しかし、その沈黙が答えだった。
アルベルトの胸が締めつけられる。
かつて自分の婚約者だった。
自分が王太子妃になるはずだと思っていた。
それが今では、自分の手の届かない場所で、新しい人生を歩いている。
「……そんな」
アルベルトの指先が震えた。
「私は……何をしていたんだ」
だが、すぐに顔を上げる。
「それでも!」
アルベルトが声を張る。
「だからといって、私が王太子として失格だということにはならない!」
最後の抵抗だった。
「私は失敗した。だが、王太子として学び直すことはできる!」
「……」
「一度の判断で人間を切り捨てることが問題だと言うなら、私自身を一度の判断で切り捨てるのも同じではないのか!」
議場がざわめく。
アルベルトの声には、必死さが滲んでいた。
「私はまだ変われる!」
国王は息子を見つめた。
「……そうかもしれぬ」
アルベルトの目に、わずかな光が戻る。
しかし。
「だが、王太子として変わる時間を与えることと、王太子の地位を維持することは別の問題だ」
アルベルトの顔から、その光が消えた。
「王太子には、失敗した後に学ぶことだけではなく、重大な決断をする前に学ぶ責任がある」
国王の声は静かだった。
「お前は、知らなかった」
「……」
「だから調べなかった」
「……はい」
「間違っている可能性を考えなかった」
「……」
「そして、間違いに気づいた後も、自分の判断を守ろうとした」
アルベルトは何も言えなかった。
「それを踏まえてもなお、王太子の地位に留まるべきだと、お前は言うのか?」
長い沈黙。
アルベルトの脳裏に、王冠が浮かんだ。
幼い頃から、自分のものだと思っていた未来。
国王になる。
王妃を迎える。
リリアーナが隣にいる。
ずっと、それが当たり前だと思っていた。
だが今、その未来が目の前から消えようとしている。
「……私は」
声が掠れた。
「……私は、王になるために生きてきた」
初めて、アルベルトの目に明確な動揺が浮かんだ。
「それ以外の生き方なんて……考えたこともない」
議場は静まり返った。
やがて国王が告げる。
「審議官たちよ」
全員が姿勢を正す。
「王太子アルベルトの進退について、採決を行う」
アルベルトは目を閉じた。
だが、その手は震えていた。
一票。
また一票。
賛成。
反対。
棄権。
票が読み上げられるたび、アルベルトの表情が変わる。
最初はまだ、何かを信じようとしていた。
しかし、反対票が積み重なるにつれて、その顔から血の気が引いていく。
最後の一票が読み上げられた。
宰相が立ち上がる。
「王太子アルベルトを、王太子の地位から退かせる」
アルベルトは動かなかった。
「……」
「ただし、王族としての身分まで剥奪するものではない」
「……」
何も聞こえない。
ただ、胸の奥で心臓が激しく鳴っていた。
「アルベルト」
国王の声が聞こえる。
「……はい」
「これからお前は、王太子ではない」
アルベルトはゆっくりと顔を上げた。
「……私は」
言葉が震える。
「私は……これから、何になればいいのですか?」
国王はすぐには答えなかった。
やがて、静かに告げる。
「それを考えるのは、これからのお前自身だ」
アルベルトは俯いた。
王冠を失った。
未来を失った。
そして――。
かつて自分が「役立たず」と切り捨てたリリアーナも、もう自分の隣にはいない。
その事実を、アルベルトはようやく真正面から受け止めることになった。




