14
妊娠が分かってから、数か月。
リリアーナのお腹は、少しずつ、けれど確実に大きくなっていた。
そして――。
エドワードの過保護度も、同じように、いや、それ以上の勢いで増していた。
「リリアーナ」
「はい?」
「そこ、段差があるよ」
「一段だけですよ?」
「一段でも段差だよ」
「……はい」
リリアーナが一歩足を上げる。
すると。
「待って」
「はい?」
エドワードが先回りして、段差の前に立った。
「僕の手を掴んで」
「自分で上れますよ?」
「知ってる」
「では――」
「でも、掴んで」
「……はい」
リリアーナは諦めて、エドワードの手を取った。
一段。
ただの一段を上っただけなのに、エドワードは満足そうに頷いた。
「よし」
「何が『よし』なんでしょう……」
「安全だった」
「普通に上っただけですよ?」
「普通に上れることと、安全に上れることは違うんだ」
「同じでは?」
「違うよ」
真顔だった。
最近のエドワードは、本気である。
妊娠初期の頃は、
「無理しないでね」
程度だった。
それが一か月後には、
「重いものは僕が持つよ」
になり。
さらにその翌月には、
「高いところには登らないで」
になった。
そして現在。
「段差は僕が確認する」
「階段は僕が先に歩く」
「椅子に座るときは背もたれを確認する」
「椅子から立つときは僕が手を貸す」
「水は喉が渇く前に飲む」
「お腹が空く前に何か食べる」
「疲れる前に休む」
「眠くなる前に寝る」
「寒くなる前に上着」
「暑くなる前に涼しい場所」
「――エドワード」
「はい」
「私は赤ちゃんではありません」
「知ってるよ」
「それに、私のお腹にいるのは一人ですよ?」
「それも知ってる」
「なのに、なぜ私の周りに侍女が四人いるんですか?」
「念のため」
リリアーナが振り返る。
そこには。
侍女が四人。
さらに護衛が二人。
そしてエドワード。
計七人。
「……工房へ行くだけなんですが」
「うん」
「大人数すぎませんか?」
「妊娠中の移動だからね」
「王族の護衛みたいです」
「それくらい大切なんだよ」
エドワードは平然としていた。
侍女たちは顔を見合わせる。
「……最近、旦那様の過保護が加速していますね」
「ええ」
「最初は可愛らしい心配性だったのに」
「今では完全に警備体制です」
リリアーナはため息をついた。
「私は工房の様子を見に行くだけですよ」
「もちろん」
「なら、なぜ護衛が?」
「何かあったら困るから」
「何かって?」
「……何か」
「具体的には?」
「……何かあったら困る」
「堂々巡りですね」
エドワードは笑った。
「愛情だから」
「便利な言葉ですね……」
◇
工房に着くと、リリアーナはいつものように魔道具の設計図を確認した。
「この歯車は少し大きくしたほうが――」
「リリアーナ」
「はい?」
「立ったまま話さないで」
「……はい」
椅子を持ってくる。
「座って」
「はい」
座る。
「背もたれは?」
「あります」
「クッションは?」
「あります」
「水は?」
「あります」
「お腹は?」
「……大丈夫です」
「疲れてない?」
「大丈夫です」
「気分は?」
「大丈夫です」
「眠くない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫です」
「無理してない?」
「してません」
エドワードはじっとリリアーナを見る。
「……本当に?」
「本当にです」
「そう」
ようやく離れる。
工房員たちはその様子を黙って見ていた。
そして、小声で。
「……旦那様、最近毎朝これやってますよね」
「昼にもやるぞ」
「夕方にもやる」
「昨日なんて一時間おきだった」
「仕事より奥様の体調確認のほうが多くないか?」
「本人に聞こえるぞ」
「聞こえてます」
リリアーナが振り返る。
工房員たちは一斉に作業へ戻った。
「……」
「……」
「……」
「エドワード」
「何?」
「皆さん、仕事をしてください」
「もちろん」
「あなたもです」
「僕はリリアーナの護衛だから」
「商会の仕事は?」
「それもしてるよ」
「いつ?」
「夜」
「寝てください」
「……善処する」
「その返事、絶対に寝ない人の返事ですよね?」
「……ばれた?」
◇
さらに月日が流れた。
リリアーナのお腹は、誰が見ても妊娠していると分かるほど大きくなった。
すると。
エドワードは新しい規則を作った。
その名も――。
『ノルディア妊婦安全規定・改訂版』
第一条。
走らない。
第二条。
重いものを持たない。
第三条。
高い場所に登らない。
第四条。
疲れたら休む。
第五条。
食事を抜かない。
第六条。
水分を取る。
第七条。
寒暖差に注意する。
第八条。
人混みでは必ず護衛をつける。
第九条。
階段では手すりを使用する。
そして。
第十条。
「エドワードが心配しすぎないこと」
リリアーナが追加した。
「これは却下」
「なぜですか?」
「僕には守れない」
「規則なのに?」
「守れない規則は規則じゃない」
「開き直りましたね」
◇
そしてある日。
事件が起きた。
リリアーナが自分で机の上の書類を取ろうとしたのだ。
ほんの少し手を伸ばしただけだった。
「リリアーナ!」
「はい!?」
エドワードが飛んできた。
「何してるの!」
「書類を取ろうと……」
「僕を呼んで!」
「すぐそこですよ?」
「距離の問題じゃない!」
「では、どうすれば?」
「僕が取る!」
エドワードが書類を取る。
「はい」
「ありがとうございます」
「次からは僕を呼んでね」
「……分かりました」
「絶対?」
「絶対です」
満足そうに戻っていくエドワード。
その背中を見ながら、工房長が呟いた。
「……あの方」
「はい」
「奥様が自分で靴紐を結んでも飛んできそうだな」
「昨日飛んできました」
「もうやってたのか」
◇
そんなある日のこと。
リリアーナが市場へ行きたいと言った。
「市場?」
「はい。赤ちゃんの服を見たいんです」
エドワードの目が輝いた。
「分かった」
「一緒に行ってくださいますか?」
「もちろん」
「では――」
「馬車を用意する」
「市場ですよ?」
「馬車で行こう」
「歩いて十五分ですよ?」
「だから馬車」
「……分かりました」
馬車に乗る。
するとエドワードは、
「揺れない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「大丈夫です」
「寒くない?」
「大丈夫です」
「暑くない?」
「大丈夫です」
「喉は?」
「大丈夫です」
「気分は?」
「大丈夫です」
「お腹は?」
「大丈夫です」
「……」
「エドワードさん」
「はい」
「少し黙っていていただけますか?」
「……努力する」
「努力なんですね」
市場に到着。
リリアーナが降りようとすると。
「待って」
エドワードが先に降りる。
「手を」
「はい」
リリアーナが手を取る。
すると今度は、
「足元」
「見ています」
「ゆっくり」
「はい」
「人がいるから気をつけて」
「分かっています」
「荷物は僕が持つ」
「はい」
「疲れたら――」
「休む」
「そう」
「もう覚えました」
「さすがリリアーナ」
「誰のせいですか」
市場の店主が笑った。
「旦那さん、心配しすぎじゃないかい?」
エドワードは真顔で答えた。
「妻と子どものことですから」
「そりゃ大事だけどよ」
「世界で一番大事です」
「……はいはい」
店主が苦笑する。
「仲がよくて結構だ」
◇
ところがその日、リリアーナが赤ちゃん用の小さな靴下を手に取った。
「かわいい……」
その瞬間。
エドワードが固まった。
「……」
「エドワードさん?」
「……小さい」
「赤ちゃん用ですから」
「こんなに小さいんだ……」
エドワードは靴下をじっと見つめる。
そして。
「これ、三つ買おう」
「三つ?」
「いや、五つ」
「そんなに?」
「洗い替えが必要だよね」
「まあ……」
「十個」
「増えましたね?」
「二十個」
「増えすぎです」
店主が吹き出した。
「旦那さん、赤ちゃんは靴下を二十足も一日で履かないよ」
「……そうですか?」
「そうだよ」
エドワードは真剣に考えた。
「では十五足」
「減らす方向がそこなの?」
リリアーナが笑う。
「エドワードさん」
「何?」
「赤ちゃんは、あなたが思っているより小さいですよ」
「だから心配なんだ」
「ふふ」
リリアーナは小さな靴下を手に取った。
「でも……楽しみですね」
エドワードの表情が柔らかくなる。
「うん」
「どんな子になるでしょう」
「元気なら、それでいい」
「私は、あなたに似たらいいと思います」
「僕?」
「優しいところ」
「……」
「どうしました?」
「今の、もう一回言って」
「嫌です」
「お願い」
「嫌です」
「録音しておけばよかった」
「何を録音するんですか」
「僕への最高の褒め言葉」
「大げさですよ」
二人が笑う。
その横で店主が小さく呟いた。
「……こりゃ相当な親バカになるぞ」
◇
そして。
出産予定日が近づくにつれ。
エドワードは、ついに最後の段階へ突入した。
ある朝。
リリアーナが目を覚ます。
すると。
「……」
ベッドの横にエドワードが座っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「何をしているんですか?」
「寝顔を見てた」
「……何時間?」
「三十分くらい」
「仕事は?」
「後で」
「寝てください」
「リリアーナがちゃんと寝てるか確認してた」
「私は寝ています」
「うん」
「だから確認する必要はありません」
「でも寝てる姿を見ると安心する」
「……」
リリアーナは少し笑った。
「本当に心配性ですね」
「うん」
「自覚はあるんですね」
「あるよ」
「直す気は?」
「ない」
「即答……」
エドワードはリリアーナのお腹にそっと手を当てる。
「……もうすぐ会えるね」
「はい」
「楽しみだな」
「はい」
「でも」
「はい?」
「君が無事なのが一番大事」
リリアーナは、その言葉を聞いて微笑んだ。
「大丈夫ですよ」
「うん」
「私は幸せです」
「僕も」
「だから、そんなに怖がらなくても」
「……分かってる」
エドワードは少しだけ笑った。
「でも、心配するくらいは許して」
「それくらいなら」
「ありがとう」
二人でお腹を撫でる。
すると。
ぽこん。
小さな胎動。
「……!」
二人とも固まった。
「今の……」
「動きましたね」
「今、動いたよね?」
「はい」
「僕、触った」
「はい」
「……」
エドワードの目が潤む。
「本当にいるんだ」
「いますよ」
「僕たちの子」
「はい」
エドワードは、そっとお腹に顔を近づけた。
「お父さんだよ」
「ふふ」
「君のお母さんはね」
リリアーナを見る。
「僕が世界で一番大切にしている人なんだ」
「……エドワードさん」
「だから、君も大切にする」
ぽこん。
また胎動。
「返事した!」
「たぶん偶然です」
「違うよ。絶対返事した」
「はいはい」
「今の聞いた?」
「聞きました」
「僕、ちゃんとお父さんできるかな」
リリアーナは笑った。
「過保護すぎるくらいですから、大丈夫ですよ」
「……それ、褒めてる?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「呆れています」
「そっか」
エドワードも笑った。
◇
そして、その日の昼。
エドワードは新しい紙を持って工房へ現れた。
「皆、聞いてほしい」
工房員たちが顔を上げる。
「奥様の出産が近い」
「はい」
「だから新しい規則を作った」
「……またですか?」
エドワードは紙を広げた。
『妊婦リリアーナ様・最終安全管理計画』
工房員たちが沈黙する。
「第一項――」
「もういいです」
工房長が止めた。
「まだ一項ですよ?」
「嫌な予感しかしません」
「では読みます」
エドワードは堂々と続けた。
「第一項。リリアーナの移動には必ず付き添いを――」
「旦那様」
「何?」
「奥様、今、隣にいます」
「知ってる」
「そして自分で歩いています」
「知ってる」
「元気です」
「知ってる」
「医師からも順調だと言われています」
「知ってる」
「ではなぜ――」
エドワードは真剣な顔で答えた。
「心配だから」
工房員全員が天井を見上げた。
「……始まった」
「まただ」
「もう誰にも止められない」
「旦那様の過保護、出産までにどこまで進化するんだ……」
リリアーナはその様子を見ながら、くすくす笑った。
「もう、皆さん呆れていますよ」
「いいんだ」
エドワードは笑う。
「それだけ、僕が君と、この子を大切に思ってるってことだから」
「……そうですね」
リリアーナはそっとお腹に手を添えた。
「私も、大切に思っています」
「じゃあ――」
エドワードが嬉しそうに手を差し出す。
「帰ろうか」
「まだ仕事があります」
「……」
「エドワードさん?」
「じゃあ、僕も手伝う」
「あなたは商会の仕事があるでしょう?」
「……」
「ほら、行ってください」
「分かった」
しぶしぶ歩き出す。
しかし三歩進んだところで振り返る。
「リリアーナ」
「はい?」
「疲れたらすぐ休んでね」
「分かっています」
さらに三歩。
「水分も――」
「分かっています」
また三歩。
「お腹が――」
「大丈夫です」
「……」
「行ってらっしゃい」
「……行ってきます」
エドワードはようやく出ていった。
工房が静かになる。
そして工房長がぽつり。
「……奥様」
「はい?」
「旦那様、出産したらもっと大変になりますよ」
リリアーナは少し考えた。
「……そうでしょうね」
「覚悟は?」
「できています」
「本当に?」
リリアーナは笑った。
「はい」
その頃、廊下からエドワードの声が響いた。
「リリアーナ! やっぱり一人にしないほうが――」
「エドワードさん!」
「はい!」
「仕事してください!」
「はい!」
工房中に笑い声が広がった。
ノルディアで一番の魔道具技術者。
王国最大級の商会を背負う男。
そして、もうすぐ父親になる男。
エドワード・ハルト。
彼の最大の弱点は――。
愛する妻と、そのお腹の中にいる小さな命だった。




