13
ノルディアの大聖堂で、二人は夫婦になった。
盛大な結婚式が終わった翌朝。
リリアーナとエドワードは、まだ街が眠っている時間に屋敷を出発した。
行き先は、アルセリア。
一か月間の新婚旅行だった。
馬車に乗り込んだリリアーナは、窓からノルディアの街を眺める。
「一か月も休むなんて、少し落ち着きませんね」
隣に座ったエドワードが笑った。
「新婚旅行だからね」
「でも、工房が」
「任せてきた」
「商会は?」
「任せてきた」
「学校は?」
「もちろん任せてきた」
「……大丈夫でしょうか」
「大丈夫」
エドワードは自信満々に答えた。
「それに、今日は仕事の話は禁止」
「一か月ずっとですか?」
「そう」
「それは難しいと思います」
「じゃあ、努力目標」
「ふふっ」
リリアーナは笑った。
「エドワードさんらしいですね」
「せっかくの新婚旅行なんだから、君には仕事を忘れてほしいんだ」
「忘れられるでしょうか」
「僕が頑張る」
「何をですか?」
「君が仕事の話を始めたら、僕が別の話をする」
「例えば?」
「海が綺麗だね、とか」
「……」
「今日の夕食は何を食べよう、とか」
「……」
「君は僕のことをどう思ってる、とか」
リリアーナの頬が赤くなる。
「最後のは仕事と関係ありませんね」
「だからいいんだよ」
エドワードは笑った。
アルセリアの海
アルセリアは、ノルディアとはまるで違う国だった。
白い砂浜。
青い海。
眩しい太陽。
潮の香りを含んだ風。
宿泊する屋敷の窓を開ければ、遠くまで海が見える。
到着した初日。
リリアーナはさっそく海辺へ向かった。
「綺麗……」
裸足で砂浜を歩く。
波が足元を濡らす。
「冷たいですね」
「嫌?」
「いいえ」
リリアーナは笑った。
「気持ちいいです」
エドワードはそんな彼女を見つめていた。
「どうしました?」
「いや」
「?」
「幸せだなと思って」
「私もです」
二人は並んで海を眺めた。
その日の夕方。
エドワードは屋敷の使用人たちに頼んで、海辺に小さな食卓を用意してもらった。
白い布をかけた机の上には、アルセリアの果物と魚料理が並んでいる。
「これは……」
「夕食」
「海辺で?」
「うん。せっかく来たんだから」
波が寄せては返す。
夕焼けが海を金色に染める。
リリアーナはしばらく言葉を失っていた。
「気に入らなかった?」
「いいえ」
彼女はゆっくり首を振った。
「綺麗すぎて、どう言えばいいのか分からないんです」
エドワードは安心したように笑った。
「なら、言葉にしなくてもいいよ」
「……」
「今日は、ただ一緒に見ていよう」
二人は並んで座り、沈んでいく夕日を眺めた。
食事が終わっても、すぐには屋敷へ戻らなかった。
リリアーナが砂浜へ視線を落とす。
「エドワードさん」
「うん?」
「足跡が残っています」
「本当だ」
「波が来たら消えてしまいますね」
「また歩けばいい」
「同じ場所に?」
「うん。何度でも」
リリアーナは彼を見た。
「何度でも、ですか?」
「何度でも」
エドワードは彼女の手を取った。
「これから先も、こうして一緒に歩こう」
「……はい」
その夜、二人は初めてアルセリアの海辺で、長い時間を過ごした。
それからの一か月。
二人は本当に何もしなかった。
朝起きる。
ゆっくり朝食を食べる。
海へ行く。
日陰で本を読む。
眠くなったら昼寝する。
夕方になったら散歩する。
夜は海の音を聞きながら食事をする。
それだけ。
けれど、何もしない時間の中にも、二人だけの思い出は少しずつ増えていった。
朝の市場
滞在して一週間ほど経った朝。
エドワードが、リリアーナを市場へ誘った。
「市場ですか?」
「うん。朝の市場が面白いらしい」
「エドワードさんが市場に興味を持つなんて、珍しいですね」
「君と行きたいんだよ」
「……」
「それに、朝食の果物を選びたい」
「それなら使用人に頼めばいいのでは?」
「僕たちで選んだほうが楽しい」
市場には、色とりどりの果物や魚、香辛料が並んでいた。
アルセリアの人々の声が飛び交い、店先には見慣れない食材が並んでいる。
リリアーナは一つの籠の前で足を止めた。
「これは何でしょう?」
「店主に聞いてみよう」
エドワードが尋ねると、店主は笑顔で果物を一つ差し出した。
「甘いですよ」
リリアーナが受け取る。
「……」
「どう?」
「少し変わった香りですね」
「食べてみる?」
「はい」
リリアーナが一口かじる。
その瞬間、目を見開いた。
「甘い……」
「気に入った?」
「はい」
エドワードはすぐに籠いっぱいの果物を買おうとした。
「そんなにいりません」
「でも、好きなんでしょう?」
「一つで十分です」
「じゃあ二つ」
「増えていますよ」
「一つは今日食べる用。もう一つは明日用」
「明日も食べるとは限りません」
「じゃあ、僕が食べる」
「エドワードさんは甘いものが苦手でしょう?」
「君が好きなものなら、好きになれるかもしれない」
リリアーナは呆れたように笑った。
「無理をしなくてもいいですよ」
「無理じゃないよ」
エドワードは買った果物を大切そうに抱えた。
「君が嬉しそうにしているのを見るのが好きだから」
リリアーナは返す言葉を失った。
市場を出たあとも、彼女はしばらく黙っていた。
「どうしたの?」
「いえ」
「何か気になることが?」
「……嬉しいだけです」
エドワードは少し驚いた顔をした。
「嬉しい?」
「はい」
リリアーナは彼の腕にそっと手を添えた。
「私が好きなものを、エドワードさんも大切にしてくれるのが」
エドワードは歩みを緩めた。
「これからも、そうするよ」
「約束ですか?」
「約束」
二人は市場の喧騒の中で、指を絡めた。
雨の日の屋敷
アルセリア滞在中、珍しく雨が降った日があった。
海へ行けず、散歩もできない。
リリアーナは窓辺に座り、雨に濡れる庭を眺めていた。
「今日は何をしましょう?」
「何もしない」
「またですか?」
「雨の日は、何もしない日」
「でも、せっかくの旅行なのに」
「雨の日のアルセリアも、今日しか見られないよ」
エドワードはそう言って、暖炉の前に椅子を二つ並べた。
「本を読む?」
「何の本ですか?」
「君が選んで」
リリアーナは棚から一冊の本を取り出した。
魔道具の歴史書だった。
エドワードが苦笑する。
「仕事の話は禁止じゃなかった?」
「これは趣味です」
「仕事と趣味の境界が曖昧だね」
「エドワードさんだって商会の報告書を持ってきているではありませんか」
「これは読まないために持ってきた」
「そんなことがあるんですか?」
「あるよ」
二人は暖炉の前で本を開いた。
しばらくすると、雨音と紙をめくる音だけが部屋に響く。
リリアーナはいつの間にか、エドワードの肩に寄りかかっていた。
「眠い?」
「少しだけ」
「寝ていいよ」
「でも、本が」
「僕が持っているから」
「……」
リリアーナは目を閉じた。
エドワードは本を片手で支えながら、もう片方の手で彼女の髪を撫でた。
雨は夕方まで降り続いた。
リリアーナが目を覚ましたとき、肩には毛布がかかっていた。
「起きた?」
「……はい」
「よく眠っていたよ」
「すみません」
「謝らなくていい」
エドワードは彼女の髪に触れた。
「君が安心して眠れるなら、それでいい」
リリアーナは毛布の中から彼の手を探し、握った。
「では、もう少しだけこのままでいてもいいですか?」
「もちろん」
雨の音を聞きながら、二人はしばらく動かなかった。
海辺の灯り
別の日の夜。
アルセリアの海岸では、月明かりに合わせて小さな灯りを浮かべる祭りが開かれていた。
海面に無数の光が揺れている。
「綺麗……」
リリアーナは砂浜に立ち尽くした。
「灯りが星みたいですね」
「海に星が落ちてきたみたいだ」
「エドワードさんが、そんなことを言うなんて」
「僕だって詩的なことくらい言えるよ」
「少し意外でした」
「君の前だから」
リリアーナは彼を見上げた。
「私の前だから?」
「うん」
エドワードは、彼女の肩に薄い上着をかけた。
「君といると、普段なら考えないことを考えるんだ」
「例えば?」
「この景色を、ずっと覚えていたいとか」
「……」
「君が今どんな顔をしているか、忘れたくないとか」
リリアーナは頬を赤くした。
「そんなに見ないでください」
「見ていたい」
「恥ずかしいです」
「僕は嬉しいよ」
エドワードは彼女の手を取った。
海に浮かぶ灯りが、二人の顔を淡く照らす。
「リリアーナ」
「はい」
「結婚してくれて、ありがとう」
「……」
「僕の隣にいてくれて、ありがとう」
リリアーナは彼の手を握り返した。
「私のほうこそ」
「うん?」
「私を見つけてくれて、ありがとうございます」
エドワードは何も言わず、彼女を抱き寄せた。
波の音と、遠くの人々の笑い声。
その中で、二人は長い間抱き合っていた。
小さな贈り物
滞在の終わりが近づいた頃。
エドワードは、リリアーナを海沿いの小さな工房へ連れて行った。
「ここは?」
「アルセリアの職人が、貝殻を使った装飾品を作っているんだ」
店内には、白や青の貝殻で作られた髪飾りや首飾りが並んでいた。
リリアーナは一つの髪飾りに目を留めた。
淡い青色の貝殻に、小さな銀の飾りがついている。
「綺麗ですね」
「気に入った?」
「はい」
エドワードは店主に声をかけた。
「これを」
「エドワードさん?」
「新婚旅行の記念」
「でも、もう十分に思い出があります」
「だからこそ、形に残したいんだ」
エドワードは髪飾りを買い、リリアーナの髪にそっとつけた。
「似合う?」
「……」
エドワードはしばらく黙っていた。
「どうですか?」
「綺麗」
「髪飾りが?」
「君が」
リリアーナは鏡を見る。
青い貝殻が、彼女の髪の中で小さく揺れていた。
「大切にします」
「うん」
「アルセリアに来たことも」
「うん」
「この一か月のことも」
「僕も忘れない」
エドワードは彼女の額に口づけた。
「忘れたくないから、帰ったら写真を飾ろう」
「写真?」
「アルセリアで撮ったもの」
「そんなにたくさん撮ったんですか?」
「君が海を見ているところ。市場で果物を選んでいるところ。昼寝しているところ」
「寝ているところまで?」
「可愛かったから」
「消してください」
「嫌だ」
「エドワードさん」
「大切な思い出だから」
リリアーナは呆れながらも、笑ってしまった。
最後の海
帰国前日の夕方。
二人は、最初に訪れた海辺へ戻った。
夕日が水平線へ沈みかけている。
「明日、帰るんですね」
「うん」
「一か月、あっという間でした」
「もっと長くいてもよかった?」
「はい」
リリアーナは素直に答えた。
「でも、ノルディアへ帰るのも楽しみです」
「僕も」
「工房が恋しいですか?」
「君と一緒に帰れることが楽しみ」
「……」
「工房はその次」
「本当ですか?」
「本当」
二人は砂浜を歩いた。
最初の日と同じように、足跡が並んで残る。
リリアーナは足元を見ながら言った。
「この一か月で、たくさん歩きましたね」
「うん」
「市場にも行って、雨の日には本を読んで、海辺で食事をして」
「灯りの祭りも見た」
「髪飾りも買ってもらいました」
「果物も」
「それは食べ物です」
「思い出だよ」
リリアーナは笑った。
「そうですね」
波が足元へ近づく。
エドワードが彼女の手を引いた。
「濡れるよ」
「最初の日も濡れました」
「覚えてる」
「私も覚えています」
「じゃあ、最後も濡れて帰ろう」
「ふふっ」
二人は波打ち際を歩いた。
冷たい海水が足元を濡らす。
リリアーナはエドワードの腕に寄り添った。
「エドワードさん」
「うん?」
「この一か月、ありがとうございました」
「僕のほうこそ」
「私、休むことがこんなに幸せだとは思いませんでした」
「これからも、たまには休もう」
「はい」
「仕事をしない日を作る」
「努力します」
「約束だよ」
「約束です」
エドワードは彼女の手を握った。
「帰ったら、また忙しくなるかもしれない」
「そうですね」
「でも、今日みたいな時間を忘れないで」
「忘れません」
「僕も忘れない」
夕日が沈み、海が少しずつ青紫色に変わっていく。
二人はしばらく黙って海を眺めた。
そのとき。
リリアーナは、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
少し眠い。
身体が、いつもより重い。
けれど。
それは旅の疲れだと思った。
「少し疲れましたか?」
エドワードが尋ねる。
「はい。少しだけ」
「戻ろうか」
「もう少しだけ」
「無理はしないで」
「分かっています」
リリアーナは彼の肩に寄りかかった。
「あと少しだけ、ここにいたいです」
「うん」
エドワードは彼女の肩を抱いた。
二人は、沈んだ夕日の名残を眺めながら、最後の海辺の時間を過ごした。
その夜。
リリアーナはいつもより早く眠った。
エドワードは彼女の寝顔を見つめながら、そっと髪を撫でた。
「おやすみ、リリアーナ」
彼女は眠ったまま、わずかに身じろぎした。
エドワードは微笑む。
このときの二人は、まだ知らなかった。
アルセリアで過ごした一か月が、二人だけの新婚旅行ではなく。
やがて三人になる家族にとっての、最初の思い出にもなることを。
ノルディアへの帰還
一か月後。
二人はノルディアへ戻った。
街へ入った瞬間。
「おかえりなさい!」
「お二人ともおかえりなさい!」
「新婚旅行、どうでした?」
街の人々が次々と声をかけてくる。
リリアーナは笑顔で答えた。
「とても楽しかったです」
エドワードも笑う。
「最高だったよ」
その夜。
自宅に戻ったリリアーナは、久しぶりの自分の机を見つめた。
「……やっぱり、ここが落ち着きます」
「仕事?」
「少しだけ」
「少しだけなら」
エドワードも笑った。
けれど。
その頃から、リリアーナの身体に小さな変化が起こり始めていた。
最初は、ただの疲れだと思った。
朝、少し眠い。
以前より食欲がない。
好きだった料理の匂いが、なぜか気になる。
工房で立っていると、少し疲れる。
「旅行の疲れが残っているのでしょうか」
そう思っていた。
しかし。
数日後。
朝食の席で。
リリアーナは突然、顔をしかめた。
「……」
「どうした?」
「このスープ……」
「うん?」
「少し匂いが強くありませんか?」
エドワードはスープを見る。
「いつものだよ?」
「そうですよね……」
リリアーナは少しだけ離れた。
「今日はやめておきます」
「分かった」
エドワードは何も言わなかった。
その日の午後。
リリアーナが工房で設計図を見ていると。
「……」
急に眠くなった。
「少しだけ休みましょう」
椅子に座る。
そのまま目を閉じた。
気づけば、一時間近く眠っていた。
「……」
目を覚ますと。
目の前にエドワードがいた。
「おはよう」
「……どうしてここに?」
「迎えに来た」
「まだ夕方ですよ?」
「うん」
「仕事は?」
「代理に任せた」
「またですか?」
「今日は君が昼寝したから」
「それは私の問題では?」
「心配なんだよ」
リリアーナは少し笑った。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「……」
エドワードは彼女をじっと見つめた。
「最近、少し疲れやすくない?」
「そうでしょうか」
「うん」
「旅行の疲れだと思います」
「そうかな」
「そうですよ」
エドワードは納得しきれない顔をしていた。
医師の診察
それから数日後。
リリアーナは朝から体調が優れなかった。
「今日は工房を休みましょう」
「でも――」
「休もう」
エドワードが珍しく強い口調で言った。
「……分かりました」
医師を呼ぶ。
診察を受ける。
いくつか質問をされ。
検査を受け。
しばらくして。
医師が微笑んだ。
「おめでとうございます」
「……?」
リリアーナは瞬きをした。
「おめでとう、ございます?」
「はい」
医師は穏やかに告げた。
「お子様を授かっています」
「……」
時間が止まった。
リリアーナは自分のお腹へ手を当てる。
「……私が?」
「はい」
「赤ちゃんが……?」
「まだ小さいですが、確かに」
隣にいたエドワードは。
完全に固まっていた。
「……エドワードさん?」
「……」
「エドワードさん?」
「……僕たちの?」
医師が笑う。
「はい」
エドワードはしばらく黙っていた。
そして。
「……本当に?」
「はい」
「本当に、僕たちの子が?」
「そうです」
エドワードはリリアーナを見る。
リリアーナも彼を見る。
二人とも、何を言えばいいのか分からなかった。
やがて。
リリアーナの目から、涙が一粒こぼれた。
「……嬉しい」
エドワードも目を潤ませる。
「僕も」
そっと彼女の手を握る。
「ありがとう」
「まだ何もしてませんよ?」
「それでも」
エドワードは震える声で笑った。
「ありがとう、リリアーナ」
そして始まった
その日。
家へ戻ったエドワードは。
明らかに様子がおかしかった。
「エドワードさん?」
「うん」
「何をしているんですか?」
「……」
彼は椅子に座っている。
その手には紙。
「何を書いているんですか?」
「必要なもの」
「何が?」
「赤ちゃんに必要なもの」
「まだ早いですよ」
「早くない」
一枚目。
『赤ちゃん用品』
二枚目。
『妊娠中のリリアーナの生活』
三枚目。
『安全対策』
四枚目。
『食事』
五枚目。
『休息』
六枚目。
『工房での危険回避』
「……」
リリアーナは嫌な予感がした。
「エドワードさん」
「うん?」
「最後の紙には何が書いてあるんですか?」
エドワードが少しだけ視線を逸らした。
「……『リリアーナを守るために必要なこと』」
「……」
「何?」
「嫌な予感しかしません」
「大丈夫だよ」
「その言葉、信用できません」
エドワードは真顔で答えた。
「僕もまだ、どうすればいいか分からないから」
「……」
「だから勉強する」
「何を?」
「全部」
リリアーナは思った。
この瞬間。
エドワードの過保護人生が始まったのだと。
翌朝。
リリアーナがベッドから起き上がろうとした瞬間。
「待って!」
「……」
エドワードが飛び起きた。
「僕が支える!」
「一人で起きられます」
「分かってる」
「では――」
「でも、今日からは僕が支える」
「……」
「だって」
エドワードは真剣な顔で言った。
「君は僕の妻で」
そっと彼女のお腹を見る。
「この子のお母さんだから」
リリアーナは呆れながらも、少し笑った。
「……分かりました」
「本当に?」
「はい」
「無理してない?」
「してません」
「本当に?」
「本当です」
「ならよかった」
エドワードは嬉しそうに笑った。
その日の朝。
リリアーナはまだ知らなかった。
これから彼が。
階段の段数を数え。
食事の栄養を調べ。
工房の危険箇所を洗い出し。
家中の家具の角を保護し。
街中の人間にまで安全確認を頼み。
最終的には、
『ノルディア妊婦安全規定』
なるものを作り始めることを。
ただ一つ確かなことがある。
エドワードは、これまで以上にリリアーナを大切にする。
そしてリリアーナもまた、そんな彼の手を取りながら、アルセリアで過ごした一か月の思い出とともに。
自分たちの中に芽生えた小さな命を、二人で大切に育てていくのだった。




