15
その日。
リリアーナの陣痛が始まった。
「……エドワードさん」
「どうしたの?」
「少し、お腹が痛いです」
その一言を聞いた瞬間。
エドワードの顔から、すべての表情が消えた。
「……来た?」
「たぶん」
「予定日はまだ――」
「少し早いだけですよ」
「医師を!」
「もう呼んであります」
「馬車!」
「準備済みです」
「荷物!」
「昨日のうちにまとめてあります」
「護衛!」
「必要ありません」
「でも――」
「エドワードさん」
リリアーナが苦笑する。
「私よりあなたのほうが慌てていますよ」
「……そうかな」
「そうです」
「……」
エドワードは深呼吸した。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
「僕がついてるから」
「はい」
リリアーナは彼の手を握った。
「お願いします」
◇
そこから始まったお産は、長かった。
陣痛は次第に強くなり、間隔も短くなっていく。
エドワードはずっとリリアーナのそばにいた。
汗を拭く。
水を飲ませる。
手を握る。
医師や助産師の指示を聞き、必要なものを用意する。
そして。
「頑張って」
「……っ」
「リリアーナ、大丈夫」
「分かっています……!」
「僕がいるから」
「それも分かっています……!」
「痛い?」
「痛いです!」
「ごめん!」
「エドワードさんが謝ることじゃありません!」
「でも――」
「だから、黙って手を握っていてください!」
「はい!」
エドワードは即答した。
ぎゅっ。
リリアーナの手を握る。
「……痛いです」
「ご、ごめん。強すぎた?」
「違います……!」
「じゃあ、どうすれば?」
「そのままで……」
「分かった」
それから何時間も。
エドワードは、ただひたすら妻のそばにいた。
そして――。
長い時間を経て。
とうとう、その瞬間が訪れた。
「もう少しです!」
助産師の声。
「リリアーナ様、頑張って!」
「……っ、う……!」
エドワードは祈るように彼女の手を握った。
「リリアーナ」
「……」
「もう少し」
「……はい……!」
そして。
次の瞬間。
部屋に、小さな泣き声が響いた。
「――おぎゃあ!」
一瞬。
誰も言葉を発さなかった。
リリアーナも。
エドワードも。
ただ、その声を聞いていた。
「……生まれましたよ」
助産師が微笑む。
「男の子です」
エドワードの目が大きく見開かれる。
「男の子……」
そして。
赤ん坊がリリアーナの胸元へ運ばれた。
小さな手。
小さな足。
真っ赤な頬。
一生懸命に泣いている。
「……」
エドワードは、しばらく何も言えなかった。
やがて。
「……僕たちの子だ」
震える声。
「はい……」
リリアーナも涙を浮かべて笑った。
「私たちの子です」
エドワードは赤ん坊を見る。
そして。
ぽろり。
涙が落ちた。
「……エドワードさん?」
「ごめん」
「どうして謝るんですか?」
「嬉しくて……」
一粒。
また一粒。
涙が止まらない。
「こんなに小さい……」
「はい」
「ちゃんと生きてる……」
「はい」
「僕たちの子……」
「はい」
エドワードは赤ん坊の小さな手に指を近づけた。
きゅっ。
小さな指が、エドワードの指を握った。
「……!」
エドワードの涙がさらに増えた。
「握った……」
「ふふ」
「リリアーナ」
「はい」
「ありがとう」
「……」
「ありがとう……」
エドワードは何度も繰り返した。
「ありがとう」
「ありがとう、リリアーナ」
「僕と一緒に、この子を産んでくれてありがとう」
「ここまで頑張ってくれてありがとう」
「無事でいてくれてありがとう」
「僕のところに来てくれてありがとう」
「この子を産んでくれてありがとう」
「……」
リリアーナが苦笑する。
「エドワードさん」
「うん」
「もう何回目ですか?」
「分からない」
「でしょうね」
「だって……」
エドワードは泣きながら笑った。
「どうしたら、この気持ちを伝えられるのか分からないんだ」
リリアーナは少しだけ目を細めた。
「十分伝わっていますよ」
「本当?」
「はい」
「……よかった」
エドワードは再び赤ん坊を見る。
「名前……」
「はい」
「決めていた名前がある」
「何ですか?」
「リディ」
「リディ?」
「うん」
エドワードは小さな息子を見る。
「リディ・ハルト」
「素敵ですね」
「この子は――」
エドワードは震える声で言った。
「僕の人生で、最高の宝物だ」
そして、リリアーナを見る。
「君も」
「……」
「もちろん君も、僕にとって世界で一番大切な宝物だよ」
「二人とも宝物ですか?」
「うん」
「では、宝物が二つですね」
「そうだね」
エドワードは嬉しそうに笑った。
「僕は世界一幸せな男だ」
◇
それから。
エドワードは、完全な親バカになった。
「リディ、おはよう」
「……」
「今日も可愛いね」
「……」
「昨日より可愛い」
侍女が呆れた顔をする。
「旦那様」
「何?」
「昨日も同じことを言っていました」
「昨日より今日のほうが可愛いから」
「そうですか……」
リディが小さな手を動かす。
「見た?」
「はい」
「今、僕を見たよね?」
「偶然かと」
「違うよ」
エドワードは真顔だった。
「僕を見た」
「……」
「絶対に」
親バカは、出産前よりさらに悪化した。
◇
そして。
リリアーナに対しても、以前にも増して甘くなった。
「今日は何もしなくていいよ」
「もう出産から数週間経っていますよ?」
「でも休んで」
「工房を見たいです」
「僕が連れていく」
「自分で歩けます」
「知ってる」
「では――」
「でも一緒に行く」
「……」
以前なら呆れていたリリアーナも、今では少し笑ってしまう。
「仕方ありませんね」
「ありがとう」
「それにしても」
リリアーナは眠っているリディを見る。
「可愛いですね」
「うん」
「私たちの子なんですね」
「うん」
「不思議です」
「僕もそう思う」
エドワードはリリアーナの肩を抱いた。
「家族になったんだね」
「はい」
「……幸せだな」
「はい」
二人は小さな寝息を立てるリディを眺めた。
◇
そして三年後。
ノルディアには、また新しい命がやってきた。
「エドワードさん」
「どうしたの?」
「赤ちゃんができました」
「……」
エドワードが固まった。
「……本当に?」
「はい」
「リリアーナ」
「はい」
「僕たちに?」
「はい」
「もう一人?」
「はい」
数秒。
エドワードは黙っていた。
そして。
「……やった!」
三歳になったリディがびっくりして振り返る。
「おとうさん?」
「リディ!」
エドワードが息子を抱き上げる。
「お兄ちゃんになるんだよ!」
「おにいちゃん?」
「そう!」
「赤ちゃん?」
「そう!」
「リディ、おにいちゃん?」
「そうだよ!」
リディは嬉しそうに笑った。
「やった!」
「僕たちの家族が、また増える」
エドワードはリリアーナを見つめる。
「ありがとう」
「またですか?」
「何度でも言うよ」
「ふふ」
◇
そして。
数か月後。
今度は女の子だった。
「女の子ですよ」
その言葉を聞いたエドワードは。
また泣いた。
「……女の子」
「はい」
「僕たちの娘……」
「はい」
リリアーナは笑う。
「名前は?」
エドワードは少し考えてから答えた。
「エナ」
「エナ」
「うん」
「素敵ですね」
「リディとエナ」
エドワードは二人の子どもを眺める。
「僕の宝物が二人」
「私は?」
「三人」
「……」
「いや」
エドワードはすぐに訂正した。
「君が一番」
「ふふ」
「君がいなかったら、二人ともいないからね」
「そうですね」
「だから君は、僕にとって永遠に特別」
「ありがとうございます」
家族四人。
小さな家。
大きくなった工房。
賑やかなノルディア。
そこには、穏やかな時間が流れていた。
◇
リディが三歳。
エナがまだ赤ん坊だった頃。
二人の子どもたちは、毎日のように母親の姿を見ていた。
工房で設計図を広げるリリアーナ。
商人たちと話すリリアーナ。
新しい魔道具を考えるリリアーナ。
失敗して頭を抱え。
成功すれば嬉しそうに笑う。
街の人々と話し。
商談をまとめ。
新しい商品を世に送り出す。
そんな母親の姿を。
リディは、いつも楽しそうに見ていた。
そして、ある日。
工房の片隅で、リリアーナが商談をしている姿を眺めながら。
リディが言った。
「ぼく、おかあさんみたいになる」
エドワードが振り返る。
「ん?」
「おかあさんみたいに、おしごとする」
「……」
エドワードは微笑んだ。
「そうか」
リディは胸を張る。
「ぼくも、しょうにんになる!」
「商人?」
「うん!」
リリアーナが振り返る。
「まあ」
エドワードは嬉しそうに息子を見る。
「いいね」
「おとうさんみたい?」
「ううん」
リディは首を振った。
「おかあさんみたい」
「……」
エドワードが少しだけ固まった。
リリアーナが笑う。
「エドワードさん」
「うん」
「今、ちょっと寂しそうでしたよ」
「……いや」
エドワードは息子を見る。
「嬉しいよ」
「ほんと?」
「もちろん」
そう言って。
エドワードはリディを抱き上げた。
「お母さんみたいになりたいなんて、最高の言葉だよ」
リリアーナは、その光景を見ながら微笑んだ。
そして。
まだ赤ん坊のエナが、小さな手を伸ばす。
「んー」
「エナも?」
リリアーナが抱き上げる。
「あなたも大きくなったら、お仕事したい?」
エナは答える代わりに、母親の服をぎゅっと掴んだ。
「ふふ」
その姿を見ながら、リリアーナは笑った。
この二人が、いつか自分と同じように商売の世界へ進んでいくことになるなんて。
このときのリリアーナは、まだ知らない。
もちろん。
エドワードも知らない。
ただ今は。
「お母さんみたいになる!」
そう胸を張る息子と。
母親に抱かれて笑う娘。
そして。
そんな三人を世界で一番大切そうに見つめる父親。
四人で過ごす毎日が、何よりも幸せだった。
リリアーナの人生は、追放されたあの日から大きく変わった。
魔道具を作り。
街を育て。
商売を広げ。
たくさんの人々と出会った。
けれど。
彼女が最後に手に入れた一番大切なものは。
数字にも。
金貨にも。
魔道具の価値にも換算できない。
小さな二つの命と。
隣で笑ってくれる、一人の夫。
それが。
リリアーナにとっての、世界で一番の宝物だった。
そして――。
リディとエナが、本当に母親の背中を追いかけて商人の道へ進むのは。
まだ、ずっと先のお話である。




