五話
数日後。
「くっさ……」
「信幹ちゃん、領主がそんな顔しちゃ駄目だよ」
「姉上だって鼻押さえてるじゃないか」
「これは仕方ないでしょ!」
俺と姉上は揃って鼻を押さえながら、目の前の桶を覗き込んでいた。
大掾家の本拠である府中から東へ。
霞ヶ浦へ通じる高浜の津。
古くから府中の外港として使われてきたこの場所へ、俺達は葵が言い出した魚肥の材料を調べるために訪れていた。
葵本人も、
『わらわも参る!』
と最後まで騒いでいたのだが、
「臭いぞ」
と言った途端、
『……わらわは城で報せを待つ!』
と見事に掌を返した。
本人曰く、
『決して臭いのが嫌なのではない! 琴と幸を守らねばならぬゆえじゃ!』
とのことだった。
絶対に嘘だ。
「若殿」
「うむ」
俺は鼻から手を離し、後ろへ振り返った。
案内役を務めている高浜の漁師頭が、少し困ったような顔をしている。
「こちらが、魚を捌いた際に出ました内臓や頭、骨などにございます」
「毎日これほど出るのか?」
「日によりまする。漁の少ない日ならこの半分にもなりませぬし、多い日ならばもっと出ます」
「ふむ……」
桶の中には魚の頭や骨、内臓などが雑多に入れられている。
さすがに見た目もよろしくない。
だが。
「これまでは、どうしておった?」
「海へ戻すか、穴を掘って捨てるか。近くの畑を持つ者が持ち帰ることもございます」
「やはり肥にする者はおるのか」
「はい。ただ、臭いが強うございますので」
「それはよく分かる」
俺が思わず答えると、隣で姉上が笑った。
「信幹ちゃん、さっきから臭いしか言ってない」
「だって臭いんだから仕方ないだろ」
姉上に小声で返してから、俺は再び漁師頭へ向き直った。
「腐らせた後ならば、田畑へ入れても害はないのか?」
「量が多すぎれば作物を傷めると申す者もおります。ただ、草や土と混ぜて置いておけば良い肥になるとも」
「なるほど」
すでに使っている者がいるなら、姉上の知識だけを頼りに一から試す必要はない。
どの程度混ぜればよいか。
どのくらい置けばよいか。
それを実際に使っている百姓から聞けばよい。
「姉上」
「何?」
「葵の案、いけそうだな」
「うん。思ったより普通に使えそう」
「後は、どのくらい集められるかと、運ぶ銭か」
「それと保存というか、腐らせる場所かな。運んでる途中で汁が漏れたら最悪だし」
「……想像させないでくれ」
「ごめん」
だが、ここまでは予定通りだった。
問題は、この後だった。
「若殿。こちらへ」
「うむ」
漁師頭に案内され、俺達は魚を荷揚げする場所へと向かった。
そこで俺は足を止めた。
「……なんじゃ、これは」
魚。
魚。
魚。
俺が普段見慣れている川魚もいる。
鯉。
鮒。
小さな魚の群れ。
だが、その間に明らかに見慣れぬものが混じっていた。
「これは何という魚じゃ?」
「こちらは海より入ってくる魚にございます」
「海から?」
「はい」
俺は思わず霞ヶ浦の方を見る。
目の前に広がる水は果てが見えぬほど大きい。
幼い頃から知っている景色だ。
だが。
「霞ヶ浦は湖であろう?」
「湖?」
姉上が反応した。
「うむ。これほど大きくとも、湖ではないのか?」
「いや、それがね!」
姉上の顔が変わった。
あ、まずい。
この顔は———。
「信幹ちゃん!」
「近い」
「戦国時代の霞ヶ浦はね!」
「声が大きい」
「今の霞ヶ浦と全然違うの!」
始まった。
俺は内心でため息を吐いた。
姉上の戦国時代好きは筋金入りだ。
昔から、興味のある話になると周囲が見えなくなる。
「いい!? 未来の霞ヶ浦はほとんど淡水湖になってるんだけど、この時代は違うの! もっと海とのつながりが強いの!」
「う、うむ」
「霞ヶ浦だけじゃないよ! 北浦とか、その先の水域とか、もっと南の方まで含めるとね、でっかい水の世界になってるの!」
姉上は両腕を広げた。
「川から水が入る!」
右手。
「海からも水が入る!」
左手。
「だから!」
両手を合わせる。
「淡水の魚もいるし、海から入ってくる魚もいるし、その間の塩気のある水が好きな魚もいる!」
「……なるほど」
「しかも貝!」
「貝?」
「そう! 貝!」
なぜそこまで興奮する。
「信幹ちゃん、貝って地味だと思ってない?」
「別に」
「思ってる顔!」
「どんな顔だよ」
「霞ヶ浦周りはね、昔から貝もいっぱい取れるの! 貝塚とか残りまくってるから!」
「かいづか?」
「あー……昔の人が貝殻とか捨てた場所!」
「それが残っておるのか?」
「未来ではね!」
また未来の話だ。
俺は辺りを見た。
言われてみれば、魚だけではない。
籠には貝も大量に積まれている。
小さなもの。
大きなもの。
見慣れたものもあれば、よく分からぬものもある。
「それだけじゃないから!」
姉上が俺の袖を掴む。
「まだあるのか」
「ある!」
「落ち着け」
「これが落ち着いていられる!?」
いられると思う。
「霞ヶ浦ってね、私がもし戦国時代に転生したら絶対に欲しいと思ってた場所の一つなんだよ!」
「……姉上」
「何?」
「実際に転生しておるではないか」
「あ」
一瞬だけ止まる。
「じゃあ夢叶ってる!」
「大掾家のもの全部が姉上のものみたいに言うな」
「弟のものは姉のもの!」
「どこの理屈だよ」
「未来の偉い人が言ってた!」
「絶対偉くないだろ」
よく分からぬが、姉上の言う未来の偉人については信用しない方がいい気がする。
「それでなぜそこまで凄いんだ」
「よくぞ聞いてくれました!」
「自分で話してたんだろ」
「まず広い!」
「それは見れば分かる」
「次に魚!」
「今聞いた」
「貝!」
「それも」
「船!」
そこで少し引っかかった。
「舟?」
「そう!」
姉上は霞ヶ浦を指差す。
湖面には大小様々な舟が浮かんでいる。
「これだけ大きくて、いろんな川が流れ込んでて、南の水路を通ればもっと遠くまで行けるんだよ」
「……」
「陸の道で荷物運ぶより、舟の方がたくさん積めるでしょ?」
「うむ」
「だから霞ヶ浦は、魚を取る場所だけじゃなくて、巨大な道にもなるの!」
道。
その言葉は、葵からも聞いた。
『霞ヶ浦は大きな道のようなものじゃ』
姉上から聞いた言葉を、葵なりに覚えていたのだ。
「それからね」
「まだあるのか」
「塩!」
「塩?」
「正確には、この辺全部で簡単に塩が取れるって話じゃないよ」
珍しく姉上が先に念を押した。
「この時代の霞ヶ浦は海とのつながりが強いから、場所によって水に塩気があるし、南の方へ行けば塩を作ってる地域とも水路でつながるの」
「つまり、塩を運ぶにも舟を使える?」
「そういうこと!」
「なるほど……」
「しかも!」
「もう驚かぬぞ」
「琵琶湖!」
「……びわこ?」
「近江にある、ものすっごく大きな湖!」
「それは知っておる」
「私はね!」
姉上が胸を張る。
「戦国時代に転生して水運で国を豊かにするなら、琵琶湖と霞ヶ浦はツートップだと思ってた!」
「何の二つじゃ」
「戦国転生したら欲しい水域ランキング!」
「姉上しかつけてない順位ではないか」
「でも本当に凄いんだって!」
「それはもう分かった」
俺は姉上の話を頭の中で整理する。
いつものことだ。
姉上の話は長い。
話題が次から次へと飛ぶ。
未来でどうだった。
昔はどうだった。
琵琶湖がどうした。
貝塚がどうした。
そのまま聞いていると頭が痛くなる。
だが。
必要な部分だけを拾えば。
「つまり」
「うん!」
「霞ヶ浦には川の魚がおる」
「うん」
「海より入ってくる魚もおる」
「うんうん!」
「その間の塩気を好む魚もおり、貝も多い」
「そう!」
「さらに水そのものに多少の塩気がある場所があり、南へ舟を進めれば塩を作る土地ともつながる」
「完璧!」
「そのうえ舟を使えば、魚だけでなく米や薪、木材、人まで大量に運べる」
「それ!」
姉上が俺の肩を叩いた。
「だから戦国時代の霞ヶ浦は凄いの!」
「なるほど」
俺は改めて辺りを見た。
漁師達が魚を運ぶ。
籠いっぱいの貝。
舟から米俵を降ろす者もいる。
別の舟には薪が積まれていた。
商人らしき者が値段を交渉している。
今まで、俺はこれをただの港としか見ていなかった。
府中へ物を運ぶ場所。
漁師が魚を揚げる場所。
それだけだった。
だが。
「……待てよ」
「何?」
「これだけ魚が取れるのなら」
俺は並べられた魚を見る。
「すべて府中周辺で食う必要はないのではないか?」
姉上がにやりと笑った。
「気づいた?」
「干せば、もっと遠くへ運べる」
「うん」
「塩が手に入れば塩漬けにもできよう」
「そう!」
「貝も食える。小魚も食える。食えぬところは肥に回せる」
「うん!」
「……無駄が少ないな」
俺の頭の中で、昨日まで別々だった話がつながり始める。
魚を取る。
食う。
余れば干す。
売る。
加工した時に出たものは肥にする。
肥を田へ入れる。
米が増える。
その米を舟で運ぶ。
商人が来る。
港が栄える。
「姉上」
「何?」
「これ、漁を増やすだけでは駄目だな」
「お」
「舟を増やす。魚を保存する場所を作る。干物を作る場所もいる。塩を安定して手に入れる道も考える」
「うんうん!」
「府中へ運ぶ道も整えねばならぬ」
「うん!」
「それから……」
俺は少し考える。
「魚を売りに来る者から、無闇に銭を取らぬ方がよいかもしれぬ」
「おお?」
「高浜へ来れば売れる。府中へ持っていけばさらに商人がおる。そう思わせれば、よその漁師や商人も集まるのではないか?」
姉上の目が輝いた。
「信幹ちゃん、それめちゃくちゃ商業政策っぽい!」
「何だ、その言い方」
「領主っぽい!」
「俺は領主だよ!」
「知ってるけど!」
俺は漁師頭へ向き直った。
「一つ聞きたい」
「はっ」
「ここで取れた魚のうち、腐らせて捨てるものはどの程度ある?」
「日によりまするが、ございます」
「売れぬからか?」
「売れぬこともございますし、運ぶ間に傷むことも」
「干物にはせぬのか?」
「しております。ただ、すべてではございませぬ」
「塩漬けは?」
「塩が要りますゆえ、何でもというわけには」
「ふむ」
やはり、取れる魚の量だけ増やしても意味がない。
保存。
加工。
運搬。
売る場所。
全部揃って初めて銭になる。
「綾姫様」
それまで黙っていた常陸介が口を開いた。
「はい?」
「未来では、魚を長く持たせる方法は他にもございますかな」
「あー……燻製とか」
「くんせい?」
「煙で燻すの」
常陸介が俺を見る。
「若殿」
「俺を見るな。今聞く」
「ひどい!」
「姉上、魚を煙でどうするんだ?」
「火の上に直接置くんじゃなくて、煙を当てて乾かす感じ。魚でもできるはず」
「はず?」
「できる。でも木とか温度とか、私そこまで詳しくない」
「なら漁師や料理人に聞きながら試せばよい」
「そう、それ!」
常陸介が少し考える。
「されば、小さく試しますかな」
「爺」
「何でございましょう」
「随分慣れたな」
「誰か様のおかげにございます」
常陸介の目が姉上へ向く。
「私?」
「姫様以外におりますまい」
「えへへ」
「褒めておりませぬ」
俺は笑いを堪えた。
高浜の津をさらに歩く。
俺は今までよりも、ずっと注意して周囲を見るようになっていた。
舟の数。
荷物。
魚。
貝。
人。
倉。
道。
壊れかけた桟橋。
「……ここ、狭いな」
俺が呟く。
「何が?」
姉上が聞く。
「荷を置くところじゃ。舟が一度に来れば、すぐいっぱいになる」
「ああ、確かに」
「雨が降れば魚を置く場所にも困りそうじゃ」
「屋根欲しいね」
「倉も足りぬかもしれぬ」
「冷蔵庫欲しい」
「それは何だ」
「あー……未来の、物を冷たくして腐りにくくする箱」
「作れる?」
「無理」
「なら言うな」
「夢を語るくらいいいじゃん!」
だが、未来の箱とやらは無理でも。
日陰を作る、風通しをよくする、干す、塩を使う、煙で燻す。
そんな風に今できることはある。
「漁師頭」
「はっ」
「この津を広げるとすれば、どこがよい?」
「広げる……のでございますか?」
「すぐではない」
俺は辺りを見る。
「ただ、魚も荷も人も増やせる余地があるなら知っておきたい」
漁師頭は驚いたように俺を見た。
「若殿は……高浜を大きくなされるおつもりで?」
「できるならば」
「されど、銭がかかりましょう」
「分かっておる」
「人手も」
「それも」
「ならば」
漁師頭は少し迷い。
やがて霞ヶ浦へ向かって伸びる岸を指した。
「あちらならば、少し手を入れれば舟を着けやすくできるやもしれませぬ」
「ほう」
「ただ、水の流れもございますゆえ、舟を知る者にも見てもらわねば」
「よし」
俺は頷いた。
「船頭と舟大工、それからこの辺りをよう知る者を集めよう」
「はっ」
また仕事が増えた。
以前なら頭が痛くなっていたところだ。
今も多少は痛い。
だが。
「姉上」
「何?」
「俺、少し分かってきた」
「何が?」
「父上が土地を欲しがっておられた理由とは、少し違うかもしれない」
「うん?」
「土地を増やせば田が増える。田が増えれば米も兵も増える」
「うん」
「だから強くなると思っておった」
「間違ってないよ」
「うむ。だが」
俺は霞ヶ浦を見る。
「同じ土地でも、使い方で価値が違うのではないか?」
姉上が黙る。
「高浜一つを大きくして、舟が増え、魚を売り、米を運び、商人が集まれば……田を幾つか増やすより大きな利益を生むこともあるのではないか」
「……」
「姉上?」
「信幹ちゃん」
「何」
「それ、自分で気づいた?」
「姉上の話を聞いたからだけど」
「でもまとめたの信幹ちゃんだよね?」
「まあ」
姉上が突然、両手で俺の頭を掴んだ。
「何!?」
「信幹ちゃん成長してるー!」
「やめろ!」
「お姉ちゃん嬉しい!」
「人前だから!」
「昔はこんなにちっちゃかったのに!」
「今も姉上より背が低いの気にしてるんだから言うな!」
「大丈夫、男の子はこれから伸びるから!」
「そういう問題じゃない!」
俺が必死に姉上の手を振り払う。
周囲では漁師達が笑いを堪えていた。
「見るな!」
思わず言ってから気づく。
「……いや、すまぬ。今のは忘れてくれ」
「は、ははっ!」
絶対忘れない顔だ。
最悪だ。
帰る前。
俺はもう一度、高浜から霞ヶ浦を見た。
夕方の水面が赤く染まっている。
幾艘もの舟が行き交う。
今朝まで。
俺にとって霞ヶ浦は、領地の東にある巨大な水の広がりだった。
魚が取れる。
舟が使える。
その程度だった。
だが、今は違う。
魚。
貝。
塩につながる道。
大量の荷を運ぶ舟。
津。
商人。
田畑へ運べる肥。
そして、まだ俺が知らぬものがきっといくらでもある。
「姉上」
「ん?」
「霞ヶ浦、欲しいな」
「……え?」
「いや」
言ってから、自分でも少し笑う。
「霞ヶ浦そのものは、もう目の前にあるのだが」
「何、急に野心家になった?」
「違う」
俺は首を振った。
「この水を、もっと大掾家の力にしたい」
ただ魚を取るだけではない。
民が食う。
売る。
運ぶ。
田を豊かにする。
銭にする。
そして、その銭と食料で家を強くする。
「父上は、水戸を取り戻したいと申しておられた」
「うん」
「俺も取り戻したい」
「うん」
「だが、その前に」
霞ヶ浦を見る。
「今持っておるものを、もっと大切に使うべきなのかもしれぬ」
姉上はしばらく黙っていた。
それから、柔らかく笑った。
「いいんじゃない?」
「何が?」
「信幹ちゃんのやり方で」
父上のやり方とは違う。
父上は戦って領地を広げようとした。
俺も戦を避け続けるつもりはない。
いずれ水戸を取り戻すなら、江戸氏とも戦わねばならぬだろう。
だが、その前にできることがある。
「よし」
「何する?」
「まず魚肥」
「そこに戻るんだ」
「そのために来たのだから当然だろ」
「確かに」
「それから魚の保存法を試す。干物、塩漬け、姉上の言った煙のもの」
「燻製」
「それじゃ」
「あと港!」
「一度にやらぬ」
「えー」
「姉上」
「はい」
「まず魚肥と保存法。それで銭が増える見込みが立ってから、津を広げる」
「堅実だねえ」
「うちに銭がないんだから仕方ないだろ」
「それもそう」
「それと」
「まだある?」
「漁師に聞く」
「何を?」
「もっと魚を取れる余地があるのかを」
姉上がにやりと笑った。
「本気で水産業やる気になった?」
「うむ」
俺は頷いた。
「高浜と霞ヶ浦を、大掾家の強みにする」
その時の俺は、まだ知らなかった。
霞ヶ浦へ目を向けたことが。
後々、大掾家の戦い方そのものを大きく変えることになるなど。
ただこの日。
十三歳の俺は初めて土地を奪うことだけが、家を強くする道ではないと知ったのだった。
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