第九章 呼び声
犬はその場から動かなかった。
しばらく動かない。建物の間を抜けてきた風が、顔の前を通り過ぎる。犬は鼻を少し上げ、口を閉じたまま短く息を吸った。いったん顔を横へ向け、それから正面へ戻す。
朝の町には、いくつもの匂いが重なっていた。濡れた道路、乾きかけた土、植え込みの葉、家の中から流れてくる食べ物。洗濯物の布の匂い、自転車のタイヤ、室外機の風。犬はその場で何度か鼻を動かした。
その中に、別の匂いが混じる。
犬が一歩進んだ。
また止まる。
鼻先が上がる。短く息を吸い、少し長く吐く。犬が顔を下げると、湿った路面の上にほかの犬や猫の匂いが残っていた。塀の角へ鼻先を近づけ、そこを嗅いでから、ゆっくり顔を上げる。
風がまた動いた。
洗剤の匂い。汗の匂い。土の匂い。草の匂い。洗剤の匂い、汗の匂い、土や草の匂い、布の匂いが薄く重なっている。犬の鼻が小さく何度も動いた。
道路の向こうから自動車が通る。風が起こり、匂いが一度に流れた。犬の鼻先が左右へ揺れる。車が通り過ぎると、風が弱くなる。
犬は動かなかった。
もう一度、鼻を上げる。
さっきの匂いが、また流れてきた。
犬が歩き出す。四歩ほど進んで止まる。右を見る。左を見る。人の姿はない。犬は正面へ顔を向け、鼻を動かした。
角の近くから、小さな足音が聞こえた。
犬の耳が動く。
足音は一度止まり、また聞こえてくる。濡れた路面を踏む音が、角の向こうから少しずつ近づいてくる。
犬は歩かない。鼻を上げる。風が止まると、耳だけが前を向く。しばらくして風が戻る。犬の鼻がまた動く。
人の匂いが強くなった。
「コロ?」
犬の耳がぴんと立った。
顔が上がる。
けれど、犬はすぐには走らなかった。首を少し伸ばし、鼻先を風の中へ出す。短く息を吸う。もう一度。さらに一度。
犬が一歩前へ出た。角へ近づく。そこで止まり、地面を嗅ぐ。新しい匂いの下に、別の匂いがいくつも重なっている。犬は鼻先を少しずらし、塀の根元を嗅いだ。それから顔を上げた。
声がもう一度聞こえる。
「コロ……?」
犬の鼻先が上がった。
耳が前を向く。
曲がり角の向こうから、小さな姿が現れた。
男の子だった。
犬の身体が止まる。
男の子も止まった。
二人の間には、十数歩ほどの道がある。男の子の髪は少し乱れていた。頬が赤い。息をするたびに肩が小さく上下している。片方の靴には泥がつき、膝のあたりも少し汚れていた。
男の子が目を見開いた。
「コロ……?」
犬が鼻を動かした。風が男の子のほうから流れてくる。洗剤の匂い。汗。土。草。布の匂い。その一つ一つが犬の鼻へ届く。犬の鼻先が上がり、口が少し開いた。
男の子が一歩近づく。犬は動かない。もう一歩。男の子の足が止まった。
「コロ……」
声が途中で詰まった。男の子は唇をきゅっと結び、目元を手の甲で押さえる。けれど、涙は止まらなかった。頬を一筋、二筋と流れ落ちる。
「コロ、生きてた……」
犬が鼻を動かした。耳が前を向く。
男の子の肩が小さく震えた。しゃがみ込もうとした身体が一度ぐらつく。それでも両手を広げた。
「コロ!」
「ワン!」
犬が走り出した。地面を蹴る音が続く。前脚が伸び、後ろ脚が強く地面を押す。尾が大きく左右へ振られ、耳が後ろへ流れる。犬の身体が、道をまっすぐ進んでいく。
男の子も駆け出した。涙を手の甲で拭いながら、それでも犬のほうへ両手を伸ばす。
犬が飛びついた。
前脚が男の子の胸に当たる。男の子の身体が後ろへ揺れる。それでも倒れず、両腕で犬の背中を抱えた。
男の子の顔が犬の首元へ埋まる。声がこぼれる。
「コロ……」
犬は身体を少しよじり、男の子の顔へ鼻先を近づけた。
犬が顔を上げる。鼻先が男の子の頬に触れる。鼻を動かす。髪の匂いを嗅ぐ。頬を嗅ぐ。首元へ鼻先を移す。男の子の服へ顔を押しつける。
舌が伸びた。
頬を舐める。
「やめてってば!」
男の子が顔を横へ向ける。犬はその動きを追う。顎へ鼻を当て、また舌を伸ばす。
「やめてってば、もう!」
男の子が笑いながら犬の顔を両手で挟んだ。犬の耳が左右へ動く。男の子の指に鼻を押しつけ、そのまま手首まで匂いを嗅いでいく。
男の子が犬の首元へ手を回した。首輪の金具が小さく鳴る。
「……ほんとにコロだ」
男の子の声はまだ少し震えていた。犬の尾が激しく動き、そのたびに男の子の腕へ当たる。犬は前脚を胸にかけたまま、鼻先を男の子の服へ押しつけている。男の子は涙の残る顔で犬の背中を何度も撫でた。
「どこにいたの?」
犬は返事をしない。鼻が動き、頬へ顔を寄せる。男の子の目元へ近づいたとき、犬の舌が伸びた。
「くすぐったいよ」
男の子が笑う。
犬の尾が、さらに速く振られる。
男の子は何度も犬の背中を撫でた。濡れた毛の間に指を入れ、肩から背中へゆっくり手を動かす。泥の固まった場所に触れると、手が止まった。
「これ、どうしたの?」
犬が顔を動かした。
「いっぱい汚れてるね」
男の子の手が泥の上から離れる。犬はその手を追うように鼻を近づけ、指の間を嗅いだ。男の子が手のひらを広げる。犬がもう一度嗅ぐ。
「僕だよ」
犬の鼻先が手のひらへ触れる。
男の子が目元を手の甲でぬぐった。
「ずっと探したんだよ」
犬が顔を上げた。鼻が動く。男の子の頬へ近づく。目元に残った水分を舌で一度舐めた。
「やっぱり、やめてってば」
男の子が笑う。
犬の尾が左右へ振られ、そのたびに背中で音がする。
しばらくして、犬が四本の脚を地面につけた。男の子も立ち上がる。犬はすぐ横にいる。男の子が一歩進むと犬も進み、男の子が止まると犬も止まった。
男の子も立ち上がる。犬はすぐ横にいる。男の子が犬の首元へ手を回す。首輪の金具が小さく鳴る。犬が顔を上げる。鼻先を男の子の頬へ近づけ、もう一度、匂いを嗅ぐ。
「帰ろうね」
男の子が歩き出す。犬も、その横を歩き出した。




