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コロの冒険  作者: parupuntist


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8/10

第八章 朝の道

 朝。


 雨は上がっていた。


 ひさしの先から、まだ水が落ちている。一定の間隔で落ちる水が、昨夜の雨で黒く濡れた地面へ小さな輪を作っていた。道路には細長い水たまりがいくつも残り、街灯の光を薄く映している。


 犬は伏せたまま、顔だけを上げた。


 耳が少し動く。


 遠くで鳥が鳴いた。続いて、どこかで金属の戸が開く音がした。犬が鼻を上げる。湿った空気が鼻先を通り、昨夜とは違う匂いが混じってくる。濡れた土。冷えた舗装。草。家の中から流れてくる食べ物の匂い。


 犬が前脚を少し前へ出した。


 身体を起こす。前脚を伸ばし、胸を低くする。後ろ脚を伸ばす。背中がゆっくり反る。尾が一度だけ動く。


 犬が立ち上がる。


 全身を震わせた。


 首が左右へ振れる。耳の毛が揺れ、背中の毛が波のように動く。水滴が細かく飛び、朝の光の中で一瞬だけ見えた。犬は頭を振り、それから胸元を前脚で軽く掻いた。


 ひさしの外へ出る。


 前脚を濡れた道路へ下ろし、すぐに持ち上げる。冷たい水が肉球へ触れたためか、犬は一度だけ足先を振った。それでもそのまま歩き出す。


 道路の端を進む。


 昨夜は見えなかったものが、明るくなったことでいくつも目に入る。植木鉢。低い塀。閉じた店の扉。縁石に寄せられた自転車。水たまりの中に浮いている細い葉。


 犬が一枚の葉へ鼻を近づける。


 鼻先を動かす。


 葉には別の匂いが付いていた。土の匂いに混じって、何かの食べ物のような匂いがする。犬が葉の周りを嗅ぐ。葉の下へ鼻を入れ、地面を二度嗅ぐ。それから顔を上げる。


 通りの向こうで、シャッターが上がった。


 犬の耳が立つ。


 人の足音が聞こえる。金属の擦れる音のあとに、店の中から暖かい空気が流れてきた。焼いたパンの匂いが、通りへ少しずつ広がっていく。


 犬が顔を上げる。


 鼻が動く。


 店の前まで行くことはなかった。道路の端に立ち、匂いのするほうを見ている。人が店の外へ箱を運び出している。箱を地面へ置くたび、犬の耳が小さく動いた。


 人の一人が犬に気づいた。


「おはよう」


 犬がその声を見るように顔を向ける。


 人が少し笑った。犬は動かない。店からもう一度パンの匂いが流れる。犬の鼻が動く。だが、人が犬へ近づいてくると、犬は一歩だけ後ろへ下がった。


 人はそれ以上近づかなかった。


 犬はしばらく店の前にいたが、やがて身体を横へ向け、歩き出す。


 朝の町は、夜とは違っていた。


 車が増えている。自転車のベルが遠くで鳴る。店の前で荷物を下ろす音が聞こえる。家の中から水の流れる音がする。犬はそれらの音がするたびに耳を動かした。


 角を曲がる。


 通りが広くなった。


 人が多い。


 犬は道路の端へ寄った。人とすれ違うたびに身体を少し横へずらす。誰かの靴が近づくと、植え込みの縁へ寄る。通り過ぎると、また歩き出す。


 自転車が一台、後ろから近づいてきた。


 ベルが鳴る。


 犬が振り返る。


 自転車が横を通り過ぎた。犬が一歩だけ外側へ避ける。車輪が水たまりの端を通り、水が細く跳ねた。犬はその場に立ち止まったまま、自転車が遠ざかるのを見ている。


 音が小さくなる。


 犬が前へ向き直る。


 少し先で、別の自転車が止まっていた。乗っていた人が降りる。犬のほうを見る。犬は身体を低くしない。ただ、四本の脚を少し開き、すぐに動ける姿勢になる。


 人は自転車を押して歩き出した。


 犬はそのまま道路の端を進んだ。


 小さな公園の前を通る。


 門の向こうから子どもたちの声が聞こえた。犬が顔を上げる。何人もの足音が近づいてくる。犬の耳が前を向く。


 小学生くらいの子どもたちが、ランドセルを背負って歩いてきた。


 犬が立ち止まる。


 一人の子どもが犬に気づいた。足が少し遅くなる。別の子どもが振り返る。何人かが犬を見る。


 犬は動かなかった。


 子どもの一人が少しだけ近づく。


「犬だ」


 犬の鼻が動く。


 子どもの服から、家の匂いと朝食の匂いがする。犬が一人ずつの足元を見て、また顔を上げる。


「かわいいね」


 手が少し持ち上がる。


 犬の耳が動く。


 子どもがさらに一歩近づこうとしたところで、別の子どもが腕を引いた。


「学校、遅れるよ」


 子どもたちは走り出した。


 足音が道路の先へ遠ざかっていく。


 犬の頭がその方向へ少しだけ動く。


 最後尾の子どもが一度振り返った。犬と目が合う。子どもが笑った。犬は尾を振らなかった。


 子どもが前を向き、走っていく。


 犬も歩き出した。


 学校へ向かう子どもたちの流れから外れるように、住宅地へ入る。


 道幅が狭くなる。


 車が少なくなり、代わりに家の中から生活の音が聞こえるようになった。食器が触れ合う音。掃除機の音。水道の音。窓を開ける音。


 犬は一軒の家の前で足を止めた。


 門の脇に新聞が置かれている。犬が鼻を近づける。紙の匂いを嗅ぐ。新聞の下の地面を嗅ぐ。新聞を配った人の匂いが薄く残っている。


 犬は鼻先を上げた。


 風が家と家の間を抜けていく。


 別の匂いがする。


 犬が身体の向きを変える。


 細い道へ入った。


 両側から塀が迫り、人が一人通れるほどの幅しかない。地面には雨水がまだ残り、ところどころ小さな泥ができている。


 犬は泥を避けながら歩いた。


 前脚を高く上げる。濡れていない場所を選ぶ。後ろ脚が続く。少し歩いては鼻を下げ、また歩く。


 道の途中に古い植木鉢が並んでいた。


 犬が一つへ鼻を近づける。


 土の匂い。


 湿った葉の匂い。


 鉢の陰から小さな虫が動いた。犬の鼻先がそちらへ向く。頭が少し傾く。虫が鉢の裏へ消える。犬はしばらくそこを見ていたが、やがて顔を上げた。


 また歩く。


 角があった。


 犬が角の手前で立ち止まる。


 鼻を上げる。


 何度か鼻を動かす。


 道の向こうから、河の匂いがかすかに流れてきた。


 犬が顔を上げた。


 耳が前を向く。


 だが、そこへは行かなかった。


 犬は角を曲がった。


 その先にも細い道が続いていた。家の壁に朝の光が当たり、地面に長い影ができている。犬の影も、その中を伸びたり縮んだりした。


 犬が数歩歩く。


 人の足音がする。


 立ち止まる。


 耳が動く。


 足音は近づいてくる。犬は道の端へ寄った。塀に身体を近づける。やがて角から人が現れた。


 犬は顔を上げた。


 人は犬を見る。


 犬も見た。


 人が道の端へ寄る。犬も反対側へ寄る。すれ違うとき、人がちらりと犬を振り返った。犬は振り返らなかった。


 足音が遠ざかる。


 犬の鼻が動いた。


 道の先から、別の匂いがしている。


 犬が歩き出す。


 住宅地の中をしばらく進む。


 道幅が少し広くなった。塀が途切れ、低い生け垣が続いている。生け垣の葉から水滴が落ち、犬の背中へ一つ当たった。犬が首を振る。水滴が毛の中へ消える。


 道路の向こうからバスの音が聞こえた。


 犬の耳が立つ。


 音が近づき、大きくなる。


 犬が道路の端へ下がる。


 バスが通り過ぎる。大きな風が起こり、生け垣の葉が一斉に揺れた。犬の毛も風を受ける。犬は少し身体を低くし、バスが遠ざかるまで動かなかった。


 静かになる。


 犬が立ち上がる。


 道路の先を見る。


 人が増えていた。


 通勤する人。買い物袋を持った人。自転車を押す人。犬はそれぞれの足元を避けながら歩いた。近くを人が通るたび、耳が動く。誰かが早足になると、犬も少し脇へ寄る。


 ときどき立ち止まって、道路の匂いを嗅いだ。


 タイヤの跡。


 水。


 土。


 朝の食べ物。


 犬の鼻が何度も動く。


 道路の向こうに小さな店があった。店先に箱が並んでいる。野菜の匂いがする。犬が足を止める。


 店の中から人が出てきた。


 犬が一歩下がった。


 人は箱を並べる。犬をちらりと見る。犬もその手元を見る。箱の中から葉が一枚落ちた。


 犬が近づいた。


 落ちた葉を嗅ぐ。


 野菜の匂いがする。


 犬が鼻先で葉を少し動かした。葉が濡れた道路を滑る。犬がその動きを目で追う。しばらくして、葉から離れる。


 また歩き出した。


 太陽が建物の向こうから顔を出した。


 道路の水たまりが光った。


 犬の背中にも光が当たる。濡れていた毛の表面が少しずつ乾き、首のあたりがふわりと膨らんだ。犬は歩きながら一度、身体を振った。大きな震えではない。肩と背中が短く揺れ、尾が一度動く。


 歩く。


 昨日よりも、足取りは速かった。


 何度か立ち止まりはした。それでも、止まる時間は短い。匂いを嗅いで、顔を上げ、また歩く。


 住宅地の奥へ入っていく。


 道が二つに分かれていた。


 犬が立ち止まる。


 右を見る。


 左を見る。


 右の道には朝の人の匂いが強い。左の道からは風が来る。犬が鼻を上げる。耳が少し動く。


 犬が左へ進んだ。


 しばらく歩く。


 家と家の間を抜ける。


 塀の向こうから鳥の声がする。犬が一度だけ見上げる。青い空が見えた。


 犬がそのまま歩く。


 角を曲がった。


 その先には、これまでより長い道が伸びていた。


 犬が数歩進む。


 そして、止まった。


 風が、道の先から流れてきている。


 犬の鼻先が少し上がった。鼻が小さく動く。いったん顔を横へ向け、もう一度、風の来るほうへ鼻先を戻す。


 犬はその場で動かず、何度か短く息を吸った。周囲の家の匂い、濡れた道路の匂い、草の匂い。その中に、別の匂いが混じっている。


 犬の鼻がまた動いた。


 一歩前へ出る。


 止まる。


 もう一度、鼻を上げる。


 そのとき、道路の先から人の声が聞こえた。


 犬の耳が立つ。


 顔が上がる。


 けれど、すぐには走らない。犬は鼻を動かし、風の向きを確かめるように頭を少しずつ左右へ向けた。


 声が、もう一度聞こえた。


 「……」


 犬の鼻先が、声のする方向へ向いた。

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