第八章 朝の道
朝。
雨は上がっていた。
ひさしの先から、まだ水が落ちている。一定の間隔で落ちる水が、昨夜の雨で黒く濡れた地面へ小さな輪を作っていた。道路には細長い水たまりがいくつも残り、街灯の光を薄く映している。
犬は伏せたまま、顔だけを上げた。
耳が少し動く。
遠くで鳥が鳴いた。続いて、どこかで金属の戸が開く音がした。犬が鼻を上げる。湿った空気が鼻先を通り、昨夜とは違う匂いが混じってくる。濡れた土。冷えた舗装。草。家の中から流れてくる食べ物の匂い。
犬が前脚を少し前へ出した。
身体を起こす。前脚を伸ばし、胸を低くする。後ろ脚を伸ばす。背中がゆっくり反る。尾が一度だけ動く。
犬が立ち上がる。
全身を震わせた。
首が左右へ振れる。耳の毛が揺れ、背中の毛が波のように動く。水滴が細かく飛び、朝の光の中で一瞬だけ見えた。犬は頭を振り、それから胸元を前脚で軽く掻いた。
ひさしの外へ出る。
前脚を濡れた道路へ下ろし、すぐに持ち上げる。冷たい水が肉球へ触れたためか、犬は一度だけ足先を振った。それでもそのまま歩き出す。
道路の端を進む。
昨夜は見えなかったものが、明るくなったことでいくつも目に入る。植木鉢。低い塀。閉じた店の扉。縁石に寄せられた自転車。水たまりの中に浮いている細い葉。
犬が一枚の葉へ鼻を近づける。
鼻先を動かす。
葉には別の匂いが付いていた。土の匂いに混じって、何かの食べ物のような匂いがする。犬が葉の周りを嗅ぐ。葉の下へ鼻を入れ、地面を二度嗅ぐ。それから顔を上げる。
通りの向こうで、シャッターが上がった。
犬の耳が立つ。
人の足音が聞こえる。金属の擦れる音のあとに、店の中から暖かい空気が流れてきた。焼いたパンの匂いが、通りへ少しずつ広がっていく。
犬が顔を上げる。
鼻が動く。
店の前まで行くことはなかった。道路の端に立ち、匂いのするほうを見ている。人が店の外へ箱を運び出している。箱を地面へ置くたび、犬の耳が小さく動いた。
人の一人が犬に気づいた。
「おはよう」
犬がその声を見るように顔を向ける。
人が少し笑った。犬は動かない。店からもう一度パンの匂いが流れる。犬の鼻が動く。だが、人が犬へ近づいてくると、犬は一歩だけ後ろへ下がった。
人はそれ以上近づかなかった。
犬はしばらく店の前にいたが、やがて身体を横へ向け、歩き出す。
朝の町は、夜とは違っていた。
車が増えている。自転車のベルが遠くで鳴る。店の前で荷物を下ろす音が聞こえる。家の中から水の流れる音がする。犬はそれらの音がするたびに耳を動かした。
角を曲がる。
通りが広くなった。
人が多い。
犬は道路の端へ寄った。人とすれ違うたびに身体を少し横へずらす。誰かの靴が近づくと、植え込みの縁へ寄る。通り過ぎると、また歩き出す。
自転車が一台、後ろから近づいてきた。
ベルが鳴る。
犬が振り返る。
自転車が横を通り過ぎた。犬が一歩だけ外側へ避ける。車輪が水たまりの端を通り、水が細く跳ねた。犬はその場に立ち止まったまま、自転車が遠ざかるのを見ている。
音が小さくなる。
犬が前へ向き直る。
少し先で、別の自転車が止まっていた。乗っていた人が降りる。犬のほうを見る。犬は身体を低くしない。ただ、四本の脚を少し開き、すぐに動ける姿勢になる。
人は自転車を押して歩き出した。
犬はそのまま道路の端を進んだ。
小さな公園の前を通る。
門の向こうから子どもたちの声が聞こえた。犬が顔を上げる。何人もの足音が近づいてくる。犬の耳が前を向く。
小学生くらいの子どもたちが、ランドセルを背負って歩いてきた。
犬が立ち止まる。
一人の子どもが犬に気づいた。足が少し遅くなる。別の子どもが振り返る。何人かが犬を見る。
犬は動かなかった。
子どもの一人が少しだけ近づく。
「犬だ」
犬の鼻が動く。
子どもの服から、家の匂いと朝食の匂いがする。犬が一人ずつの足元を見て、また顔を上げる。
「かわいいね」
手が少し持ち上がる。
犬の耳が動く。
子どもがさらに一歩近づこうとしたところで、別の子どもが腕を引いた。
「学校、遅れるよ」
子どもたちは走り出した。
足音が道路の先へ遠ざかっていく。
犬の頭がその方向へ少しだけ動く。
最後尾の子どもが一度振り返った。犬と目が合う。子どもが笑った。犬は尾を振らなかった。
子どもが前を向き、走っていく。
犬も歩き出した。
学校へ向かう子どもたちの流れから外れるように、住宅地へ入る。
道幅が狭くなる。
車が少なくなり、代わりに家の中から生活の音が聞こえるようになった。食器が触れ合う音。掃除機の音。水道の音。窓を開ける音。
犬は一軒の家の前で足を止めた。
門の脇に新聞が置かれている。犬が鼻を近づける。紙の匂いを嗅ぐ。新聞の下の地面を嗅ぐ。新聞を配った人の匂いが薄く残っている。
犬は鼻先を上げた。
風が家と家の間を抜けていく。
別の匂いがする。
犬が身体の向きを変える。
細い道へ入った。
両側から塀が迫り、人が一人通れるほどの幅しかない。地面には雨水がまだ残り、ところどころ小さな泥ができている。
犬は泥を避けながら歩いた。
前脚を高く上げる。濡れていない場所を選ぶ。後ろ脚が続く。少し歩いては鼻を下げ、また歩く。
道の途中に古い植木鉢が並んでいた。
犬が一つへ鼻を近づける。
土の匂い。
湿った葉の匂い。
鉢の陰から小さな虫が動いた。犬の鼻先がそちらへ向く。頭が少し傾く。虫が鉢の裏へ消える。犬はしばらくそこを見ていたが、やがて顔を上げた。
また歩く。
角があった。
犬が角の手前で立ち止まる。
鼻を上げる。
何度か鼻を動かす。
道の向こうから、河の匂いがかすかに流れてきた。
犬が顔を上げた。
耳が前を向く。
だが、そこへは行かなかった。
犬は角を曲がった。
その先にも細い道が続いていた。家の壁に朝の光が当たり、地面に長い影ができている。犬の影も、その中を伸びたり縮んだりした。
犬が数歩歩く。
人の足音がする。
立ち止まる。
耳が動く。
足音は近づいてくる。犬は道の端へ寄った。塀に身体を近づける。やがて角から人が現れた。
犬は顔を上げた。
人は犬を見る。
犬も見た。
人が道の端へ寄る。犬も反対側へ寄る。すれ違うとき、人がちらりと犬を振り返った。犬は振り返らなかった。
足音が遠ざかる。
犬の鼻が動いた。
道の先から、別の匂いがしている。
犬が歩き出す。
住宅地の中をしばらく進む。
道幅が少し広くなった。塀が途切れ、低い生け垣が続いている。生け垣の葉から水滴が落ち、犬の背中へ一つ当たった。犬が首を振る。水滴が毛の中へ消える。
道路の向こうからバスの音が聞こえた。
犬の耳が立つ。
音が近づき、大きくなる。
犬が道路の端へ下がる。
バスが通り過ぎる。大きな風が起こり、生け垣の葉が一斉に揺れた。犬の毛も風を受ける。犬は少し身体を低くし、バスが遠ざかるまで動かなかった。
静かになる。
犬が立ち上がる。
道路の先を見る。
人が増えていた。
通勤する人。買い物袋を持った人。自転車を押す人。犬はそれぞれの足元を避けながら歩いた。近くを人が通るたび、耳が動く。誰かが早足になると、犬も少し脇へ寄る。
ときどき立ち止まって、道路の匂いを嗅いだ。
タイヤの跡。
水。
土。
朝の食べ物。
犬の鼻が何度も動く。
道路の向こうに小さな店があった。店先に箱が並んでいる。野菜の匂いがする。犬が足を止める。
店の中から人が出てきた。
犬が一歩下がった。
人は箱を並べる。犬をちらりと見る。犬もその手元を見る。箱の中から葉が一枚落ちた。
犬が近づいた。
落ちた葉を嗅ぐ。
野菜の匂いがする。
犬が鼻先で葉を少し動かした。葉が濡れた道路を滑る。犬がその動きを目で追う。しばらくして、葉から離れる。
また歩き出した。
太陽が建物の向こうから顔を出した。
道路の水たまりが光った。
犬の背中にも光が当たる。濡れていた毛の表面が少しずつ乾き、首のあたりがふわりと膨らんだ。犬は歩きながら一度、身体を振った。大きな震えではない。肩と背中が短く揺れ、尾が一度動く。
歩く。
昨日よりも、足取りは速かった。
何度か立ち止まりはした。それでも、止まる時間は短い。匂いを嗅いで、顔を上げ、また歩く。
住宅地の奥へ入っていく。
道が二つに分かれていた。
犬が立ち止まる。
右を見る。
左を見る。
右の道には朝の人の匂いが強い。左の道からは風が来る。犬が鼻を上げる。耳が少し動く。
犬が左へ進んだ。
しばらく歩く。
家と家の間を抜ける。
塀の向こうから鳥の声がする。犬が一度だけ見上げる。青い空が見えた。
犬がそのまま歩く。
角を曲がった。
その先には、これまでより長い道が伸びていた。
犬が数歩進む。
そして、止まった。
風が、道の先から流れてきている。
犬の鼻先が少し上がった。鼻が小さく動く。いったん顔を横へ向け、もう一度、風の来るほうへ鼻先を戻す。
犬はその場で動かず、何度か短く息を吸った。周囲の家の匂い、濡れた道路の匂い、草の匂い。その中に、別の匂いが混じっている。
犬の鼻がまた動いた。
一歩前へ出る。
止まる。
もう一度、鼻を上げる。
そのとき、道路の先から人の声が聞こえた。
犬の耳が立つ。
顔が上がる。
けれど、すぐには走らない。犬は鼻を動かし、風の向きを確かめるように頭を少しずつ左右へ向けた。
声が、もう一度聞こえた。
「……」
犬の鼻先が、声のする方向へ向いた。




