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コロの冒険  作者: parupuntist


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7/8

第七章 雨の夜

 夜の町は静かになっていった。


 少し前まで点いていた店の明かりが、ひとつ、またひとつと消えている。犬は道路の端を歩いていた。街灯の下へ入るたび、濡れた毛の色が短い間だけ浮かび上がる。腹の下と胸のあたりにはまだ湿り気が残り、歩くたびに毛先が小さく揺れた。


 犬が足を止めた。空から、小さなものが落ちてきた。鼻先に一粒触れる。犬が顔を上げる。耳が前を向き、暗い空をしばらく見た。もう一粒が額へ落ち、犬が瞬きをする。次の粒が首筋へ落ちると、犬は首を少し振ってから、鼻先を地面へ戻した。


 道路には、まだ水たまりはできていなかった。乾いた舗装の上へ、丸い黒い点がいくつも広がっている。犬がその一つへ鼻を近づけた。鼻先を動かしながら数歩進み、また立ち止まる。雨粒が背中へ落ちた。


 雨が増えてきた。


 犬は道路の端から建物の壁際へ寄った。軒の下が長く続いている。犬は頭を少し上げ、屋根の下を見ながら歩く。ところどころに乾いた場所があり、そこへ入るたびに足を止める。床の匂いを嗅ぎ、奥から音がしないか耳を動かす。


 交差点を曲がったところで風が吹いた。横から雨が入り込み、犬の首の毛を揺らす。耳が左右へ動く。犬は一軒の建物の壁へ身体を寄せ、入り口の脇にできた狭い陰へ顔を入れた。そこには人の靴の跡がいくつもあり、濡れた床には古い土の匂いが残っていた。


 犬が鼻先を床へ近づける。そのとき、建物の奥で戸が動いた。金属が擦れる音がして、犬の耳が立つ。続いて人の足音が二つ、三つ聞こえる。犬が一歩下がった。もう一歩下がり、建物の陰から出る。足音が近づいてくる前に、犬は雨の中へ戻った。


 道路を流れる水が、縁石に沿って細く動き始めていた。犬がその流れをまたぐ。前脚を上げ、少し高いところへ足を置く。後ろ脚が続く。水が肉球の間へ入り、犬が一度だけ足先を振った。それでも歩く。


 頭が下がっている。耳もあまり動かない。背中の毛に雨粒がいくつも並び、首から胸へ流れている。腹の毛先から落ちた水滴が、道路へ小さな跡を作っていた。犬がときどき顔を上げるが、すぐにまた鼻先が下がる。


 通りの向こうから傘を差した人が近づいてきた。犬が顔を上げる。黒い傘が風を受けて揺れている。人の足元が少しずつ近づく。犬は道路の端へ寄り、植え込みの前まで下がった。人が横を通り過ぎる。傘の先から落ちた水が、犬の鼻先へ飛んだ。犬が鼻を舐める。


 人の足音が遠ざかっていく。犬は植え込みから出た。濡れた葉へ鼻を近づけると、葉の表面から雨の匂いが強く漂ってくる。鼻先が葉へ触れ、すぐに離れる。犬が顔を上げ、また歩き出す。


 雨は止まなかった。


 犬は何度か屋根のある場所へ入った。商店の軒下では、シャッターが閉じている。駐車場の端には大きな屋根があったが、風が入り込んで身体が濡れる。小さな店の入り口にも屋根が張り出していたが、人の気配がしたため、犬はそこへ入らなかった。


 道路の向こうで、店員らしい人が扉を閉める音がした。犬がそちらを見る。扉のガラス越しに明かりが見える。犬の耳が少し前を向く。明かりはしばらくして消えた。


 犬は濡れた道路を渡らず、同じ側の歩道を進んだ。雨水が靴底ほどの浅い溝を作り、その中を小さな葉が流れていく。犬が一度、流れていく葉を目で追う。葉が縁石の隙間へ入ると、犬は顔を上げた。


 焼けた魚の匂いが流れてきた。


 犬の鼻が動く。道路の向こうを見る。細い煙が屋根の間から上へ伸びている。犬は歩幅を小さくし、匂いの強くなるほうへ数歩進んだ。店の前にはまだ明かりがあり、人が二人ほど立っている。犬が足を止める。鼻を上げたまま、しばらく動かない。


 店の前にいた人の一人が犬に気づいた。犬が顔を上げる。人が傘を少し傾ける。雨が犬の背中へ当たる。人は何か言ったが、犬は動かない。やがて人は店へ戻った。


 匂いだけが残った。


 犬はしばらくその場にいたが、道路の端へ鼻を下ろした。水に濡れた舗装の匂いが強い。魚の匂いは雨に混じって少しずつ薄くなった。犬が歩き出す。


 少し先に、屋根の張り出した自動販売機の並ぶ場所があった。壁との間に人ひとり分ほどの幅があり、風が直接当たらない。犬が入口へ顔を入れる。乾いた床の匂いを嗅ぐ。誰もいない。犬が一歩入る。


 そこで身体を振った。


 首が大きく左右へ動く。耳の毛から細かな水が飛ぶ。肩が揺れ、背中から腹まで毛が波打つ。尾が最後にぶるりと動く。床へ小さな水滴がいくつも落ちた。


 犬はその場で前脚を持ち上げた。舌が肉球へ触れる。数回舐めて、顔を上げる。反対側の前脚も舐める。後ろ脚を少し前へ引き、そこへ鼻先を寄せる。濡れた毛の間を嗅ぐように鼻を動かしてから、脚を元へ戻した。


 犬の胸がゆっくり上下していた。


 自動販売機の冷たい音が低く続いている。犬が一度だけ顔を上げる。赤や青の明かりが毛の端に映る。機械の下へ鼻を近づける。何かの匂いはあるが、人の姿はない。犬は鼻を上げ、風の入る方向を見る。


 そのまま数分ほど立っていた。


 やがて犬が外へ出る。


 雨脚が強くなっている。軒の端から落ちる水は細い線になり、地面へ当たって小さく跳ねている。犬はその手前で立ち止まり、雨の向こうを見る。遠くの道路を車が通り、ライトが濡れた路面を横切った。


 犬の耳が立つ。


 車輪が水を踏む音が近づき、横を通り過ぎる。水が道路脇へはねた。犬が一歩後ろへ下がる。車が遠ざかると、犬は首を少し前へ出した。雨音だけが残った。


 犬が屋根の下から出た。


 数歩歩いて、また止まる。鼻先を上げる。雨が鼻へ落ちる。犬が顔を横へ向ける。人の匂いが流れてくる。犬はその方向へ歩きかけるが、数歩で足を止めた。匂いは建物の向こうから来ていた。


 犬は建物の壁際を進んだ。角を曲がる。そこには細い路地があり、ゴミ袋がいくつか並んでいた。雨が袋の表面を流れている。犬が一つへ鼻を近づける。ビニールの匂いのほかに、食べ物の匂いがわずかに残っている。犬が袋の周りを一周する。鼻先を下げ、袋の下へ入っている葉や紙を嗅ぐ。


 犬は何もくわえなかった。


 顔を上げると、路地の奥で水が流れている。犬がそちらへ近づく。排水口へ向かう細い流れだった。鼻を近づけ、しばらく水面を嗅ぐ。雨が流れ込むたび、水面が細かく揺れる。犬の舌が一度だけ伸びた。


 すぐには飲まなかった。


 犬が首を上げる。耳を動かす。路地の外で人の声がした。犬は振り返り、身体を少し低くした。声が近づく。足音が止まり、また動く。犬は路地の奥へ二歩下がった。


 人が傘を差して角を曲がってきた。


 犬が顔を上げる。人が犬を見つける。犬は動かない。人も少しの間立ち止まり、それから傘を傾けた。雨が路地へ吹き込み、犬の背中へ細かな水が飛ぶ。


「こっち、おいで」


 犬の耳が動く。


 人が一歩だけ近づく。犬は後ろへ下がる。さらに一歩。犬の身体が路地の壁へ寄る。人はそれ以上近づかなかった。


「大丈夫だよ」


 犬が鼻を動かす。


 人はしゃがまず、その場に立ったまましばらく犬を見ていた。やがて傘を傾け、路地の外へ戻る。犬は足音を追うように頭を動かした。足音が消えると、顔を前へ戻した。


 雨はさらに強くなった。


 犬は路地から出た。道路の水はくるぶしほどの深さにはならないものの、縁石の近くでは流れがはっきり見える。犬が水を避けながら歩く。前脚を高く上げ、少しでも浅い場所へ足を置く。後ろ脚が続く。何度も同じ動きを繰り返した。


 大きな水たまりの前で足が止まる。


 犬が水面を見る。雨粒が次々と落ち、丸い波紋が重なっている。犬が右へ移動する。そこにも水がある。左を見る。塀の脇に細い乾いた場所が残っている。犬はそこへ身体を寄せるようにして進んだ。


 靴箱の置かれた玄関があった。ひさしが道路側へ張り出し、玄関前には濡れていない床が広く残っている。犬がそこへ入った。


 犬が座った。


 背中を丸め、頭を下げる。しばらくすると、鼻を前脚へ近づけた。脚の毛にはまだ水が残っている。犬は前脚を舐めた。舌が肉球の間へ入る。二、三度舐めて、顔を上げる。外を見る。


 家の中から明かりが漏れていた。


 犬が耳を動かす。奥から生活の音が聞こえる。皿の触れる音。小さな足音。水道の音。犬は立ち上がらず、入口の外を見ている。


 やがて明かりが一つ消えた。


 犬の耳がわずかに動く。


 もう一つ消える。


 外の雨音のほうが大きくなった。犬が鼻を前脚へ戻す。


 しばらくして、犬は立ち上がった。玄関前を一度だけ歩き、ひさしの深い場所へ移動する。壁へ近づきすぎない程度に身体を寄せ、再び伏せた。


 道路を車が一台通った。ヘッドライトが犬のいる場所まで届く。犬が頭を上げる。光が濡れた路面を白く照らし、そのまま通り過ぎる。音が遠ざかる。


 犬の頭がゆっくり下がった。


 人が一人、道路を歩いていった。傘の端から水が落ちている。犬が顔を上げる。人は犬を見たが、立ち止まらなかった。足音が遠ざかる。


 犬はその音をしばらく聞いていた。


 やがて耳が止まる。


 雨が屋根を叩いている。ひさしから落ちた水が、一定の間隔で地面を打っている。道路の端では小さな葉が流れ、角へ集まり、また別の流れへ押し出されていく。


 犬がその葉を見る。


 頭だけが少し動く。


 葉が流れ去ると、犬はもう見なかった。


 身体を小さく丸める。


 後ろ脚を腹の下へ寄せる。尾が身体の横へ回る。鼻先が前脚の間へ近づく。濡れた毛が身体に張りついている。耳の先だけが、ときどき小さく動く。


 しばらくして、近くで金属の音が鳴った。


 犬の耳が立つ。顔が上がる。音は続かない。犬は道路を見る。誰もいない。雨だけが降っている。


 犬の顔が下がる。


 夜が深くなるにつれて、人の声は少なくなった。車も減り、たまに遠くを通る音がするだけになる。店の明かりはほとんど消え、残った一つの明かりも、いつの間にか暗くなった。


 犬は何度か顔を上げた。風が変わるたびに鼻が動く。遠くから食べ物の匂いが流れてくることもある。犬は立ち上がらず、鼻先を少し上げるだけだった。匂いが薄くなると、また頭が前脚へ下がる。


 雨はまだ降っていた。


 犬が一度、身体を震わせた。毛の間から水滴が飛ぶ。背中が大きく揺れ、耳が左右へ動く。震えが終わると、犬は前脚を伸ばして床へ腹をつけた。


 ひさしの外では、雨水が流れ続けている。


 犬が顔を上げる。濡れた道路の向こうを見る。街灯の光が水面へ揺れている。犬の鼻が一度だけ動いた。


 それから、鼻を前脚の間へ入れる。


 身体がさらに小さく丸まる。


 しばらく動かなかった。


 遠くで車の音がした。犬の耳が一度だけ動く。音が小さくなる。耳が元へ戻る。


 また静かになる。


 雨だけが、長く降り続いていた。

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