第六章 町角
坂道を下りきると、家々の並ぶ通りが続いていた。犬は道路の端を歩いた。河で濡れた毛は少しずつ乾いているが、腹の下と胸のあたりにはまだ湿り気が残っている。歩くたびに毛先が揺れ、乾いた土が足の内側へ細かく付いた。
道端の植え込みで、犬が足を止めた。鼻を下げ、葉の間へ鼻先を入れる。頭を少しずつ右へ動かし、次に左へ動かす。草の葉が鼻先に触れるたび、犬はほんの少し顔を引いた。しばらくして顔を上げると、耳が前へ向いた。自転車が近づいてきた。
車輪の音が大きくなる。犬は身体を道路の端へ寄せた。自転車が横を通り過ぎる。ベルが一度鳴る。犬が顔を上げる。自転車の後ろ姿が小さくなっていくと、耳がゆっくり戻った。犬はまた歩いた。
角を曲がると道幅が広くなった。建物の間から人の話し声が聞こえる。車の音も重なっている。犬は歩きながら何度か顔を上げ、人が近づくたびに身体を少し横へずらした。すれ違うと前へ戻る。その繰り返しだった。
しばらく進むと、店先から匂いが流れてきた。焼いた小麦の匂いに、油の匂いが混じっている。少し甘い匂いもする。犬の鼻が細かく動き、首が伸びた。犬は店の前で立ち止まった。
戸口の近くに木の台があり、その上にパンが並んでいる。人が一人、台の向こうで作業をしていた。犬は店の中へ入らず、台の下へ鼻を向ける。木の脚を嗅ぎ、床を嗅ぎ、道路へ戻る。もう一度、店の奥から流れてくる匂いを嗅いだ。店の人が顔を上げた。
「おい」
犬が顔を上げる。
人が戸口まで出てきた。犬は一歩後ろへ下がった。人がしゃがむ。犬は動かない。鼻だけが動いている。
「お腹すいてるの?」
犬が鼻を上げた。
人は手に持っていた小さなパンを見せ、それから少し離れた場所へ置いた。犬の耳が前を向く。人が一歩下がる。犬はパンを見る。人を見る。もう一度パンを見る。少しだけ前へ出る。
鼻を伸ばして匂いを嗅ぐ。もう一歩進む。前脚を一つ出し、身体を低くする。パンへ鼻先が触れそうになる。
犬がパンをくわえた。
そのまま店から離れた。道路の端まで進み、植え込みの脇へ移動する。そこで座り、前脚でパンを押さえた。鼻先を近づけ、端を少しかじる。顎がゆっくり動く。もう一口かじる。パンを押さえていた前脚が少しずつ動き、それに合わせて犬の頭も動いていく。
パンが小さくなる。
犬が口元を舐めた。前脚を一度だけ舐める。それから顔を上げ、店のほうを見る。戸口に立っていた人と目が合った。犬は立ち上がると、店とは反対の方向へ歩き出した。正面から、大きな犬が近づいてきた。
リードを持った人が後ろにいる。大きな犬がこちらへ顔を向ける。犬の耳が立ち、身体が止まった。
相手の犬が近づく。鼻先が伸びる。犬も鼻を少し前へ出した。二頭の間の距離が縮まる。相手の犬が一度、鼻を鳴らした。犬は顔を少し横へ向けた。
大きな犬がさらに一歩近づいた。犬の耳が後ろへ倒れる。身体が低くなり、尾が下がる。相手の人がリードを短く持ち直した。
「ほら、行こう」
大きな犬が引かれる。犬はその場から少し離れた。二人と一頭が通り過ぎるまで動かない。足音が遠ざかると、犬は地面へ鼻を下ろした。さっきまで相手の犬がいた場所を短く嗅ぎ、それから顔を上げた。少し先に、商店街の入り口が見えていた。
人の数が多い。
犬は歩道の端を進んだ。店の前には箱や看板が並んでいる。人が立ち止まり、荷物を持って行き交っている。大きな音がすると、犬の耳が左右へ動く。
焼き魚の匂いがした。
犬の鼻が上を向く。匂いのする店先へ少し近づく。魚の入った箱が道路側へ置かれていた。犬はその下から鼻を入れる。冷たい箱の底から強い匂いがする。鼻を動かしながら、さらに一歩近づいた。店先で作業していた人が気づいた。
「こら」
犬が顔を上げる。
「ここはだめだよ」
人が手を振った。
犬は一歩下がる。人がもう一度手を振る。犬はさらに一歩下がった。店先から離れ、通りの反対側へ移動する。そこで立ち止まると、まだ魚の匂いが届いている。
犬は鼻を上げ、店を見る。しばらく動かない。それから前を向き、歩き出した。
通りの向こうから子どもの声が聞こえた。
犬の耳が動く。
数人の子どもが走ってくる。ランドセルが背中で揺れている。犬が顔を上げる。子どもの一人が犬に気づいた。
「あ、犬だ」
足音が近づいてくる。犬は立ち止まった。子どもが少し屈み、手を伸ばす。犬はその手を見た。鼻が動く。子どもの足がもう一歩近づく。犬が一歩後ろへ下がる。
「おいで」
犬は動かない。
子どもがもう一歩近づく。犬は横へ動いた。子どもが追いかけようとすると、別の子どもが袖を引いた。
「やめようよ。びっくりするよ」
足音が止まる。
犬は通りの角へ向かった。角を曲がると、人の声が少し遠くなった。建物の隙間から河川敷が見えた。
犬の足が止まった。
遠くに水面がある。風が河から吹いてくる。犬が鼻を上げる。耳が前を向く。しばらく立っていたが、やがて斜面へ下りていった。
草の生えた斜面を下る。前脚で土を踏み、後ろ脚が続く。湿った土の匂いを嗅ぐ。途中で足を止め、河の水面を見る。光が細かく揺れていた。犬が一歩下りる。さらに一歩。
浅い場所まで来ると、犬は水面へ鼻先を近づけた。舌先が水に触れる。顔を上げ、口元を舐める。もう一度、水を舐める。今度は続けて何度か舌を動かし、少しだけ飲んだ。
犬は河から離れた。
少し先にベンチがあり、二人の人が座っていた。犬は近づいたが、人の真正面へは行かない。少し離れたところを通り、ベンチの下へ鼻先を入れる。草の根元も嗅ぐ。乾いた土の匂いに、靴や食べ物の匂いが混じっている。ベンチに座っていた一人が犬を見る。
「迷子かな」
犬が顔を上げる。人が立ち上がった。犬は一歩後ろへ下がる。
「首輪、ついてるね」
人がゆっくり近づいてくる。犬はさらに後ろへ下がった。ベンチの脚へ身体を寄せる。鼻先が地面へ向く。人の手が伸びる。犬は身体を横へずらした。
「待って」
手が止まる。
犬はベンチの反対側へ回った。人は追ってこなかった。もう一人の人が座ったまま、犬を見ている。
「どこから来たんだろうね」
犬は河のほうへ顔を向けた。風が吹く。耳が動く。犬が立ち上がり、ベンチから離れた。
河原を歩く。少し進んだところで身体を震わせた。乾きかけた毛が大きく揺れ、砂が細かく飛ぶ。頭を振る。耳の毛から水滴がいくつか落ちた。河原から上の道へ戻る。
道の端に自動販売機が並んでいる。人が飲み物を買っている。扉が開くと、冷たい風が音と一緒に出てきた。犬が顔を上げる。耳が動く。自動販売機の下へ鼻を近づけ、人の靴の匂いを嗅ぐ。自動販売機の前にいた人が犬に気づいた。
「犬だ」
犬が振り返る。
人がしゃがんだ。手に小さな紙の容器を持っている。犬が鼻を動かす。人が少し前へ出ると、犬は一歩下がった。
「お水、飲む?」
人が紙の容器を地面へ置く。
犬はすぐには近づかない。容器を見る。人を見る。もう一度容器を見る。少し時間を置いてから前へ出る。
鼻先を容器へ近づける。水の匂いを嗅ぐ。舌が伸びる。水面へ舌先が触れる。顔を上げる。もう一度舐める。今度は続けて何度も舌を動かす。
犬は少しだけ水を飲んだ。
顔を上げる。
人はまだしゃがんでいる。犬は容器から離れた。人が手を伸ばす。犬は身体を横へずらした。手が止まる。
「そっか」
犬はその場を離れた。
商店街を抜けるころには、空の色が少しずつ変わっていた。店の明かりが一つ、また一つと点いている。道路を走る車のライトが横切るたび、犬の毛が短い間だけ明るく見えた。
焼き鳥の匂いがした。
犬の鼻が動く。
通りの向こうに小さな店がある。店先には人が立ち、白い煙が上へ流れている。犬が少しずつ近づく。歩道の端で止まり、煙の匂いを嗅ぐ。店から人が出てきた。
「お、また犬だ」
犬が顔を上げる。
人が紙袋の中から小さな肉片を取り出した。犬の鼻が動く。肉の匂いが強くなる。人は肉片を地面へ置いた。
犬はすぐには近づかなかった。
人が一歩離れる。犬が肉片を見る。鼻を少し上げる。足を一歩出す。もう一歩。匂いを嗅ぐ。肉片をくわえる。
犬はその場から離れた。店の裏手の壁際まで移動し、そこで座る。前脚で肉片を押さえ、ゆっくり食べる。小さくなった肉を前脚で押し直し、さらに食べる。最後の欠片を舌ですくい上げるようにして口へ入れた。
食べ終わると、口元を舐めた。鼻を地面へ下ろす。前脚のそばを短く嗅ぐ。身体を起こし、壁の角へ鼻を近づけた。
夜の匂いが少し強くなっていた。
犬は歩き出した。
住宅地へ向かう道があった。道路の幅が狭くなり、人の姿も少なくなる。犬の歩く速度が少し落ちた。家の前を通り、植木鉢を嗅ぐ。門の柱を嗅ぐ。道路の端を嗅ぐ。数歩進んでは立ち止まり、また歩く。ときどき後ろを振り返る。通りには人の姿がない。犬は前へ向き直る。
さらに先へ進むと、小さな公園があった。門は開いている。中に人はいない。犬が門の前で立ち止まり、内側の匂いを嗅ぐ。草の匂いがする。犬が中へ入った。
砂の上を歩く。ベンチの脚を嗅ぐ。滑り台の下へ鼻を入れる。乾いた葉の匂いを嗅ぐ。草の根元へ鼻を寄せる。ときどき頭を上げ、周囲の音へ耳を動かす。
広い場所まで来ると、犬が立ち止まった。四本の脚を少し開き、頭を下げる。前脚へ鼻先を近づけ、しばらく動かない。やがて顔を上げると、胸がゆっくり上下していた。公園の外から車の音がした。犬の耳が動く。
門のほうへ顔を向ける。音は近づき、通り過ぎる。犬はそのまま数秒立っていたが、やがて身体を起こした。公園を出る。
暗くなった道路を歩く。街灯の下を通るたび、毛の色が一瞬だけ浮かび上がる。犬はときどき足を止め、前脚を持ち上げた。肉球の間へ舌を入れるようにして舐める。反対側の前脚も舐める。それから足を下ろして歩き出す。
歩く距離が長くなるにつれて、立ち止まる時間が少しずつ長くなった。犬が一軒の店の前で足を止める。
シャッターが半分まで下りている。軒下には乾いた場所が残っている。犬が頭を入れる。風が弱い。道路を通る人の足音も、店の前では少し遠く聞こえた。犬は軒下の奥へ一歩入った。
身体を丸める。頭を前脚の近くへ下ろす。背中がゆっくり上下している。道路を人が通った。犬の耳が動く。足音が遠ざかる。
しばらくして、別の足音が近づいた。犬が顔を上げる。外を見る。人はそのまま通り過ぎた。犬は顔を下ろした。
軒下の暗がりで、犬の身体だけがゆっくり上下していた。通りの向こうでは、店の明かりが一つずつ消えていく。夜の町は静かになっていった。




