第五章 庭先
坂道を上っていく道は、河原から離れるほど乾いていた。道の端に生えている草は風に揺れ、ところどころに小さな石が顔を出している。犬はその間を歩いた。濡れた毛が身体に張りついている。腹の下から水滴が落ち、歩くたびに土へ小さな跡ができた。
少し歩くと、犬は立ち止まった。鼻を下げる。道端の草へ鼻先を入れ、しばらく動かない。草の葉が鼻の横で揺れる。犬が顔を上げる。耳が動く。前を見る。
家が増えていた。
道の両側に塀が並び、その向こうから人の声が聞こえてくる。自転車の車輪が回る音もする。どこかで金属の戸を閉める音がした。犬は音のするほうへ顔を向けた。耳が一度だけ動く。それから道へ鼻を戻す。
犬はまた歩いた。
道路脇に置かれた鉢植えの前で、足が止まる。土の匂いを嗅ぐ。鉢の縁へ鼻を近づける。葉の先が鼻へ触れ、犬が少し顔を引く。隣の鉢へ移る。そこでも鼻を動かす。さらに先へ進む。
電柱の下で、また止まった。
犬は電柱の根元へ顔を寄せた。鼻先を左右へ動かし、地面の匂いを嗅ぐ。しばらく嗅いでから顔を上げる。車が一台、ゆっくり通り過ぎた。犬が道路の端へ身体を寄せる。車が離れるまで動かない。音が遠ざかると、前脚を一歩出した。
歩きながら、何度か振り返る。
後ろには誰もいない。
犬は前へ向き直る。
その先に、一軒の家があった。塀は低く、門は道路側へ少し開いている。門の隙間から、細い影が地面へ伸びていた。
犬が足を止めた。
鼻が動く。
門の向こうから、草と土の匂いが流れてくる。乾いた木の匂いもある。さらに奥から、食べ物の匂いがかすかに混じっていた。
犬は門へ近づいた。
隙間へ鼻先を入れる。鼻の先が門へ触れそうになるところで止まる。もう一度、匂いを嗅ぐ。耳が動く。中から物音がした。
犬は首を引いた。
しばらく門の前に立っていたが、やがて身体を横へ向け、開いた隙間をくぐった。
前脚が中へ入る。
後ろ脚が続く。
尾が門へ軽く触れた。
中庭だった。
地面には細かな砂利が敷かれている。端には低い植え込みがあり、葉の間から土が見えている。壁際には物干し台があり、その下に古い鉢や道具が置かれていた。
犬は入ったところで立ち止まった。
頭を下げる。
砂利の匂いを嗅ぐ。
鼻先を動かしながら、植え込みのほうへ歩く。葉の根元を嗅ぐ。壁際へ移る。柱を嗅ぐ。物干し台の脚を嗅ぐ。そこに残っていた別の匂いを確かめるように、鼻を何度も動かした。
身体についた水が、毛先からまだ落ちている。
犬は一度、身体を震わせた。濡れた毛が大きく揺れる。水滴が砂利へ飛び散った。耳も一緒に振られる。犬はその場で二度、三度と震わせたあと、鼻を地面へ戻した。
家の中から足音が聞こえた。
犬の頭が上がった。
耳が前を向く。
引き戸が開いた。
娘が中庭へ出てきた。手には洗濯物が一枚ある。犬を見つけると、足が止まった。
犬も動かない。
娘が目を丸くした。
「柴犬?」
犬の耳が少し動いた。
娘がゆっくり近づいてくる。犬は一歩だけ後ろへ下がった。娘がそこで止まる。洗濯物を片手に抱え直し、少し離れたところから犬を見る。
「ハンサムだね」
犬が娘を見る。
尾は動かない。
娘がしゃがみ込む。砂利の上に片膝をつき、手を伸ばした。犬はその手を見た。身体を少し低くする。鼻先が前へ伸びる。
手が近づく。
犬は一歩も動かない。
鼻が動く。
娘の指先の匂いを嗅ぐ。指の一本一本へ鼻先を近づける。手が少し動くと、犬の鼻もその動きを追う。娘は手を止めた。
犬はなおも嗅いでいる。
娘の目が犬の首元へ移った。濡れた毛の間から、首輪が見えている。犬が顔を少し動かすと、首輪の金具が小さく光った。そこから下がっている札も見える。泥がつき、傷もついているが、首輪が付いたままであることははっきり分かった。
娘が眉を上げた。
「あ」
犬の首元を見る。もう一度、札を見る。
「飼い犬なんだ」
犬は聞こえてくる声のほうへ顔を向けた。娘が立ち上がらないまま、首輪を見つめている。そこに手を伸ばすことはしなかった。娘の視線が犬の全身をゆっくり動く。濡れて細く見える毛。泥のついた足。傷んだ首輪。首輪についた札。
「血統書付き?」
犬は娘を見る。娘が首を少しかしげる。「そういう感じするけど」
犬が顔を下げる。娘の手ではなく、首輪のほうへ鼻を向けた。濡れた毛の匂いと、金具の匂いが鼻先へ届く。犬は首を少し伸ばし、自分の胸元を嗅ぐように鼻を動かす。娘はその様子を見ていた。少し間を置いて、家の奥へ顔を向ける。
「ねえー」
声だけが家の中へ入っていく。返事はない。娘がもう一度、犬へ視線を戻した。
「この犬、売ったらいくらになるかな」
犬が顔を上げた。娘を見る。尾は動かない。犬は数秒そのまま見たあと、顔をそらした。
娘は首輪を見たまま、少し考えるように黙った。犬を捕まえようとはしない。ただ、犬の身体から首輪へ、首輪から犬の顔へと視線を動かしている。犬は植え込みのほうへ一歩進んだ。娘が目で追う。犬は植え込みの根元へ鼻を入れた。土の匂いを嗅ぐ。葉の裏へ鼻先を近づける。細い枝が鼻に触れる。犬が顔を横へずらす。別の場所を嗅ぐ。
娘が笑った。
「トロいね」
犬の鼻が止まった。顔が上がる。娘を見る。一度だけ、じっと見る。それから顔をそらす。
娘の眉が少し上がった。
「ん? それ、あんたの名前?」
犬は娘を見ない。娘が少し身を乗り出す。
「ノロ」
犬は動かない。娘が犬の横顔を見る。
「ゾロ」
犬は見ない。
娘が少し間を置く。
「コロ」
犬が顔を上げた。娘を見る。ほんの少しだけ首が動く。それから、顔をそらした。
娘が目を見開く。
「ヒョロ」
犬は見ない。娘が口元を押さえて笑う。
「トロかコロかね」
犬が娘を見る。娘と目が合う。今度はすぐには顔をそらさなかった。娘が少し首をかしげる。
「トロって呼ぶと、反応するんだ」
犬の耳がわずかに動く。娘はしばらく犬の顔を見たあと、門のほうへ目を向けた。門はまだ少し開いている。道路から人の話し声が聞こえ、遠くで自転車のベルが鳴った。犬の耳が門のほうへ向いた。娘も犬の顔を見る。
「帰るの?」
犬は門を見ている。娘が手を伸ばしかけた。犬が一歩横へ動いた。娘の手が止まる。犬はもう一歩、門のほうへ進んだ。
前脚が砂利を踏む。石がいくつか転がる。犬が立ち止まり、鼻を下げる。門の近くに落ちていた枯れ葉の匂いを嗅ぐ。それから顔を上げる。外から風が入ってきた。犬の耳が前へ向く。
娘は追いかけなかった。
犬が門の隙間へ近づく。頭を入れる。身体を横にする。前脚が道路側へ出る。後ろ脚が続く。尾が門の柱へ触れた。犬は外へ出た。
道路の端で立ち止まる。右を見る。左を見る。車が一台、遠くを通った。犬は道路から少し離れて待つ。車の音が消える。犬が鼻を上げる。
風の匂いがする。人の匂いがする。食べ物の匂いも混じっている。犬が顔を上げた。前を見る。それから歩き出す。
門の向こうで、娘が犬を見送っていた。犬は振り返らない。坂道を下り、家々の間へ入っていく。




