第四章 水音
流れは次第に速くなっていた。犬の身体は水に押され、前脚を動かしても岸へ寄りきれない。頭を上げると、曲がった河の先に白い水が見える。
白い水の音が近づいてくる。犬の耳が動く。前脚が水をかく。身体を横へ向けようとする。
河の先が、突然低くなっていた。
犬の身体が、水と一緒に落ちた。
白い水しぶきが上がる。
犬の身体が見えなくなる。
大きな水音が一つ、河原に響いた。
それから、滝の音だけが続いた。
白い水が絶え間なく落ちている。飛び散った水滴が空中へ上がり、細かな霧のようになって風へ流されていた。滝の下には深くえぐられた水面が広がっている。落ちてきた水が中央へ集まり、そこから周囲へ広がっているため、水面は一か所にとどまらず、いくつもの流れがぶつかっていた。
しばらくして、水面の中央が大きく盛り上がった。黒いものが出る。
犬の頭だった。
耳が左右へ張りついている。鼻の先が水面から出る。犬が口を大きく開いた。喉が動き、荒い息が漏れる。鼻から水が細く流れ落ちた。犬は首を上げようとしたが、頭のすぐ横へ水が落ちてくる。
前脚が水をかく。犬の身体が少し横を向く。しかし、すぐに流れへ戻された。背中が水面へ出て、次の瞬間には沈む。頭が消える。水面の中央で泡が弾ける。
また頭が出た。犬が息を吸う。口が開いたままになっている。鼻先へ水しぶきが当たり、犬が顔を振った。耳の毛から水が飛ぶ。それでも滝の水は頭の上へ落ち続けている。目の周りの毛が濡れて張りつき、頬の毛も身体へ寄っている。
前脚が交互に動く。後ろ脚も水の中で動いている。犬の身体が浮き、沈み、また浮いた。水面へ出た背中が白い泡に覆われ、すぐに見えなくなる。犬が頭を上げるたび、口から細い息が漏れる。
犬の頭がまた水にのまれた。身体が水面の下で回る。腹が上を向き、背中が下になる。後ろ脚が大きく動く。水の中で身体が向きを変え、次の瞬間に鼻先が水面へ出た。
口が開く。
息を吸う。
また沈む。滝つぼの水は同じ場所を回り続けていた。犬が前脚を動かすたび、水面に小さな波が広がる。波はすぐに大きな流れへ飲み込まれる。身体は少しずつ外側へ押し出されているが、滝の落ちる水が何度もその動きを戻していた。
犬が頭を上げる。滝つぼの端を見る。白い泡の少ない場所がある。水面の揺れも中央より小さい。そこには大きな岩が一つあり、その裏側には細い流れが続いていた。犬の前脚がそちらへ向く。身体が少し横へ動く。
流れが犬の身体を戻す。犬がもう一度、前脚を動かした。右へ進み、すぐに左へ流される。口が開く。水が顔へかかる。犬が首を伸ばす。前脚を大きく動かす。身体が横へ向く。
尾が一度、水面を打った。犬の身体がほんの少しだけ横へ進む。白い泡が減る。鼻先が水面へ出る時間が長くなる。犬が前脚を動かす。後ろ脚も続く。滝から落ちる水の勢いが少し弱い場所まで来ていた。
犬の身体が一度、大きく浮いた。口が開く。息を吸う。鼻から水が落ちる。また顔が水につく。犬は首を上げ、前へ進んだ。水の中で前脚を交互に動かし、身体の向きを岸へ寄せる。
白い泡の向こうに、平たい石がいくつか並んでいる。石の周りでは、水の動きが少しだけ穏やかだった。犬はそちらへ身体を向ける。前脚を伸ばす。爪の先が石へ触れた。
すぐに離れる。
犬は頭を水面へ上げたまま、もう一度前脚を伸ばした。爪が石の表面へ引っかかった。犬の身体が一瞬止まる。胸が水面より少し上へ出る。後ろ脚が激しく動く。水しぶきが腹の下から上がった。
犬が身体を引く。腹が石へ近づく。石の上を薄い水が流れている。前脚で水を押しのけるようにしながら、犬が身体をさらに前へ出す。胸が石に乗った。後ろ脚はまだ水の中にある。
犬が身体を縮める。前脚をさらに前へ伸ばした。爪が石と石の間へ入る。肩が上がる。背中が水面から出る。犬は身体を引き続けた。腹が石へ乗る。後ろ脚が水をかく。犬の腰が少し動く。
片方の後ろ脚が石へ触れた。足先を置き直す。もう片方も動かす。
四本の脚が、ようやく石の上に乗った。
犬は動かなかった。
頭が下がっている。口が開いている。舌が少し横へ出た。胸が大きく上下する。前脚の間を細い水が流れ、石の端から落ちている。犬の鼻先からも水が落ちた。
犬が一度、身体を震わせた。濡れた毛が肩から背中、腰へ波打つ。水滴が周囲へ飛び散る。それでも毛の内側には水が残っている。犬はもう一度、身体を大きく震わせた。尾まで一緒に揺れ、石の上へ細かな水滴が落ちる。
耳を振る。左右の耳が大きく動いた。犬が顔を上げる。滝を見る。
白い水が落ち続けている。滝つぼの中央では水が泡立ち、落ちてくる水の向こうが白くかすんでいる。犬はその方向をしばらく見ていた。首が少し下がる。口を開けたまま、荒い呼吸を繰り返す。
しばらくして、犬が周囲を見回した。耳がわずかに後ろへ下がる。鼻先が風の通る方へ向く。犬はその姿勢のまま、しばらく動かなかった。
「クゥン……」
細い声が、滝の大きな音に混じった。犬は顔を上げたまま、もう一度周囲を見る。耳だけが小さく動く。鼻先がわずかに震えた。
前脚を一歩動かす。濡れた石の上で、足先がわずかに滑る。犬がすぐに足を戻した。身体を低くする。前脚を広げたまま、数秒動かない。胸が大きく上下している。舌が口の横へ出て、また引っ込む。
滝の音が大きい。風が吹いた。犬の首の毛が揺れる。耳が動く。滝つぼの外側から、細い流れの音が聞こえた。犬が顔を横へ向ける。
そこには、大きな石がいくつか並んでいた。その先に、草が見える。水面は中央より穏やかだった。白い泡も少ない。犬が鼻を上げる。水の匂いのほかに、濡れた土の匂いがする。草の青い匂いも混じっている。
犬が一歩進む。前脚を石の端へ置き、後ろ脚を引き寄せる。身体が少し揺れる。犬は足を止めた。口が閉じる。短く息を吐き、また口が開く。次の石へ移る。犬の爪が濡れた石へ触れた。足先が滑らない場所を探すように、前脚を少しずつ動かす。
後ろ脚が続く。水は足元を流れているが、身体を大きく押すほどではない。犬が一つ先の石へ移る。前脚が石の中央へ置かれる。身体を寄せるようにして後ろ脚を動かす。水しぶきが腹へ当たる。犬が少しだけ身体を縮め、次の石へ進む。
石と石の間に浅い水が流れている。犬が前脚を伸ばす。足先が水へ入る。犬が足を持ち上げ、そこへ置き直す。後ろ脚も続く。濡れた石へ爪が当たり、小さな音がする。犬が顔を下げる。前脚の位置を確かめるように、鼻先が石の近くまで下がる。
低い石の向こうで、地面の色が変わった。
黒い土が見えている。
犬が鼻を伸ばした。土の匂いを嗅ぐ。草の根元へ顔を寄せる。前脚を出す。草が毛に触れる。もう一歩進む。後ろ脚が石から離れる。四本の脚が土の上へ乗った。
犬はまた立ち止まった。背中から水が落ちている。腹の毛先からも水滴が落ちる。胸の毛は濡れて重くなり、身体に張りついている。尾も濡れて細く見えた。犬が身体を大きく震わせる。水滴が草の上へ飛び散った。
もう一度、震わせる。
三度目は、首を振るだけだった。耳が左右へ動く。犬が顔を上げる。滝の音の向こうで、別の音がした。
遠くから車が走る音が聞こえる。犬の耳がその方向へ向いた。音は少しずつ小さくなり、やがて滝の音の中へ消えていった。犬は首を戻した。周囲を見る。草、石、土、河。どれも知らない場所に続いている。
犬が草の上で立ち止まった。
少し先に、水面が見えている。さっきまで身体を運んでいた河だった。
犬の耳が後ろへ下がる。足が止まる。鼻先が水のほうへ向いたが、すぐに顔をそらした。
水面で小さな波が立つ。犬の身体がわずかに後ろへ引かれる。前脚が一歩下がる。もう一歩。
犬は河から距離を取った。草の上を数歩進み、水音が少し遠くなる場所まで離れる。そこで立ち止まり、河を振り返る。
白い水が落ちている。大きな音が続いている。犬はしばらく見ていたが、鼻を地面へ下ろした。草の匂いを嗅ぐ。土の匂いを嗅ぐ。河とは反対側へ顔を向ける。
その先に、細い道があった。河原から斜面を上へ続く道だった。両側に草が生え、ところどころ土が見えている。人の足跡が残っている場所もあり、何度も踏まれたところだけ草が短い。犬が道へ近づく。鼻を地面へ向ける。土の匂いの中に、人の匂いが混じっていた。
犬は一歩だけ道へ入った。すぐに立ち止まる。
後ろを振り返る。
滝が見える。白い水が、高いところから落ち続けている。水しぶきが風に流れている。犬はその方向をしばらく見ていた。それから顔を前へ戻した。
道へ向かって歩く。濡れた毛が身体に張りついている。歩くたび、腹の毛先から水滴が落ちた。後ろ脚の動きはまだ重い。足を上げると、肉球の間に小さな石が触れ、ころりと転がった。犬が数歩進む。立ち止まる。草を嗅ぐ。鼻先が草の根元へ触れる。
犬が顔を上げ、また歩く。道の途中に小さな水たまりがあった。犬がそこへ鼻を近づける。水面に犬の顔が揺れている。犬が一度、舌を出した。水を舐める。もう一度舐める。顔を上げる。口元から水が一滴落ちた。
犬はそのまま先へ進んだ。斜面が少し急になる。前脚を伸ばす。後ろ脚が続く。土が崩れ、足先が少し沈む。犬は身体を低くして、前脚を置き直す。もう一歩進む。
途中で身体を止めた。頭が下がる。口が開く。胸が大きく上下する。犬はしばらく動かなかった。やがて顔を上げ、前を見る。道はまだ続いている。犬が一歩進む。もう一歩。ゆっくりと斜面を上っていく。
木々の隙間が広がった。その向こうに、建物の屋根がいくつか見える。犬の耳が動く。遠くで人の声がする。犬が立ち止まる。顔を上げる。声のほうへ鼻を向ける。
すぐには進まない。
もう一度、鼻を動かす。それから、ゆっくりと歩き出した。河の音が後ろで小さくなっていく。足元の土は乾いた場所が増え、犬の毛から落ちる水滴も少なくなっていた。犬は道を進む。その先には、人の暮らす場所が続いていた。




