エピローグ 道
家までの道を歩く。男の子が歩く。その横を犬が歩く。朝の町は、もうすっかり動き始めていた。自転車が通り、車が曲がり角を曲がる。店の前ではシャッターが上がる音がする。犬はそのたびに耳を動かしたが、足を止めることはなかった。
ときどき、路面の匂いを嗅ぐ。電柱の根元。塀の角。植え込みの土。昨日まで歩いたことのない道に、いくつもの匂いが残っている。犬は鼻先を近づけて短く嗅ぎ、顔を上げる。そして、また男の子の横へ戻る。
「コロ、こっちだよ」
男の子が少し先で振り返る。犬が顔を上げ、耳を動かす。男の子が立っている。犬は小走りになって追いつく。男の子の靴の横に鼻先を近づけ、少しだけ嗅ぐ。それから前を見る。
道の先に、見慣れた家がある。男の子が門を開ける。金属の音がする。犬が一歩遅れて入る。庭へ入ったところで、犬が立ち止まった。鼻先が上がる。土の匂い。草の匂い。壁の匂い。乾いた布の匂い。家の中から流れてくる匂い。犬が鼻を何度か動かした。それから、庭を歩く。
男の子が玄関の戸を開ける。
「ただいま」
犬が戸口で止まった。鼻先が少し上がる。玄関の匂いを嗅ぐ。床の匂い。靴の匂い。木の匂い。昨日までとは違う、たくさんの匂いが重なっている。犬は前脚を一歩、玄関の中へ入れた。もう一歩。後ろ脚も入る。
男の子がしゃがむ。
「おいで」
犬が近づく。男の子の手が首輪に触れる。泥の固まった場所を指でなぞる。首輪の金具が小さく鳴る。
「汚れちゃったね」
犬が手の匂いを嗅ぐ。
「お風呂にしようか」
犬が顔を少し横へ向ける。男の子が笑う。
「きれいにしようね」
犬の鼻先が男の子の袖口へ近づく。短く嗅ぐ。もう一度嗅ぐ。男の子が立ち上がる。犬も立ち上がる。廊下を歩く。犬の爪が床に小さく当たる。
洗面所の前で、犬が止まった。水の音がする。犬が耳を動かす。男の子が振り返る。
「ここだよ」
犬が近づく。蛇口から流れる水を見る。鼻先を伸ばし、匂いを嗅ぐ。男の子がタオルを広げる。犬がタオルを嗅ぐ。白い布の匂いがする。男の子の手が背中へ触れる。犬の毛がゆっくり撫でられる。肩。背中。首の横。耳の後ろ。犬は立ったまま、時々鼻を動かした。
やがて身体を大きく震わせる。水滴が飛ぶ。
「わっ!」
男の子が顔をそむける。犬の尾が一度、大きく動く。
「もう。しょうがないなあ」
タオルがまた背中へ当たる。しばらくして、犬の毛から落ちる水が少なくなった。
男の子が犬の前にしゃがむ。
「ごはん、食べる?」
犬の耳が動く。男の子が立ち上がる。犬も後をついていく。
台所へ入る。袋を開ける音がする。犬の鼻が動く。床へ置かれた器へ近づく。犬が器の中を嗅ぐ。鼻先が器の縁に触れる。男の子が少し離れてしゃがむ。
「ゆっくり食べてね」
犬が食べ始める。何度も口を動かす。途中で顔を上げ、男の子を見る。男の子がいる。犬はまた器へ顔を戻す。
食べ終わる。犬が器の底を舐める。もう一度、舐める。顔を上げる。鼻の先に小さな粒がついている。
「ついてるよ」
指が鼻先に近づく。犬がその指を嗅ぐ。男の子が指先で小さな粒を取る。犬の舌が伸びる。
「だめ。くすぐったいよ」
犬の尾が床を叩く。男の子が笑う。
犬が台所の床を一周する。椅子の脚を嗅ぐ。テーブルの下へ鼻先を入れる。壁際まで歩き、そこで少しだけ立ち止まる。家の中には、いつもの匂いがいくつも残っていた。犬がゆっくり顔を上げる。
男の子が廊下へ出ていく。
「こっちだよ、コロ」
犬が振り返る。男の子のところへ歩く。廊下を進む。部屋の前で男の子が止まる。犬も止まる。男の子が床に座る。犬がその横へ座る。
男の子の手が犬の首元へ伸びる。首輪に触れる。金具が小さく鳴る。犬が顔を上げる。男の子を見る。鼻先が少し動く。男の子が犬の頭を撫でる。耳の後ろを撫でる。犬は動かない。
しばらくして、犬が伏せる。前脚を伸ばす。顎を床へ下ろす。男の子の手が背中を一度撫でる。犬の尾が床を軽く叩く。
窓の外から、鳥の声が聞こえる。犬の耳が動く。顔を上げる。それから、窓の向こうへ鼻先を向ける。風が少し入ってくる。犬が短く息を吸う。男の子の服の匂いが近くにある。床の匂いがある。家の匂いがある。犬は鼻を一度動かしてから、また顎を床へ下ろした。
男の子の手が、背中へそっと置かれる。犬の尾が、もう一度だけ床を叩いた。
窓の外では、町がいつもの朝を続けている。犬はそのまま、男の子の横に伏せていた。




