4話 汚物まみれのフェンリル
アタシたちは、ゼノムさんのフェンリル――スエキチンの背中に乗って小屋へ帰ることにした。
そう、帰ることに「した」のだけど……。
「オェェェーーーッ!!」
「アヤ、大丈夫!? しっかりして!」
「おい人間……俺の極上の毛並みをどうするつもりだ……ッ!?」
スエキチンが心底ブチ切れているのは、背中に伝わる地鳴りのような怒気でよく分かる。
しかし、アタシにそれを気にする余裕など微塵もなかった。
超獣の移動を完全にナメていた。
一跳びでビル十階分はあろうかという高度まで跳ね上がり、次の瞬間には胃袋と三半規管だけが遥か上空に取り残されるような自由落下。
アタシの魂は、すでに三回くらい口からハミ出している。
「アヤ、次が来るよ!」
(ミルは猫だからって体幹良すぎでしょ!? アタシはもう……もう無理……!)
ズドォォン! とスエキチンが力強く地面を蹴り、本日百回目の大跳躍を決めた。
頂点に達し、内臓がふわっと浮いた瞬間、アタシの限界のダムが決壊する。
「オェェェーーー」
――ダララララララララッ!!
「うぉぉぉい!!! かかった!! 今なんか直撃したぞおい!!!」
背中の下から、神聖なる超獣の、世にも情けない絶叫が響き渡った。
ごめん、スエキチン。
本当に、心から謝る。
だけどアタシにはもう、声に出して謝罪するだけのライフは一滴も残っていないのだ。
◇
小屋へ着くなり、アタシは井戸から水を汲み、スエキチンの背中を洗い流していた。
バケツの水をかけるたび、白銀の美しい毛並みから、薄茶色の「アタシの胃の中身だった何か」がドロドロと流れ落ちていく。
スエキチンは前足を綺麗に揃えて伏せたまま、さっきから一度もこちらを見ようとしない。
完全に、お怒りだ。
大人の対応で我慢してくれているけれど、内心はアタシを八つ裂きにしたいに違いない。
それでも、今の不甲斐ないアタシには、どうしても聞いておきたいことがあった。
「どうして、メスの魔獣はダメなんですか」
口から出た声は、自分で思っていたよりもずっと尖っていた。
少しの苛立ち、なんてレベルじゃない。
――「女性だから」。
その一言だけで、最初から戦力外だと決めつけられることが、アタシは昔から本当に大嫌いだった。
アタシが若い頃なんて、女性が会社へ面接に行っても、まともな仕事を与えられないことなんて日常茶飯事だった。
結婚したらどうせ辞めるんだろ、子どもを産む予定はあるのか。そんなことばかり聞かれて、能力よりも「会社にとって都合よく扱えるか」で判断されていた時代を、アタシは嫌というほど見てきたのだ。
ようやく少しずつ、女も男も関係なく生きやすい世の中になってきたと思っていたのに。
この世界へ来た途端、またあの不愉快な古い価値観へ引き戻された気がして、無性に腹が立って仕方がなかった。
胸の奥に渦巻くドロドロとした苛立ちをぶつけるように、三メートル近くある長いデッキブラシを握りしめ、スエキチンの背中を凄まじい勢いで擦る。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ!!
「……言いたいことは、大体分かるよ」
「だったら、どういうことですか」
ゼノムさんは腕を組み、少し俯き加減で答えた。
その落ち着き払った態度すら、今のアタシには猛烈に気に入らない。
こっちは真剣に怒っているのに、「また召喚者が面倒なことを言い出した」とでも思っているのだろうか。
「君たちの世界では、男女は平等だという考え方が主流なのだろう?」
「悪いですか!? 当たり前のことでしょ!」
「何人もの、ここへ召喚された地球の女性から聞いたよ。だが、誤解しないでほしい」
「なら、なんでメスじゃダメなんですか!」
「例えば、この国にも、メイジとして最前線で戦う召喚された女性はたくさんいる」
「メイジ?」
「魔力を扱う高い適性を持って、国に抱えられている者たちだ」
「それなら、女性でも戦いで大活躍している人がいるってことじゃない。魔獣だって、オスもメスも関係ないはずよ!」
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ!!!
(ますます意味が分からないわー! 結局、能力があれば女でもいいってことでしょ!? なのに、なんでミルはダメなのよ!)
ヒートアップしたアタシの手に、これでもかと無駄な力が加わる。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ!!!
「……おい」
地鳴りのような、腹の底へと響く低い声が聞こえ、アタシはピクッと手を止めた。
スエキチンが首だけをグワリとこちらへ向け、金色の眼光でめちゃくちゃアタシを睨みつけている。
「はっ、はい……なんでしょう、スエキチンさん?」
「……痛い」
「はっ!? すいません、すいません、すいません! アタシ、つい熱くなっちゃって……!」
慌ててブラシを背中から離すと、アタシの怪力でゴリゴリに押し潰されていた白銀の毛が、弾むようにしてゆっくりと元へ戻っていった。超獣の皮膚じゃなかったら今頃ハゲ散らかしていたかもしれない。危なかった。
「ちょうどいい。スエキチン、見せてやれ。七十メートル先にある、あの赤枯れの木だ」
ため息を一つついて、ゼノムさんが森の外れにぽつんと立つ一本の大木を指差した。
スエキチンは面倒そうに鼻息をフンと吐きながら大きな身体を起こし、濡れた身体を勢いよくぶるぶると震わせる。
「ちょっ――待っ――」
ザバババババババババッ!!!
飛び散った凄まじい水しぶきを頭から思いきり浴びて、アタシの服まで一瞬でびしょ濡れになった。
絶対わざとだ。
この犬(狼)、絶対にさっきのゲロと今のブラシの仕返しをしたわね……!
アタシが睨み返すより先に、ゼノムさんが静かにタクトを宙へ振った。
スエキチンの巨体を包むように、透明な壁にも見える薄い幾何学模様の膜が浮かび上がる。
キィンッ、キンッ、キィンッ――!
鼓膜を刺すような、乾いた金属音が連続して鳴り響いた。
さっきまで頬を撫でていたはずの風が一瞬で極寒へと変わり、吐き出した息が白く染まる。
そう思った時には、遥か七十メートル先にある大木へと、何十本もの巨大な氷の刃が突き刺さっていた。
太い幹は半分ほどが完全に凍りつき、枝に残っていた葉が白い結晶となってパラパラと地面へ落ちていく。
アタシは濡れた服の冷たさも忘れ、ただその圧倒的な破壊の光景を見つめていた。
「これが、基本的なオスの攻撃方法だ」
「メスには……これができないと?」
「構造が、そもそも違うんだ」
「どういう意味ですか!?」
気づけば、アタシは拳を強く握り締めていた。濡れた指先が手のひらに食い込み、小さく震えている。
(この、昭和のクソ親父め……!)
「オスは基本、獲物を仕留める時、いかに自分に有利な状況を作るかを考える。相手との十分な距離を取り、自分が傷つかずに済む、合理的かつ安全な遠距離の攻撃スキルを覚えていくんだ」
「それは女性……メスだって、合理的に育てれば、そのくらいの能力はあるはずじゃないですか!」
「違うな!」
「!?」
ゼノムさんの声が、初めて鋭く、強く響いた。
(あーもう、苛立つわ! このジジイ、いっそ一発殴ってやりたいぃぃぃ!)
アタシがどれだけ睨みつけても、ゼノムさんはそれ以上声を荒げることはなかった。
彼は小屋の前に置かれた古い椅子へ腰を下ろし、火にかけていた鍋を木べらでゆっくりとかき混ぜ始める。湯気の向こうから、冷徹なまでに静かな目でアタシをじっと見つめ、続きを話し始めた。
「送られてきた情報によれば、アヤ。お前には、向こうの世界に子どもがいるな」
ドクン、と胸の奥を急に鷲掴みにされたような気がした。
さっきまでゼノムさんを激しく睨みつけていたはずなのに、急に目を合わせていられなくなり、濡れた地面へと視線を落とす。
(なによ、後ろめたいのか? いや、違う。アタシは、アタシなりに精いっぱいあの子を育ててたはず……)
「身構えるな」
「えっ……」
「仮にだ。そのお前の子どもを、理不尽に脅かそうとする敵が現れたとする」
脳裏に、息子の顔が浮かんだ。
長く伸びた前髪。こちらを頑なに見ようとしなかった、あの不器用な目。
「……」
「その時お前は、相手から十分な距離を取り、合理的な方法を模索し、綿密な計画を立ててから、その不貞な輩を倒しに行くか?」
「それは……」
言い返そうとしたが、喉の奥で言葉が完全に凍りついた。
空へ、誰かが乱暴に手を伸ばす姿を想像しただけで。
頭の中から、順序も、理屈も、安全対策も、すべてが一瞬で吹き飛ぶ。
相手が誰なのかも、自分が勝てるのかさえも考えず――きっと、身体が先に肉弾戦を挑みに行っている。
「そうだろう。もちろん例外はいる。だが、多くのメスは自分や子どもを守るため、理屈を捨てて相手へ即座に飛びかかれる『近距離の泥臭いスキル』を覚えていく。……人間も、魔獣もだ」
「……」
何も、言えなかった。
(子どもを出されたら……。それは、どんな母親だって、そうなるわよ……)
鼻の奥がツンと痛み、視界が急激に滲んでいく。
スエキチンの濡れた毛を洗っていたはずなのに、今はブラシを握る手さえ動かせない。
涙がこぼれ落ちそうになり、アタシは慌てて顔を背けた。
ゼノムさんの前でだけは、絶対に泣きたくなかった。
「そしてな……」
ゼノムさんは、温まった鍋の中身を器によそい、傍らにいたフローラさんへと手渡した。
その横顔は、ひどく冷酷で、同時にひどく哀しそうだった。
「多くの場合――その近距離メインの女性や、メスの魔獣が、真っ先に死ぬ」




