13話 子どもの手だと言われても
◇
アタシたちは数名の潜伏兵に案内され、八雲ヶ原の片隅にある、うらぶれた建物の会議室へと通されていた。
外は晴れているというのに窓は極端に小さく、室内は嫌に薄暗い。
アタシの身体は、すでに乾いた返り血の匂いと、泥にまみれたままで、指先ひとつまともに動かす気力が湧かなかった。
胸元にいるミルが、心配そうにアタシの肌を小さな鼻でつついているけれど、それに応える余裕すら今の状況にはない。
ただ魂が抜けたように、ネネネさんたちの後ろへぼんやりと立ち尽くしていた。
部屋の長い木机の向こうには、一人の男が深く椅子に腰掛けていた。
頬は不健康に痩せこけ、無造作に伸びた髭には白いものが混じっている。
身につけている服も、かつて一国の正規軍を率いていた長とは思えないほど、酷くくたびれて汚れていた。
「あなたが……元・八雲ヶ原守備隊長の、ユキマル殿ですね」
まずは先頭に立つネネネさんが、凛とした声で口を開いた。
「……左様。この度は……東門の鮮やかなる制圧、おめでとうございます」
ユキマルと呼ばれた男は、力なく頭を下げた。
けれど、彼が口にした祝辞とは裏腹に、その疲れ切った顔には「高天原の勝利」を喜ぶ色など微塵も浮かんでいなかった。ただ、突然降って湧いた新たな戦火に怯えているかのような、濁った瞳。
「挨拶はそこまでだにゃ。早速だけどアタシらは、このまま一気に西へ向かうにゃ」
チャトランさんが、じれて机へとガタッと身を乗り出した。
「西側に集結しつつあるガルド帝国の残党兵を、正面から叩き潰す。この勢いのまま、八雲ヶ原から全部追い出してやるにゃ!」
「ユキマル殿、八雲ヶ原を完全に奪還できれば、高天原と帝国の戦況はひっくり返ります」
ネネネさんもチャトランさんに続き、地図へ視線を落とす。
「ですが、アタシたち第一親衛隊と第二部隊だけでは、町を完全に制圧するには圧倒的に兵が足りません。そこで、この八雲ヶ原に残っている高天原の民にも、ぜひ力を貸していただきたい。戦える者は今こそ蜂起を。それを、元守備隊長であるあなたから呼びかけてほしいのです」
「…………」
ユキマルさんは、すぐには返事をしなかった。
ただ深く俯いたまま、傷だらけの木机の上に置かれた、自身の老いた両手をじっと見つめている。
「……ユキマル殿?」
不審に思ったネネネさんが、怪訝そうに呼びかける。
「……それですがね、隊長さん」
「なんでしょう」
「もう……誰も、戦いたくなんてないんですよ」
それは、消え入りそうなほどに、小さく乾いた声だった。
その瞬間、チャトランさんの三角形の耳がピクリと不快そうに動いた。
「……どういう意味にゃ?」
「そのままの意味です」
ユキマルさんは、軋むような音を立ててゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い諦念の闇が広がっている。
「三年前、この八雲ヶ原が帝国に落とされた日、私の部下は大勢死にました。その後も抵抗を続けた者が無惨に殺され、その報復として多くの若者がガルドへ連行された。父親を亡くした子どももいれば、最愛の息子を亡くした母親もいる」
淡々と、事実だけを並べる口調。けれど、机の上に硬く結ばれた拳だけが、怒りと悔しさで激しく震えていた。
「最初の頃は、みんな言っていましたよ。いつか、高天原の軍が助けに来てくれる。いつか、必ずこの町を取り戻してくれるってね」
ユキマルさんは一度、自嘲気味にフッと鼻で笑った。
「でも、一年が経ち、二年が経ち……ついに三年が経った。その長い絶望の間に、ここに残された民は、みんな覚えちまったんですよ。――頭上に掲げられた国旗がガルドの黒いものだろうが、畑を真面目に耕せば作物は育つ。理不尽な税さえ黙って払えば、商売だって続けられる。侵略者にへこへこと頭を下げてさえいれば、少なくとも、明日も家族と揃って温かい飯を食えるんだ、とね」
部屋の中に、重苦しい沈黙が満ちていく。誰も、その言葉を遮ることはできなかった。
「だから今さら、高天原が帰ってきたから命を懸けて武器を取れと言われても……もう、無理なんですよ。私たちの心は、あの三年の間にとうに折れてしまった」
「しかしユキマル殿、それでは八雲ヶ原はいつまでも帝国の支配のままで――」
「高天原が勝とうが、ガルド帝国が勝とうが……いつも真っ先に死んでいくのは、この土地でただ普通に暮らしている、力なき民の方だ!!」
ネネネさんの気高い言葉を強引に引き裂くように、ユキマルさんは激昂した声を上げた。
そして、その濁った視線が、ふいにアタシの腕の中へと真っ直ぐに落ちた。
アタシは――戦場からずっと、フジの身体を抱きしめたままだった。
どれだけ時間が経とうとも、すでに冷たくなり、ピクリとも動かなくなった小さな温もりを、アタシはどうしても手放すことができずにいたのだ。
「……犠牲になるのは、人間の子どもだけじゃありません」
「……え?」
「その腕の中の魔獣さんだって……きっと、あなたにとって、命に代えても守りたかった大切な『家族』だったんでしょう」
心臓を素手で容赦なく掴まれたような、強烈な衝撃がアタシの胸を貫いた。
アタシは言葉を失い、ただボロボロと涙をこぼしながら、フジを抱く両腕へとさらに痛いほど力を込めることしかできなかった。
「そんなかけがえのない命を、一つ、また一つと無慈悲な戦場へ差し出させてまで……天守様は、この戦争の果てにいったい、何を取り戻そうとしているんですかねえ」
「てめぇ……それ以上言ったら、いくら元隊長だろうと……その首、ここで撥ねるにゃ……」
チャトランさんの喉の奥から、獣特有の、地を這うような低い唸り声が漏れた。
いつものふざけた空気は完全に消失し、絶対的な主君である天守(王)を侮辱された軍人としての、剥き出しの殺気が薄暗い会議室を支配した。
チャトランさんから向けられた鋭い殺気を受けながらも、ユキマルさんはただ静かに首を横へと振った。
「責めたいわけじゃないんです、隊長さん。……私もかつては、高天原の誇り高き兵でしたから」
その声にはもはや怒りなどはなく、底知れない疲弊と悲しみだけが、濃霧のように色濃く滲んでいた。
「私はね……もう、分からなくなってしまったんですよ」
ユキマルさんは一度、力なく目を伏せた。
「国を、奪われた誇りを取り戻すことと。今そこにいる民の命を守ること。……一体、どちらが先だったのか」
その問いに、ネネネさんも、チャトランさんも、反論の言葉を見つけられずに固まっていた。
「結局、頭の上に立つ支配者が誰に変わろうとも、真っ先に死んでいくのはいつだって奪い合われる側の弱い者です。ならば……どうかこのままお引き取りいただいて、我々をこのままそっとしておいてほしい」
ユキマルさんは、木机に額がすれすれになるほど、深く深く頭を下げた。
「それが、今この八雲ヶ原で泥をすすって暮らしている、すべての民の偽らざる願いです」
誰も、何も言わなかった。
薄暗い部屋を、窒息しそうなほどの静寂が支配する。
アタシの腕の中で、フジの身体は、もう言い訳ができないほど冷たくなり始めていた。
抱きしめている腕の中に残っている、本当に僅かな、消え入りそうな温もり。それさえもこの冷たい夜気に逃がしてしまいたくなくて、アタシはフジを胸へ固く抱き寄せたまま、ただひたすらに俯いていた。
ユキマルさんの悲痛な言葉に、誰も返事をすることができない。
高天原が勝っても、ガルド帝国が勝っても、理不尽に死ぬのはいつもここで暮らしている者たち――。
その言葉が、さっきから壊れたレコードみたいに、何度も何度もアタシの頭の中で虚しく回り続けている。
(この子は……フジは、一体何のために死んじゃったの……?)
八雲ヶ原を取り戻すため?
高天原の苦しむ民を救うため?
そう信じて、あの子はボロボロになりながら、命を懸けて戦ったはずだった。
なのに、当の救うべきはずだった人たちは、そんなこと最初から望んでなんていなかった。戦ってほしいなんて、一言も言っていなかったのだ。
答えなんて出るはずもない。
アタシがガタガタと震える手で、ただフジの硬くなった灰色の毛を何度も撫でていた、その時だった。
完全に静まり返っていた薄暗い部屋に、――ギィ、と重苦しい扉の開く音が不意に響き渡った。
「三人とも、ちょっといいか……」
静まり返った部屋に入ってきたのは、親衛第二部隊の兵士だった。
東門での戦闘が終わったばかりなのだろう。身につけている金属鎧には黒い泥や血がこびりつき、額から流れた汗の跡まで煤で黒く汚れている。
けれど、どこか妙だった。
その兵士は、ネネネさんたちを急ぎで呼びに来たはずなのに、なぜか部屋の中へは一歩も入ろうとはしなかった。ただ開け放った扉の前に突っ立ったまま、強張った顔でこちらをじっと見つめている。
「――何事ですか?」
ネネネさんが眉をひそめて尋ねる。
「第二隊長がお呼びだ。詳しい話は向こうで。悪いが、三人とも今すぐ来てほしい」
ネネネさんとチャトランさんが、怪訝そうに顔を見合わせた。
どうやら、ただの魔獣師であるアタシも呼び出しを食らっているらしい。
正直、いまは一歩たりとも立ち上がりたくなんてなかった。
だけど、冷たくなったフジをこの薄暗い部屋に一人きりで置いていく気には、もっとなれなかった。
アタシはフジの身体を落とさないよう、胸の前でしっかりと抱き直して立ち上がった。
足元にいたミルも、何も言わずに、ただアタシの靴に身体をすり寄せるようにしてついてくる。
◇
建物の外へ出た途端、むせ返るような戦場の臭いが戻ってきた。
焦げた木、土埃、血の臭いが入り混じり、さっきまで戦っていた八雲ヶ原の光景が嫌でも目に入ってくる。
東門は既に大きく開かれていた。
そこから親衛隊第二部隊の兵士たちが続々と町へ入り、負傷者を運ぶ者、死体を集める者、ガルド帝国の旗を引きずり下ろして高天原の旗へ掛け替える者が慌ただしく行き交っている。
アタシたちが命懸けで開いた門だった。
あそこを開くためにフジは戦った。
それなのに、もうあの門を見るだけで胸の奥が苦しくなる。
「…………」
フジの顔が揺れないよう抱き直しながら兵士について歩いていくと、開けた場所に何十人もの第二部隊兵が集まっていた。
その中央に一人の男が立っている。
親衛隊第二部隊隊長――素空。
召喚されたばかりだというのに、既に第二部隊を任されている男だった。
刀を腰に差したまま、血に濡れた戦場の中で真っ直ぐこちらを見ている。
勝利した直後だというのに笑ってはいなかった。
それは周りの兵士たちも同じだった。
誰も勝利を喜んでおらず、アタシたちが近づくにつれて、それまで話していた兵士まで口を閉ざしていく。
何よ……この空気。
フジを失ったばかりだから自分が過敏になっているのかと思ったけれど、チャトランさんまでいつの間にか笑わなくなっていた。
ネネネさんが素空の前で足を止める。
「お呼びでしょうか」
「ネネネ第一隊長、ユキマル殿の意向をお聞かせ願おう」
素空の声は穏やかだった。
問い詰めているようにも、怒っているようにも聞こえない。
「ええ。八雲ヶ原の民は、蜂起する意思がないとのことです」
「理由は?」
「これ以上戦争へ巻き込まれたくない。高天原へ戻るために、再び家族を失うくらいなら、このまま放っておいてほしいと」
ネネネさんが先ほどの話を簡潔に伝えると、素空は目を伏せることもなく聞いていた。
驚いた様子はない。
むしろ、最初からその答えを知っていたように見えた。
「そうか。マガツ様の言うとおりであったか」
「マガツ様が?」
ネネネさんの表情が僅かに変わった。
「左様。八雲ヶ原の民が我々と共に蜂起するならば何ら問題はない。東門を確保した後、住民と第二部隊を合わせ、そのまま西側に残るガルド帝国軍を叩けばいい」
そこまでは、アタシも聞いていた作戦と同じだった。
けれど素空は、そこで話を終わらせなかった。
「しかし……三年間ガルド帝国の支配下で暮らした者たちが、本当に高天原への帰属を望んでいるとは限らない。マガツ様は出陣前から、すでにその可能性を予見されておられた」
素空の口から漏れたのは、低く、一切の感情が削ぎ落とされた氷のような声だった。
「……それで?」
ネネネさんの声が、微かに鋭くなる。
「彼らが我が国への蜂起を拒否した場合の『対処』についても、俺は既に天守様より直接、密命を受けている」
その瞬間、ネネネさんの気高い目つきが明確に変質した。
隣にいたチャトランさんに至っては、野生の獣としての危険察知本能が最大級のアラートを鳴らしたのだろう。それまで忙しなく動いていた尻尾が、見たこともないほど低く股の間に垂れ下がり、完全に硬直してピクリとも動かなくなった。
軍の高度な政治の話なんて、ただの元おばちゃんであるアヤにはまだ何も分からない。
ただ、周囲をぐるりと囲む第二部隊の兵士たちが、誰一人として素空の言葉に驚いていないことだけが、不気味で、妙に気にかかった。
さっきまで町の中で勝利に浮かれて走り回っていた一般兵たちとは、纏っている空気が根底から違う。
ここに集められている精鋭たちは――これからこの町で、一体何が起きるのかを最初から知っているのだ。
「これより西へ進軍すれば、この八雲ヶ原は我々の貴重な後方補給路になる」
素空は口元を黒い面布で覆ったまま、静かに町並みへと冷徹な蒼い瞳を向け、淡々と話を続けた。
「そこに高天原への帰属を明確に拒む『不確定要素』を残せば、ガルド帝国へ軍の内部情報を流す裏切り者が現れるかもしれない。帝国兵へ密かに食料を渡す者、負傷兵を匿う者、あるいは我々が西へ進んだあとで再び帝国側へと寝返る者が出る可能性は極めて高い。軍事戦略上、後方の憂いは万に一つも残せない」
「だからといって、彼らは三年前まで紛れもなく高天原の民ですよ! 切り捨てるなど――」
「違う」
素空が、初めてネネネさんの反論を冷酷に遮った。
「奴らは、自らの意志で高天原の民であることを拒んだのだ。ならば、もはや我が国の民ではない。ただの潜在的な敵だ」
その容赦のない言葉を聞いた瞬間、アタシの腕の中で冷たくなっているフジの身体に、理屈抜きでギュッと力が籠もった。
さっき会議室でユキマルさんが血を吐く思いで話していたこととは、まるで、まるで意味が違う。
あの人たちは、高天原を嫌いになったわけじゃない。ガルド帝国を自ら選んだわけでもない。
ただ――ただ、もうこれ以上、理不尽に大切な家族を戦火で死なせたくないと言っただけなのに。
「素空殿。それは、あまりにも――」
「ネネネ」
それまで彼女を「第一隊長」と一応の敬称で呼んでいた素空が、突然、遮るように名前だけを呼び捨てにした。
バササササッ! と、戦場に吹き荒れた冷たい突風に煽られ、高天原の旗が大きく、不吉な音を立ててはためく。周囲にいた第二部隊の兵士たちが、殺気立って僅かに身構えた。
素空はその異常な緊張感の中で、明日の天気を伝えるかのような、あまりにも平然とした口調のまま命じた。
「――奴らを、一人残らず皆殺しにしろ」
その言葉の意味を、脳が正しく理解するまでに、少しだけ時間がかかった。
ユキマルさんたち戦士だけの話じゃない。
この八雲ヶ原で必死に泥をすすって暮らしている、すべての人たち。
さっき避難路地を通った時に怯えていたお年寄りも、壊れかけた家の中に隠れていた女の人も、その胸の腕に抱かれて泣いていた小さな子どもも――全部だ。全部、殺せと言っている。
アタシは、信じられない思いで腕の中のフジを見つめた。
じゃあ、この子は……アタシのフジは。
その人たちの明日を守るために、あのボロボロの身体で、命を捨ててまで警鐘を死守したんじゃなかったの……!?
「……できるわけないだろ」
ネネネさんの、地を這うような冷たい声でアタシは顔を上げた。
普段なら誰に対しても絶対に崩さない、気高くて丁寧な言葉遣いが完全に消え失せている。
ネネネさんは黒龍の杖を白くなるほど強く握り締めたまま、殺気立った目で素空を正面から激しく睨みつけていた。
「我々が一体、何のために命を懸けてここまで来たと思っている。八雲ヶ原を取り戻し、帝国に虐げられた高天原の民を救うためだ。その民を……ただ戦えないと怯えただけで、一人残らず皆殺しにしろだと?」
「密命であり、命令だ」
「――断る」
ネネネさんは、一歩も退かなかった。
チャトランさんが無言のまま、ゆっくりと深く腰を落とし、両手の鋭い爪を開く。
その戦闘態勢を見た瞬間、周囲を包囲していた第二部隊の精鋭たちも、一斉に自身の武器へと手を掛けた。
ついさっきまで、過酷な深夜の水路をともに進み、同じ敵と戦っていた仲間だった。
同じ高天原の旗を掲げ、東門が開いたあの瞬間には、確かに一緒に拳を突き上げて歓声を上げていたはずの人たちが、今は互いに殺し合うために武器を向けようとしている。
「ネネネ……戦場での命令違反は、国家への反逆と同義だ」
「好きに言え」
「――そうか」
素空の黒手袋に包まれた右手が、静かに刀の柄へと掛かった。
その極めて小さな仕草を目にした刹那、チャトランさんが顔を跳ね上げて絶叫した。
「ネネネ!! 今すぐ後ろに下がるにゃ――っ!!」
けれど、ネネネさんが防衛体勢を取るよりも早く、素空の刀が鞘から弾け飛んだ。
速い。
そんな幼稚な思考を脳裏によぎらせる暇すら、世界は与えてくれない。そう思った時には、もう素空の姿は元いた場所から掻き消えていた。
「――危ないにゃああっ!!」
チャトランさんがネネネさんの身体へと決死の覚悟で飛び込む。
ほとんど同時に、素空が最高位スキル【神速】を発動し、二人の隙間へと冷徹な白い刀身が滑り込んだ。
キィィィィィンッ――!!!
金属同士が激しくぶつかり合う、耳を突き刺すような甲高い衝撃音が鳴り響く。
チャトランさんの硬質な爪が、肉眼では捉えきれなかった刀を辛うじて正面から受け止めていた。
「ぐっ……、う、あああッ!」
まともに受け止めたはずなのに、素空の放った圧倒的な重量の一撃に気圧され、チャトランさんの小柄な身体が石畳の上を激しく後ろへと滑っていく。
「チャトランさん――っ!」
「アタシを見るな! バカ魔獣師、いま直ぐミルに指示しろ――っ!!」
鼓膜を破らんばかりに怒鳴りつけられ、アタシの思考のロックがようやく弾け飛んだ。
周囲の第二部隊の兵士たちも、一斉に抜刀してアタシたちへと殺到し始めている。
逃げなきゃ。
でも、アタシの両腕には、まだ冷たいフジが残されている。
ネネネさんも狙われている。チャトランさんも、素空の凶刃の目の前で防戦一方だ。
一体、アタシは誰を逃がせばいいの?
どこへ逃げれば、アタシたちは助かるの!?
頭の中がパニックで真っ白になり、タクトを握ろうとした指先がガタガタと震えてうまく機能しない。
「アヤ――っ!!」
足元から、ミルの悲痛な叫び声が耳の奥へと飛び込んできた。
その声の力で、アタシの脳細胞がたった一つだけの答えを力強く弾き出した。
誰か一人じゃない。この場にいる、アタシの大切な仲間たち――全員だ。
「ミル――っ!! みんなをまとめて、――【逃がす】っ!!!」
叫ぶと同時に、ミルの首元にある紫色のペンダントから、爆発的な魔力の光が溢れ出した。
その神秘的な光の奔流は、アタシたちの足元へと瞬く間に一気に広がっていく。
「小癪な! 術者を逃がすな――っ!」
第二部隊の兵士たちが、一斉に武器を振り上げて駆け出す。
チャトランさんが決死の力で素空の猛攻を弾き、その衝撃を利用して強引に後ろへと跳んだ。
ネネネさんも迫り来る兵士を牽制するように黒龍の杖を構えながら、溢れる光の陣の中へと滑り込む。
そして最後に、ミルがアタシの足元へと、弾丸のように飛びついてきた。
次の瞬間、目の前にあった戦場が大きく歪んだ。
胃袋を掴まれて身体ごと引っ張られるような感覚に襲われ、フジだけは絶対に離すまいと両腕へ力を込める。
どれくらい経ったのか分からない。
足の裏に地面の感触が戻った時には、八雲ヶ原の町並みは消えていた。
「ハァ……ハァ……」
膝から力が抜け、その場へ座り込む。
呼吸がうまくできず、何度息を吸っても胸の奥まで空気が入ってこない。
それでも腕の中だけは確認した。
フジがいる。
足元にはミル。
少し離れたところではチャトランさんが片膝をつき、荒い息を吐きながら爪についた血を見ている。
ネネネさんも無事だった。
誰も死んでいない。
今度は、誰も。
「……逃げましょ」
やっと出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ネネネさんがこちらを見る。
「とりあえず……今は逃げましょう。ここにいたら……また誰か死んじゃう……」
誰も反対しなかった。
アタシはフジを胸へ抱き寄せたまま立ち上がる。
どこへ逃げればいいのかなんて分からない。ただ、八雲ヶ原から少しでも離れなければならないことだけは分かっていた。
「ミル……もう一回、お願い」
「うん!」
ミルの紫色のペンダントが淡く光り、足元の景色が大きく歪んだ。
次に地面を踏んだ時には、町の外れまで来ていた。
けれど、休む暇なんてなかった。
「追ってきてるにゃ!」
チャトランさんが振り返りながら叫ぶ。
遠くから馬の蹄と兵士たちの声が聞こえてくる。
「ミル……もう一回!」
「アヤ、でも……」
「お願い!」
再び景色が歪む。
胃の奥を強く引っ張られるような感覚に襲われ、着地した瞬間には膝が崩れそうになった。
「ハァ……ハァ……」
息が苦しい。
視界の端が暗くなっていく。
それでも、腕の中のフジだけは絶対に離さなかった。
「まだ来るにゃ!」
「もう一回……」
「アヤ!」
「お願いだから……!」
何度目だったのか、もう分からない。
町並みが消え、森が現れ、森が消えると今度は見覚えのない街道に出た。
そのたびに身体の中から何かを抜き取られていくようで、タクトを握る指にも力が入らなくなっていく。
ミルの声も、チャトランさんの声も、少しずつ遠くなっていた。
「アヤ、もう無理だよ!」
「まだ……まだ逃げないと……」
足を前へ出したつもりだった。
でも、地面が急に近づいてきた。
「アヤ!」
誰かに名前を呼ばれたところまでは覚えている。
その先は、何も分からなかった。
◇
さらさらと、絶え間なく水の流れる音が聞こえる。
冷たい川風が頬を優しく撫で、どこか青臭い川藻と土の匂いが鼻の奥へと入ってきた。
「……ん……」
重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。
最初に見えたのは、鬱蒼と茂る木々の隙間から差し込む、白く頼りない木漏れ日の光だった。
身体を起こそうとすると、頭の奥をノコギリで挽かれたようなズキンとした激痛が走り、アタシは思わず額を押さえて顔をしかめた。
「アヤ……っ! 気がついたんだね!」
すぐ横から、ミルの心配そうな声がした。
視線を落とすと、小さなミルが今にも泣き出しそうな顔でアタシの顔を覗き込んでいる。
「ここ……どこなの?」
「大きな川の近くだよ。あの街からは、もうずっと離れた場所」
かすかに反響する水音のする方へ、這うようにして顔を向ける。
少し離れた荒涼とした川辺に、ネネネさんとチャトランさんの姿があった。
ネネネさんは冷たい岩へと腰を下ろし、その細い腕の中に、何かを愛おしげにそっと抱えている。
それが見間違えるはずのない、灰色の毛並みであることに気づいた瞬間。
「……フジ」
カサカサに乾いた声が、アタシの唇から勝手に漏れ出していた。
ネネネさんの腕の中で、フジはただ心地よさそうに眠っているように横たわっていた。
チャトランさんは少し離れた砂利の上に座り、片膝を立てたまま、黙って濁った川面を見つめ続けている。
誰も、言葉を発していなかった。
ただ、川のゴーゴーと流れる音だけが、やけに大きく世界のすべてを埋め尽くすように響いていた。
「アタシ……どれくらい、眠って……」
「半日くらい完全に意識が飛んでたにゃ、おばちゃん」
チャトランさんが、こちらを見ないまま、冷淡とも言える静かな声で答えた。
「ミルの連続転移が成功した直後、てめぇの精神力が完全に底を突いたんだ。最後はミルも限界だったからさ、あとはアタイらでてめぇらを交互に担いで、ここまでひたすら歩き通したんだよ」
「そう……だったの」
よろよろと立ち上がろうとしたけれど、太ももに一切の力が入らず、アタシはその場へもう一度情けなく座り込んだ。
ネネネさんが何も言わず、フジをその腕に抱いたまま、静かにこちらへと歩いてくる。
そしてアタシの目の前まで来ると、衣擦れの音を立てておずおずと膝をついた。
「アヤさん」
「……はい、ネネネさん」
ネネネさんはほんの少しだけ痛ましげに目を伏せたあと、ゆっくりと、フジの身体をアタシの腕の中へと戻してくれた。
手渡された小さな身体は――もう、言い訳のしようがないほど完全に、芯まで冷たくなっていた。
それでもぎゅっと強く抱き締めると、初めて出会った岩山での、あの温もりとまったく変わらない心地よい重さだけが、アタシの腕に残される。
ミルが隣へと静かに座り、フジの硬くなった前脚へと、そっと自分の温かい身体を寄り添わせた。
チャトランさんも何も言わず、少し離れた場所から、ただ鋭い獣の瞳でこちらを見つめている。
誰も、アタシを慰めるような言葉は口にしなかった。
今ここで何を言おうとも、どんな綺麗事を並べようとも、この子が二度と動かないという冷酷な事実だけは変わらない。それを、この場にいる全員が嫌というほど分かっていたからだ。
アタシは言葉を失ったまま、ただフジの硬い灰色の毛並みへと顔を埋めた。
少し離れた場所で、ネネネさんがふぅと重いため息をつくのが聞こえた。
「……チャトラン。これから、どうします」
「どうするもこうするもないにゃ、隊長。アタイらの軍籍は、あの瞬間に天守様の手によって完全に『除名』されたよ。高天原に、アタイらの帰る家も、日の当たる場所も……もうどこにも残っちゃいないにゃ」
チャトランさんは短剣の柄を親指で弄りながら、自嘲気味に鼻で笑う。
「あの漆黒の男――素空と第二部隊は、確実にアタイらの首を狙って追ってくる。奴の『神速』に見つかれば、次は確実に全員まとめてお終いだ。これからは、どこか誰も知らない遠くの土地を目指して、影に隠れて泥をすすりながら、ただ生き延びる道を模索するしかないにゃあ」
「そうですね……。ですが、私は決して、あの密命を呑んだことを後悔はしていません」
ネネネさんは気高く胸を張り、眩しそうに天を見上げた。
「我が誇りにかけて、私たちはもう二度と、あの国の不条理な戦火に付き従うことはありません。行きましょう。誰も私たちの名を知らぬ、新しい世界の果てまで」
その重い覚悟の会話すら、今の放心したアタシの耳には、どこか遠い国の出来事のようにしか響かなかった。
アタシはただ、愛おしい我が子の最期の重みを両腕に抱きしめ、いつまでも涙を流し続けることしかできない。
遠くでは、川の水だけが、人間の悲しみなど何事もなかったかのように、ただ冷たく、滔々とどこまでも流れ続けていた。
第一章 おしまい




