12話 家族ということ
南側の防衛ポイントである、狭い石畳の路地へ滑り込んで間もなくのことだった。
正面の闇を切り裂くように、ガルド帝国の金属鎧をまとった守備兵たちがドタドタと足音を荒立てて殺到してきた。
その数、およそ二十。
アタシの心臓が爆発しそうなほど跳ね上がる。けれど、ここで一歩でも退けば後ろの警鐘を鳴らされ、作戦はすべて水の泡だ。
「――フジ、虎咆!!」
「はいっ!」
フジは警鐘を背にして四肢を大きく踏ん張ると、石畳へ容赦なく爪を食い込ませながら、胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。
みるみるうちに膨らんだ胸から、喉元へ向けて押し上げられた空気が低い地鳴りのような唸りへと変わり、足元の砂や小石がビリビリと細かく震え始める。
「ガアアアアアッ――!!」
鼓膜を叩く大咆哮と同時に、フジの正面の空間が爆発した。
目に見えない狂暴な衝撃波が、石畳の表面を凄まじい勢いで抉りながら路地を一直線に突き抜け、警鐘へ駆け込もうとしていた帝国兵たちを正面から文字通り飲み込んでいく。
「ぐあっ!?」
「うおおっ!」
先頭を走っていた頑丈な鎧の兵士たちが一瞬で宙へ跳ね上げられ、その背後にいた者たちまで巻き込みながら、左右の石壁へと派手に叩きつけられた。
手からこぼれ落ちた槍や剣が甲高い音を立てて石畳を滑り、遅れて腹の底へとズシンと響くような轟音が、狭い路地をガタガタと揺らした。
アタシは反射的に身をすくめて目を瞑りそうになったが、これだけは離すまいと、ゼノムさんから譲り受けたタクトを両手で必死に握り締めていた。
「アヤさん、まだ撃てます! ただ、次はもう少し敵を引きつけた方が、一度に多く巻き込めると思います!」
「わ、分かったわ……っ!」
「おい、あの魔獣、たった一撃で……!」
「いけるぞ、怯むな! 残りを道に上げるな!」
周囲を守る高天原の潜伏兵たちから生々しい怒号が上がり、さっきまで恐怖で強張っていた彼らの表情へ、僅かに反撃の勢いが戻っていく。
けれど――フジの虎咆に正面から吹き飛ばされた帝国兵たちは、壁際で無残に折り重なったまま、もうピクリとも動かなかった。
鉄兜の下からドクドクと流れた赤い血が石畳の溝へと入り込み、黒い不気味な筋となって、ゆっくりと足元へ広がっていく。
(……相手も、生きてる人間なのに……)
覚悟してきたはずなのに、目の前の凄惨な光景に喉の奥から酸っぱいものが一気に込み上げてきた。
道具屋で笑い合っていたあの人たちと同じように、あの死んだ兵士たちにだって、それぞれの暮らしや帰りを待つ家族があったのかもしれない。
そんな前世の甘い倫理観が頭をよぎった直後、ミルの鋭い叫び声がアタシの生ぬるい思考を無理やりに断ち切った。
「アヤ、落ち込んでる暇はないよ! また奥から来る!」
「……っ、分かってる!」
路地の奥の暗闇から、さらに新たな帝国兵たちがゾロゾロと姿を現し、倒れた仲間の死体を無慈悲に踏み越えながら、一斉にこちらへと武器を構えて突っ込んでくる。
先頭の数人はアタシたちを殺気立った目で睨みつけていたが、その後ろでは「警鐘だ! 何としてもあの鐘に辿り着け!」と、狂ったように叫んでいる指揮官らしき男の姿があった。
アタシは震える右手を突き出し、タクトの先端を迫り来る敵の集団へと向けた。
「まだ……! みんな、ギリギリまで引きつけて!」
フジの虎咆は、アタシの精神力を激しく消耗する。何度も闇雲に撃てる技じゃない。
限界まで引きつけ、一発で最大の人数を巻き込まなければ、次に押し寄せる第二波、第三波の兵たちを止められなくなる。
頭では、スーパーのタイムセールで殺気立った客の波をギリギリまで引きつけてさばいていた、あの感覚の最悪の応用だと分かっている。
それなのに、ギラギラと光る槍の穂先が目の前まで近づくほど、アタシの肉体は「逃げろ」と情けなく悲鳴を上げていた。
剣を振り上げて突進してくる先頭の兵士と、バチッと視線が交差する。その顔に浮かんだ、剥き出しの強烈な殺意を見た途端、タクトを握る手のひらから嫌な汗が滝のように吹き出した。
(今すぐ撃たせたい――っ!)
恐怖のあまり、頭の中で誰かがそう叫んでいる。
けれど、まだ早い。ここで焦って引き金を引けば、後続の兵までまとめて巻き込むことはできない。
(お願い……もう少し……あと一歩だけ、こっちに来なさいよ……!)
アタシの前にいる味方の兵たちが、歯を食いしばって盾を構え直す。
迫り来る敵の激しい足音と、金属鎧が擦れ合う音が、もはや個別の音としては聞き分けられないほど大きく、不気味に重なり合った。
「――今です!!」
「フジ、虎咆――っ!!」
「ガアアアアアッ!!」
二度目の大咆哮が深夜の夜気を無慈悲に引き裂き、狭い路地の空気を一気に押し潰した。
正面からまともに衝撃を喰らった帝国兵たちは、悲鳴を上げる暇もなく次々と宙へ投げ出され、後ろの兵たちを巻き込みながら石畳の上へと転がっていく。
砕け散った敵の盾の破片が左右の石壁へ深く突き刺さり、もうもうと舞い上がった土埃の中で、持ち主を失った槍だけが何度も跳ねて乾いた音を立てていた。
「ハァ……、ッ、ハァ……!」
たった二発目を撃ち終えた、その直後だった。
胸の内側を冷たい手でグッと強く掴まれたように、急に息が詰まった。
どれだけ空気を吸い込んでも肺の奥まで届かず、足元の硬い石畳がまるで生き物のようにぐにゃぐにゃと波打って見える。
タクトを支えていた右腕が急激に鉛のように重くなり、ただ立っているだけで膝が笑って折れそうだった。
(おかしい……。なんで……まだ二発しか撃ってないのに……っ)
ゼノムさんとの訓練では、十五発まで耐えられたはずだった。
多少の体調の良し悪しはあっても、わずか二発でここまで消耗したことなんて一度もない。
頭の奥に暗い霧がみるみる溜まっていくようで、繋がっているはずのフジの感覚が、少しずつ、遠くへ遠のいていく。
「なんか変だよ、アヤ!? 顔が真っ青だよ!」
足元まで戻ってきたミルが、小さな身体で不安そうにアタシの顔を覗き込んできた。
「ミル……大丈夫……よ……っ」
心配をかけまいと無理に笑ったつもりだったけれど、紡ぎ出した声は自分でも引くほどガタガタに震えていた。
安全な訓練場での消費と、剥き出しの殺意が飛び交う「本物の戦場」での精神力の消費。その圧倒的な落差を、アタシの心と身体は耐えきれていなかったのだ。
「おいっ! バカ魔獣師! 何ぼーっとしてるにゃ! 指示を出せ!!」
中央の持ち場にいるはずのチャトランさんの、焦りと怒りの混じった怒鳴り声が遠くから飛んでくる。
「えっ……?」
その声にハッとしてフジへと目を向けると、最悪の光景が視界に飛び込んできた。
虎咆の衝撃波をギリギリで免れた帝国兵たちが、左右の入り組んだ路地から素早く回り込み、一斉にフジへと襲い掛かっていたのだ。
フジは背後の警鐘を庇うようにして四肢を踏ん張り、牙を剥き出しにして、一歩も退かずに敵の群れを迎え撃っていた。
兵士の差し出してきた腕へと果敢に噛みついて地面へと引き倒し、横から容赦なく突き出された鋭い槍の穂先を、身を翻して間一髪でかわす。そしてすぐに警鐘の前へと戻り、小さな身体で必死に道を塞ぐ。
敵の剣が背中を無慈悲に掠め、美しい灰色の毛並みが裂けて鮮血が飛び散っても、フジはその場だけは決して譲ろうとしなかった。
「コイツ、技が使えなきゃただの小犬だぞ!」
「囲め! 一気に押し切って、後ろの鐘を鳴らせ――っ!!」
フジが孤立していく。アタシが眩暈に耐えかねて指示を怠ったせいで、フジはただの肉弾戦を強いられていた。
帝国兵たちは、この南側の防衛ラインが一番の『薄所』だと完全に見抜いていた。
倒れた仲間の死体を冷酷に踏み越えながら、大通りのあちこちから次々と新しい兵たちが南側の路地へと集まってくる。
「嘘……っ! おかしいわよ! アタシの身体、まだ動くはずなのに……っ!」
アタシは汗で滑るタクトを必死に握り直し、もう一度、フジへと強引に命令のパスを繋ごうとした。
けれど、いつもなら呼吸をするようにすぐ感じ取れるはずのフジの気配が、まるで何重もの厚い鉄壁の向こうへと隔てられたように、酷くぼやけて届かない。
無理に意識を集中させようとすればするほど、頭の奥を万力で締めつけられるような激痛が走り、命令の形を結ぶことすらできなかった。
それほど絶望的な状況であるにもかかわらず、フジは決して、助けを求めようとはしなかった。
いま自分が弱音を吐いてチャトランさんを呼べば、中央の守りが一気に薄くなる。
自分のために仲間の持ち場を崩せば、巡り巡って作戦全体が崩壊し、群れが全滅の危険に晒される――。
かつて帰り道でフジが誇らしげに語っていた『野生の群れの掟』が、今、こんなにも残酷な形でアタシの目の前に突きつけられていた。
あの子は、アタシを信じて、群れを守るために、孤独に命を懸けているのだ。
「フジ――っ!! もういいから! お願いだから下がって!!」
声が枯れるほど呼びかけても、フジは頑なに振り返らなかった。
前脚を鋭く斬られ、痛みに体勢を大きく崩しながらも、自分の横をすり抜けて警鐘へ駆け抜けようとした帝国兵の足へとがむしゃらに食らいつく。そのまま小さな身体ごと、強引に石畳の上へと引き倒した。
だが、その直後だった。
無防備になったフジの脇腹へ、別の兵士の硬い鉄靴による蹴りが容赦なく叩き込まれた。
「――カハッ……っ!」
フジの小さな身体が、石畳の上を何度も激しく転がっていく。
それでも。あの子は折れそうな足でよろめき、血を吐きながらも、すぐに爪を立てて立ち上がった。
そのボロボロの身体で、なおも後ろの警鐘の前へと戻り、道を塞ごうと牙を剥いている。
(……アタシの、身体はまだ動く)
(魔術が使えないなら、精神力が足りないなら――身体で払えばいいじゃないのっ!!)
気がついたときには、アタシは安全な後方の持ち場を完全に蹴り出していた。
タクトを引ったくるように強く握りしめ、傷だらけのフジの元へと向かって、我を忘れて暗い路地を走り出していた。
「おい! 前線にバカ魔獣師が直接しゃしゃり出てきたぞ!」
「好都合だ、あの女を先に殺せ! 主を倒せばあの狼も止まる!」
帝国兵たちのぎらついた視線が、一斉にアタシへと向けられた。
狂暴な殺意の波が押し寄せる。
「アタシのフジに、触るんじゃないわよ――っ!!」
もう、まともな思考を保つ余裕なんて微塵もなかった。
アタシは両手でタクトをがむしゃらに振り回し、一番近くにいた兵士へと殴りかかった。
けれど、まともに戦ったことすらない一般人のおばちゃんの攻撃なんて、戦慣れした帝国兵に通用するはずもない。兵士はわずかに半歩身体を引き、嘲笑うようにタクトをかわした。
空振りした勢いでアタシが前のめりになった隙を逃さず、冷酷な剣の切っ先が、容赦なくアタシの喉元へと迫る――。
「――バカ野郎がッ! いい加減に頭を冷やせ!!」
刹那、凄まじい銀色の軌跡がアタシの目の前を横切った。
剣を振り上げていた兵士の首が、一瞬で宙へと吹き飛ぶ。
それだけじゃない。その左右にいた二人の兵士の首までもが、ほとんど同時に胴体から綺麗に離れていた。
遅れてドクドクと噴き上がった赤黒い血が、アタシの頬や服へと容赦なく降りかかる。首を失った三人の身体は、数歩奇妙によろめいたあと、折り重なるようにして石畳へ崩れ落ちた。
何が起きたのか脳が理解するより早く、アタシの頬へと焼けるような激痛が走った。
バシィンッ――!!
「えっ……?」
チャトランさんに思いきり頬を引っ叩かれ、アタシの視界が真横へと激しく流れた。
じわじわと、口の中に鉄の味が広がる。
「てめぇの死守すべき持ち場は『警鐘の前』だろ!! たかが魔獣一匹を助けるために我を忘れて、後ろで命懸けてる兵を全員まとめて殺す気かよ!!」
鼓膜が破れんばかりの怒鳴り声を浴びせられ、アタシは冷水をぶっかけられたように、自分がしでかした事の重大さに気づいた。
アタシが感情に任せて持ち場を離れたせいで、絶対死守のはずの警鐘の前には、ぽっかりと致命的な穴が空いていた。
フジの姿しか見えなくなったせいで、アタシの背後でアタシの指示を待っていた、あの十五人の潜伏兵たちの存在さえ、完全に頭から抜け落ちていたのだ。
「自分の持ち場に戻れ! 次に同じことをしたら、敵より先にこのアタイがてめぇの首を撥ねるからな!!」
「はっ……、す、すいません……っ」
絞り出した謝罪の声は、情けなく掠れていた。
叩かれた頬の痛みよりも、自分の軽率な判断のせいで、大勢の仲間を犬死にさせかけたという恐怖で、全身の震えが止まらない。
「ミル! 【逃がす】でコイツを警鐘の前へ即座に戻せ!」
「う、うんっ!」
ミルが悲痛な顔でアタシへと駆け寄る中、チャトランさんは冷たい雨の滴る石畳の上へと視線を落とした。
さっきまで激しい怒りに吊り上がっていたその獣の目が、ほんの一瞬だけ、痛ましげに細められる。
「あと……その狼は、もう手遅れかもしれねぇけど……一応、一緒に後ろへ戻してやりな……」
「え……?」
チャトランさんはそれ以上フジを見ようとせず、再び殺到してくる帝国兵の群れへと、短剣を構えて背中を向けた。
アタシは、吸い寄せられるように視線を床へと這わせる。
そこには、警鐘から少し離れた場所に横たわり、全身を小刻みに痙攣させているフジの姿があった。
美しい灰色の毛並みは何箇所も深く切り裂かれて赤黒く濡れ、浅く、苦しげに息をするたびに、細い胸と腹が僅かに上下している。
それでも――あの子の前脚だけは、必死に硬い石畳を掻き、立ち上がろうともがいていた。
すでに身体の自由など失っているはずなのに、血に塗れた顔だけは、頑なに、守るべき警鐘の方へと向けたままで。
「フジ……? 嘘でしょ、フジ……っ!」
――ズガァァァンッ!!!
その時、地鳴りのようにお腹の底から突き上げるような大轟音が八雲ヶ原の町に響き渡り、東門の方角から巨大な砂埃が深夜の夜空へと派手に立ち昇った。
『門が開いたぞ――っ!!!』
地平線を震わせる誰かの叫び声に続き、町の東側から、大勢の、地響きのような雄叫びが押し寄せてくる。
「「「「おおおおおおおおおお――ッ!!!」」」」
高天原の親衛第二部隊が、ついに開放された東門から一斉に町中へと雪崩れ込んできたのだ。
激しく剣を打ち鳴らす音、何千もの兵士たちの足音が重なり合い、町全体を激しく揺らすほどの怒濤の歓声へと変わっていく。
作戦は、大成功だった。
アタシたちは、ガルド帝国軍にただの一度も警鐘を鳴らさせることなく、完璧に守り切ったのだ。
それなのに――。
血の海の中でピクリとも動かなくなった小さなフジを前にして、アタシの心には、嬉しいなんて感情は、一滴すらも湧いてこなかった。
「開いた、んすね……アヤ……」
腕の中から、消え入りそうな掠れた声が聞こえた。
「フジ……! もう喋らなくていい、喋っちゃダメよ! すぐゼノムさんのところへ行って、治療してもらいましょう。あの凄いおじいちゃんなら、何とかしてくれるから! 絶対大丈夫だから!」
抱き上げたフジの身体は力なく垂れ下がり、自慢の灰色の毛並みは赤黒い血と泥でガチガチに固まっていた。
細い胸は辛うじて上下しているものの、息をするたびに喉の奥からヒューヒューと痛ましげな音が漏れ、アタシの腕へと伝わってくる体温が、急速に失われていくのが分かった。
「アヤ……そいつは、もう駄目にゃ……」
いつの間にか、チャトランさんがすぐ後ろに立っていた。
あれほど騒がしかった戦いの最中とは違い、その声にはいつもの軽い響きが微塵もなかった。返り血に濡れた両手をだらりと下ろしたまま、チャトランさんはフジの姿をまともに見ることすらできず、悔しそうに奥歯を血が出るほど噛み締めている。
「そんなことない! そんなことないから!!」
アタシは現実を拒絶するように聞こえないふりをして、フジの身体を胸へと強く抱き寄せた。
「ミル! お願い、フジを逃がして! 今すぐゼノムさんの家へ――」
すがるように顔を上げると、ミルは何も答えず、ただ小刻みに震えながら、横たわるフジの鼻先へと自分の鼻をそっと寄せていた。それが魔獣なりの、最期の別れの儀式だと気づいた瞬間、堪えていたものが一気に決壊した。
涙がとめどなく溢れ出し、フジの血塗られた顔が視界の中でぐしゃぐしゃに滲んでいく。
「あんた、こんな無茶してどうすんのよ……っ! いつか自分の群れを作って、立派な『長』になるために、アタシと契約したんでしょ!?」
返事はない。
「もっと強くなって、世界を見るんじゃなかったの!? こんな、こんなわけのわからないところで勝手に死んだら、何の意味もないじゃないのよ!!」
フジの身体を何度も必死に揺らしても、細い前脚はだらりと下がったまま、冷たい風に吹かれるだけだった。
「言ったでしょ……? おばちゃんが頑張るって。アタシがあんたを絶対に最強にしてあげるって約束したじゃない……! だから、勝手に終わらせないでよぉ……っ!」
声を張り上げるほど喉がボロボロに潰れ、言葉の代わりに、子供のように惨めな嗚咽だけが口から漏れた。
はるか遠くの東門からは、今も勝利を爆発させる勝ち鬨の歓声が、地響きのように聞こえている。
誰かが高天原の勝利を笑い、誰かが誇らしげに高天原の旗を掲げ、失った領土の奪還成功を叫び合っている。
そのすぐ足元で、アタシの腕の中から、たった一つの愛おしい命が消えようとしていた。
「フジ……お願いだから目を開けて……フジ……っ!」
アタシの悲鳴が届いたのか、フジの閉じていた瞼が、僅かにだけ持ち上がった。
すでに光を失い、焦点の合わない金色の瞳が泳ぐようにアタシの姿を探し、その小さな口元がほんの少しだけ動く。
「か……ぞくの……ため……に……」
「え……?」
――それが、最後だった。
浅く、苦しげに動いていた胸の上下がピタリと止まり、アタシの腕に預けられていた身体から、すべての力がすうっと抜けていく。
「フジ……?」
呼びかけても、あの愛らしい三角形の耳がピクリと動くことはなかった。
「フジ……嘘でしょ、起きてよ……」
冷たくなっていく頬をどれだけ撫でても、ちぎれんばかりに振られていた尻尾は、二度と石畳を叩かなかった。
「ねえ……フジってば……」
戦場を埋め尽くす歓声の中で、アタシの行き場を失った声だけが、虚しく宙に消えていく。
「ふじ……っ」
胸の中へと強く抱きすくめると、まだフジの身体に僅かに残っていたかすかな温もりが、服越しにじわりと伝わってきた。
その最期の温もりまで、この冷たい夜風に奪われてしまうのが恐ろしくて、アタシは壊れ物を守るように腕の中へと力を込めた。
「フジィィィィィィィィ――ッ!!!」
引きちぎれんばかりのアタシの絶叫は、町中に響き渡る勝利の歓声へと無慈悲に呑み込まれ、誰の耳に届くこともなかった。




