10話 剣聖現る
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高天原城内
鬼神の力を宿して転生した素空は、通常の訓練期間をすべて免除され、召喚の館から直接、この国の最高中枢である高天原城へと案内されていた。
厳かな廊下ですれ違う兵士たちは一様に足を止め、素空の姿を確かめるように注視したあと、次々と深く頭を下げていく。
「本当に、あの方が……」
「鬼神の力を宿す、新たな転生者らしいぞ」
「これで、我が国の戦況が変わる……!」
押し殺した、しかし隠しきれない興奮の混じった声が、すれ違うたびに耳に届いた。
素空には、彼らがこれほど自分に期待を寄せる明確な理由はまだ分からない。
ただ、自分に向けられる視線が、単なる珍しい異界の客人を見るものではないことだけは、肌に刺さる空気で理解していた。
やがて、重厚な彫刻が施された巨大な扉の前へと辿り着く。
左右に立っていた衛兵が無言で一礼し、重い鉄の扉をゆっくりと左右へ開いた。
広間へと足を踏み入れた瞬間、居並ぶ者たちの無数の視線が一斉に、集中豪雨のように素空へと集まった。
長い黒髪を高い位置で一つに束ね、口元は黒い面布で覆われている。
漆黒を基調とした機能的な装束には、深い紫と金の刺繍が施され、その腰には美しい反りを見せる一振りの刀が静かに下げられていた。
決して、華美な装いではない。
それでも、一切の無駄なく極限まで鍛え上げられた強靭な肉体と、黒髪の隙間から覗く鋭利な蒼い瞳には、その場の空気を一瞬で氷結させるほどの圧迫感があった。
広間の奥には、すでにこの国の重鎮たちがずらりと居並んでいる。
中央の王座に腰を下ろすのは、高天原を統べる王、マガツ。
その傍らには、第一親衛隊長ネネネと、副隊長であるチャトラン。さらに各親衛隊の隊長、副隊長に至るまで、国の最高戦力が一堂に顔を揃えていた。
「ワシが、この国を治めるマガツであ~る」
マガツは自ら玉座から立ち上がり、素空の前へと歩み寄った。
「よくぞ、高天原へ来てくれた」
対する素空は、深く頭を下げるでもなく、ただ静かにマガツの瞳を見返した。
召喚されたばかりの男。その態度を「不敬」だと咎める者は、この場に一人としていなかった。男から放たれる気配が、それを許さなかったのだ。
「本当に、これが噂の鬼神の力なのかにゃ……」
チャトランが素空を上から下まで値踏みするように眺めながら、その尻尾を忙しなく左右に振っている。いつもの緩い口調ではあるが、その瞳の奥には獣特有の警戒心が滲んでいた。
「チャトラン、慎みなさい」
ネネネが短く、鋭く名を呼ぶ。
「分かってるって」
チャトランはそう答えながらも、その耳をピンと立たせたまま、素空の動きを凝視し続けていた。
各親衛隊の隊長たちも、互いに声を潜めて言葉を交わし始める。
「これほどの魔力反応は、過去のどの召喚者にもなかったそうだ」
「神は、我らを見捨ててはいなかったというわけか」
「ガルド帝国の苛烈な侵攻も、これで食い止められるやもしれん」
誰もが、目の前の漆黒の戦士を「救世主」を崇めるような目で見つめていた。
だが、ただ一人――第一親衛隊長ネネネだけは、他の者たちと明確に違っていた。
騒ぎ立てることもなく、過度な期待を口にすることもない。
燃えるような紅い髪を背へと流した彼女は、素空の立ち方、視線の配り方、そして僅かな呼吸の揺らぎに至るまで、そのすべてを見逃さないよう静かに観察していた。
(腰に刀を下げていながら、肩にも腕にも、余計な力みが一切ない……)
これだけの重圧と視線を浴びながら、男は足の位置を微塵も変えず、ただその冷徹な蒼い瞳だけで、広間にいる者たちのすべてを静かに捉え返していた。
その瞬間だった。
ネネネの掲げた黒龍の杖から、爆発的な黒炎が噴き上がった。
凄まじい熱量を孕んだ炎は、意思を持つかのように巨大な龍の姿へと形を変え、唸りを上げながら一直線に素空へと襲いかかる。
「ネネネ!」
チャトランが鋭い悲鳴のような声を上げた。
しかし――。
キン……。
冷たく、澄んだ金属音だけが広間に響き渡る。
素空は、いつの間にか剣を鞘へと綺麗に納めていた。
その場にいる誰も、彼の抜刀すら、刃の閃きすら目撃していない。
凶暴な黒炎の龍は、何が起きたかも分からぬまま音もなく左右へと真っ二つに裂け、そのまま空中へと虚しく霧散していった。
ネネネの瞳が、驚愕に僅かに揺れる。
(……一瞬、視界から消えた。私の目ですら、捉えきれなかった)
強さは、もはや疑う余地もない。
だが、ネネネが何よりも見極めたかったのは、その恐るべき力を『何のために振るう男なのか』という、その一点だった。
「失礼いたしました、陛下」
ネネネは杖を収めると、王マガツへと静かに一礼した。
マガツはそれを咎めることもなく、むしろ満足そうに喉の奥で小さく笑う。
「ふむ、確かめずにはおれなんだか」
「第一親衛隊長として、必要な手続きでございました」
「ならば、もう十分じゃろう」
「はい」
ネネネは再び素空へと一礼を返すと、音もなく自身の席へと戻っていった。
その後、張り詰めていた空気を押し流すように歓迎の宴が始まると、長い大理石の卓へと豪華な宮廷料理が次々と運ばれてきた。
香ばしく焼かれた肉、見たこともない深海の魚、色鮮やかな未知の果物。メイドたちは空いた皿をテキパキと片づけては、目新しい料理を並べていく。
先ほどまで黒炎が飛び交い、殺気が満ちていたとは思えないほど、広間には穏やかな空気が戻っていた。
チャトランは早くも目の前の肉へと行儀悪く手を伸ばしていたが、素空は目の前に並ぶ贅沢な料理へ、一切手をつけようとはしなかった。
やがて、マガツが静かに杯を卓へと置いた。
「時に素空殿。我々の世界については、まだ何も知らぬと思う」
その一言で、広間の賑やかなざわめきがピタリと止まる。
「このアルカディア大陸では、長きにわたり過酷な戦乱が続いておる」
マガツは壁に掛けられた広大な大陸地図へと視線を向けた。
「理不尽に国を追われた者。飢えに苦しむ子どもたち。力ある者に無慈悲に虐げられ、明日を生きることすら許されぬ弱き民……そんな者たちが、この瞬間も大陸のどこかで、数え切れぬほど涙を流しておる」
マガツは地図から、再び素空へと視線を戻す。
「中でもガルド帝国の侵攻は、日に日に激しさを増している。高天原は決して、軍事的に強い国ではない。国境近くではすでに、多くの民が家を焼き払われ、逃げ惑っておるのが現状じゃ」
広間に、どっしりと重い沈黙が落ちる。
「ワシは……その者たちを救いたい」
マガツはゆっくりと立ち上がり、素空を真っ直ぐに見据えた。
「だからこそ、神に祈り、お主という存在をこの世界へ迎えたのじゃ」
チャトランも、居並ぶ親衛隊の者たちも、その顔から笑みを消して表情を引き締めた。
「素空殿」
「……」
「その大いなる力を、弱き者を救うために貸してはくれぬか」
しばらくの間、濃密な沈黙が流れた。
素空は、壁に掛けられた大陸地図を見つめる。
飢えた民。
虐げられた子ども。
家を失い、泣き叫ぶ者たち。
その言葉が彼の胸の奥深くに触れた途端、閉ざした記憶の底から、二度と忘れられぬ『誰か』の顔が浮かびかけた。
素空はそれを振り払うように、ゆっくりと、強く拳を握りしめる。
「俺は……」
一度だけ床へ視線を落とし、再び静かに顔を上げた。
「弱い者が泣く姿は、もう二度と見たくない」
その声は低く、どこまでも静かだった。
それでも、広間にいた全員の耳の奥へ、重低音のように確信を持って響き渡った。
親衛隊の者たちの肩から、安堵の息が漏れる。
チャトランは嬉しそうにその尻尾を振り、隣にいた隊長の肩を何度も力任せに叩いた。
「ほら見ろにゃ! やっぱりアタシの勘通り、本物の救世主だったじゃないか!」
「チャトランさん……痛い、叩く力が強いって……!」
安堵から誰かが拍手を始めると、それは瞬く間に広間全体へと伝播し、素空を心から歓迎する割れんばかりの歓声へと変わっていった。
ただ一人、ネネネだけは拍手をしなかった。
黙ったまま素空を見つめ、その横顔から、彼の放った言葉に一片の偽りもないことを確信すると、ほんの僅かに、その切れ長な目を細めるのだった。
「……それで十分じゃ」
マガツは深く満足そうに頷き、再び杯を手に取った。
この日、高天原に一人の救世主が誕生した。




