9話 新たな転生者
◇
あの召喚の館でテラたちに召喚されてから、早くも一年が過ぎようとしていた。
季節は巡り、アタシたちも少しずつ、この異世界で生きることに慣れていった。
毎朝、ゼノムさんと血の滲むような訓練を繰り返し、昼は道具屋で働く。
夜は今日覚えたことをノートに整理し、翌日の訓練に備えて泥のように眠る。
そんな、一見すると地味な毎日の繰り返し。
だけど、この一年で一番成長したのは、他でもないアタシ自身だったのかもしれない。
最初は数回スキルを使っただけで気絶していたアタシの精神力も、今では見違えるほどタフになり、魔獣のスキルをある程度連続で扱えるようになっていた。
まず、相棒のミル。
元々持っていた【縮小】を呼吸のように自在に使いこなしながら、進化・習得した二つのスキル、
・【逃がす】
・【盗む】
これらを、それぞれ一日三十回前後までノーペナルティで発動できるようになった。
そして、新人のフジ。
直撃すれば岩をも砕く【虎咆】の使用回数は、なんと十五発。
初めて会った頃は一発放つたびにゼェゼェと息を切らしていたのに、今では連続で衝撃波をブチ込めるまでに成長している。
さらにフジは、この一年の猛特訓の末、新たに【群れ行動】というスキルも覚えた。
複数の仲間と連携することで、全体の能力を爆発的に底上げする能力らしい。
……とはいえ。
◇
「フジ」
「はい!」
「今、アタシたちの群れって何匹だっけ?」
「ミル先輩だけです!」
「だよねぇ……」
アタシはがっくりと肩を落とした。
現在、契約している魔獣はたったの二匹。これじゃあせっかくの【群れ行動】も宝の持ち腐れだった。
様子を見ていたゼノムさんが、苦笑いを浮かべながらパイプの煙をくゆらせる。
「まあ、実際の戦場へ出れば、役に立つ日も来るじゃろうて」
「その前に、もっと仲間を増やさないと意味ないですよねぇ……」
魔獣師は、契約する魔獣が増えるほど戦術の幅が無限に広がる。
しかしその分、術者にかかる精神的な負担も、彼らを統率するカリスマ性も求められるのだ。
あと数匹。
いや、せめてもう一匹だけでもいい。
前線でバチバチに戦える、頼もしい戦力が欲しいところなんだけど。
「フローラ……アレを持ってきておくれ」
ゼノムさんが不意に声をかけると、奥の部屋からフローラさんが「はいはい」と小気味よい返事をして戻ってきた。
その手には、一振りの古びたタクトが握られている。
◇
それは、黒ずんだ木の柄をした一本の指揮棒だった。
長年使い込まれてきたのだろう。持ち主の手の形に馴染むように摩耗しており、先端には小ぶりだが深い輝きを放つ、青い魔石が埋め込まれている。
「これは……?」
「儂が現役の魔獣師時代に、片時も離さず使っておったタクトじゃ」
ゼノムさんから手渡され、アタシは恐る恐るそれを両手で受け取った。
見た目こそ年季が入っているけれど、不思議とアタシの手に吸い付くようにしっくりと馴染む。じんわりと温かい。
「普通のタクトよりも魔力の伝達効率が遥かに優れておる。これを媒介にすれば、お主が魔獣を操作できる限界距離が、およそ二倍に跳ね上がるはずじゃ」
「二倍……!?」
「今のお主の精神力なら、約二キロじゃな」
二キロ。
その数字を聞いた瞬間、アタシの背中にゾクリと鳥肌が立った。
それは、戦い方そのものの前提がひっくり返る距離だ。
今まではアタシの目の届く範囲、すぐ近くで戦わせるしかなかった魔獣たちを、姿が見えないほどの遠隔地からでも自由に、かつ正確に動かせるようになる。
アタシはタクトをギュッと握り直し、胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。
(この一年……決して無駄じゃなかった)
頼もしく育ったミルとフジの姿を見つめる。
ほんの少しだけ、本当に一歩ずつだけど、アタシはこの世界で「魔獣師」として、自分の足で歩き始められた気がした。
◇
「鬼神じゃ……鬼神が生まれおった……」
テラは、召喚陣の中央から一瞬たりとも目を離せずにいた。
床一面に描かれた古代文字が禍々しいほど蒼く輝き、現れた男の身体を中心に、幾重もの光の奔流が渦巻いている。
普段であれば、被召喚者が姿を現した時点で静まるはずの魔力。それが今回は、行き場を失ったかのように召喚の間を狂暴に駆け巡り、石造りの壁や天井へと何度も爆ぜていた。
バチッ、バチチッ――!
男の全身から鋭い蒼雷が走り、容赦なく床へと突き刺さる。
あまりの破壊的な衝撃に耐えきれず、堅牢なはずの召喚陣の一部へ、メキメキと細い亀裂が入っていく。
「おじいちゃん……これは……去年のアヤさんの時とは、まるで……」
トラはタクトを白くなるほど握り締めたまま、戦慄して言葉を失っていた。
一年前、まったく同じ場所へ召喚された女――アヤから溢れたのは、どこか神秘的な淡い紫色の光だった。
それでも魔獣師の素質としては極めて珍しいと言えたが、いま目の前にいる男が放つ『暴力的なまでのプレッシャー』とは、比べるべくもなかった。
それは光というより、剥き出しの力そのもの。
少しでも間合いに入れば、身体ごと細切れに引き裂かれそうなほど鋭い。
それほどの覇気を放ちながらも、漆黒の装束に身を包んだ男自身は、召喚陣の中央へ膝をついたまま身動き一つしなかった。
やがて、荒れ狂っていた蒼い光がようやく収まり、召喚の間へ張り詰めた静寂が戻る。
男は黒手袋に覆われた両手を床につき、浅い呼吸を繰り返していた。
首元まで覆うマスクの奥から、掠れた声が僅かに漏れる。
「俺は……」
ゆっくりと、重そうに顔を上げた。
鋭い眼光が、見覚えのない見知らぬ部屋を見渡す。
白い髭を蓄えた老人。タクトを構えて震える少年。壁際で硬直している数人の従者。
だが、その中に――男が本能的に探している『誰か』の姿はなかった。
「俺は……生きているのか……」
辛うじて一命を取り留めた、あるいは新しい生を得たと理解しても、男の冷徹な顔に喜びの陰は微塵も浮かばない。
男は自身の両手を見つめ、指を一本ずつ確かめるように動かしていく。
傷一つなく、以前の記憶よりも遥かに若返り、超常的な力を秘めた手。
それを確かめたあと、男はかつて失った何かを愛おしく抱き締めるかのように、両腕を僅かに曲げた――。
だが、そこには温もりなど何一つ、存在しなかった。
ただ、胸の奥にある「現世で守れなかったもの」への、黒く焦げ付くような深い後悔と未練だけが、冷たく残されている。
「クラスは戦士、レベルは最高位のマスタークラス……。特技は神の如き速さの『神速』……。なんと凄まじい男じゃ」
テラが震える手で羊皮紙のステータスを確認し、唾を飲み込んだ。
男は静かに立ち上がる。その佇まいは、まさに戦うためだけに洗練された一振りの鋭利な刀のようだった。
男の腕は、力なく下ろされた。
「だ、大丈夫ですか……?」
トラがおそるおそる数歩近づくと、男は首を動かさず、鋭い視線だけを彼へと向けた。
「あんたたちは……誰だ?」
声は驚くほど低く、落ち着いていた。
だが、その声の底には、底知れない深い疲弊が滲んでいる。
「我々は召喚士じゃ。別の世界でその命を終えた者を、こちらの世界へ呼び出す役目を担っておる」
「命を……終えた……」
男はその重い言葉をぽつりと繰り返し、静かに目を伏せた。
彼は現世での最後に、一体何を見たのか。
誰の声を、最後に聞いたのか。
テラたちには知る由もない。ただ、男の端正な表情がほんの一瞬だけ痛ましげに歪み、すぐに氷のような無表情へと戻ったことだけは見落とさなかった。
「そうか……」
諦念の混じったその一言は、自分が死んだという事実よりも、もう二度とあの場所へは戻れないという現実を、無理やりに受け入れたように聞こえた。
テラは男の前へと一歩進み、いつものように問いかけようとする。
「まず、お主の――」
「名前なら、言わない」
男は抑揚のない声で、静かにテラの言葉を遮った。
不意を突かれ、トラの肩がビクッと跳ねる。
「えっ……?」
「俺の名前を、あんたたちへ教える理由がない」
見知らぬ異世界へ召喚されたばかりだというのに、男は微塵も取り乱していなかった。
決して状況を完全に理解できているわけではない。それでも、自分が何を把握しておらず、目の前の二人が何を求めているのかを、僅かな会話の断片だけで冷徹に見極めようとしていた。
テラの口元へ、ふっと感心したような笑みが浮かぶ。
「なるほどのぉ。去年の者とは、随分と毛色が違う」
「去年……?」
「こちらの話じゃよ」
テラは白い髭を撫でながら、興味深そうに男を観察した。
「心配せんでも、元の世界での名を聞こうというのではない。この世界で新しく生きる者は、自らの意志で新しい名を決める。それが、この世界の絶対的なルールじゃ」
「新しい名前……」
男は再び、重い沈黙に沈んだ。
閉じた瞼の裏に、かつての記憶の残像が浮かんだのだろう。
硬く結ばれていたはずの口元が、一瞬だけ、愛おしむように僅かに緩む。
だが同時に、その愛おしさに耐えかねたように、眉間へ深い皺が寄った。
その名を頭に思い描くだけで、胸を締め付けるほどの懐かしさと、焼き付くような後悔が、同時に押し寄せてくるようだった。
長い、凍りつくような沈黙のあと、男はゆっくりと目を開けた。
「……素空」
「そくう、じゃな?」
「ああ。俺の名は、素空だ」
男――素空は、今度は自分に言い聞かせるように、もう一度その名を口にした。
この世界で初めて名乗るはずの名前なのに、その響きには、ずっと以前から命に代えてでも大切にしてきたものを呼ぶような、深い愛着が籠もっていた。
フゥッ――と、再び男の身体から蒼い光が立ち昇る。
しかし先ほど周囲を破壊しかけた雷光とは違い、今度は一度だけ静かに瞬くと、まるで衣服のように素空の身体へと滑らかに吸い込まれていった。
それと同時に、テラの目の前に、召喚者の能力を示すステータスの魔文字が浮かび上がる。
そこへ刻まれた規格外の内容を目にした途端、老練なテラでさえ、言葉を失って硬直した。
「……クラスは戦士、レベルは最高位のマスタークラス……いや、これは闘神の領域じゃ……!」
「特技は……『神速』……!?」
トラが信じられないものを見る目で、震える指で宙の文字を追う。
召喚されたばかりの者に、初期値として与えられるような能力では到底なかった。
この世界で何十年もの歳月をかけ、死線を潜り抜けて鍛え上げた者でさえ、一生かかって辿り着けるか分からない絶対的な強者の領域。
しかし、素空自身は、眼前に浮かぶ己の凄まじい能力へ一瞥もくれなかった。
ただ、遠くを見つめるように召喚の間の冷たい石壁へと視線を向け、誰の耳にも届かないほど小さな声で、ぽつりと呟く。
「今度こそ……」
その先に続くはずの言葉は、声にならなかった。
漆黒の手袋に包まれた拳だけが、白くなるほど強く、僅かに震えていた。
「では、契約について説明がある。ついて来なされ。素空殿」




