8話 オス魔獣との契約
◇
「子どもを食うって……あんたが言ったのかい?」
群れの中でもひときわ大きな狼が、雪を踏みしめながら、ゆっくりとチャトランへ近づいた。
肩まで三メートルはあろうかという巨体。
見上げるほどの質量から放たれるプレッシャーは凄まじい。
吐き出される息は白く凍り、地鳴りのような低い声だけで周囲の空気がビリビリと震える。
「へっ?」
アタシは状況が掴めず、巨大な狼とチャトランの顔を何度も交互に見るしかなかった。
「あー? そうそう! あたし、あたし」
当のチャトランは、悪びれる様子もなくひょいと手を挙げる。
この緊迫した空気の中で、完全に緊張感がゼロの態度だ。
「親衛隊の方が、なんの冗談ですかい。勘弁してくだせぇよ」
巨大狼が、あきれたようにふんと鼻を鳴らした。
「ん? だって普通に呼ぶの面倒じゃん?」
狼は深く、長いため息をつくと、今度はゆっくりとアタシの方へその恐ろしい顔を向けた。
金色の鋭い眼光が、まっすぐにアタシを射抜く。
「……で、この方が魔獣師さんですな」
「そう! 魔獣師が魔獣に襲われねぇって仕様、完全に忘れてんだよ。この元おばちゃん!」
「おばっ……まあ……そうですけど……!」
元おばちゃんだけど、今は一応ピチピチ(?)の若返りボディなんだから、そこを強調しないでほしい。
「んなことより早く交渉しろよぉ。焦れってぇなぁ〜」
チャトランは大きく欠伸をしながら、早く行けとばかりに手をひらひらと振る。
(全部、元はと言えばアンタのせいでしょーが!)
心の中で激しいツッコミを入れながら、アタシは雪を蹴って一歩前へ出た。
ここで怯んだら元スーパーのチーフの名が廃る。
「あ、あの……実はですね。コホン。ええと、オスの魔獣を探してまして――」
「なんだあ? 弱そうだぞ、コイツ」
「ちゃんと戦えんのかよ」
「見た目は若いけどさ、なんか……加齢臭するな」
「ギャハハハハ!」
周囲を取り囲んでいたコボルトウルフたちが、前足で雪を叩きながら好き勝手に笑い始めた。
(はぁぁぁあ!?)
(加齢臭だとぉぉぉおおお!?)
(完全にキレたわ! いま、この場でスーパーのタイムセールを修羅場に変えてきた『おばちゃんパワー』の恐ろしさ、骨の髄まで叩き込んでやるわよーい!)
「はい! 今、そこのコボルトウルフくん!」
アタシは勢いよく、さっき煽ってきた狼を指差した。
突然名指しされた若い狼が、耳をピクリと動かして身構える。
「おお? 一応、アタシらの種族名は知ってんのか」
(ふふん、事前に勉強しておいて良かったわ……!)
「さっき、アタシのこと弱そうって言ったよね?」
「ん、ああ。言ったが?」
「じゃあ聞くけど、強かったらどうするの? 一生、誰かの下について、ただ命令を待って終わるだけ?」
その言葉に、狼たちの下品な笑い声がピタリと止まった。
「本当の君たちの夢は何? ただ魔獣師の奴隷になること?」
「いや……そんな夢なんてねぇよ。だから人間と契約なんかしてねぇんだろ」
「そう!!」
アタシは大きく頷き、雪を踏みしめて一歩迫る。
「それも立派な生き方! 群れを守るのも、子どもを育てるのも、絶対に間違ってない! 立派な人生よ!」
狼たちは気圧されたように、黙ってアタシの言葉に耳を傾けている。
よし、タイムセールの呼び込みで鍛えたマイクパフォーマンス(生声だけど)の効果は抜群だ。
「でも!」
アタシはぐるりと周囲の群れを見回した。
「逆に――自分がこの群れの『長』になりたいってヤツは、一人もいないの!?」
雪山に、しんと冷たい静けさが落ちる。
「自分の旗を掲げたいヤツ。もっと強くなって世界を見たいヤツ。そんな熱い夢があるなら、アタシが全力で力を貸してあげる!」
狼たちは、ざわざわと互いに顔を見合わせ始めた。
完全にこっちのペース。
しばらく重苦しい沈黙が続いた、そのとき――。
「あの……僕じゃ、駄目でしょうか?」
消え入りそうな、控えめな声が響いた。
視線を向けると、群れの連中の足元をすり抜けるようにして、一匹の小柄なコボルトウルフがおずおずと前へ歩いてきた。
他の狼の肩の高さほどしかない、小さな、まだ子供のような身体。
「おお……! オスなら願ったり叶ったりだよぉ!」
アタシはさっきまでの威圧感をかなぐり捨ててしゃがみ込み、そのもふもふの頭を優しく撫で回した。
「大丈夫! おばちゃんが責任持って、あんたを最強にしてあげるから!」
思わずぎゅっと抱きしめて頬ずりすると、小さな狼は耳をぺたんと寝かせて、照れくさそうに身体をすり寄せてくる。
可愛い。最高。
「……いや、小さくね?」
横から、チャトランが実に呆れたような声を差し込んできた。
「黙れ、このクソ猫獣人が!」
「はいはい、お幸せに〜」
チャトランはひらひらと手を振り、肩をすくめる。
「あ、ちなみに……僕って言ってるけど、ちゃんとオスよね?」
念のため、隣にいたミルの顔を覗き込むと、何だか少しムッとした顔をされた。
「オスだよ。ほら、見てみな」
すると、小さなコボルトウルフは恥ずかしがる様子もなく、その場で後ろ足でぴょんと立ち上がった。
「わっ、分かった! 分かったから! アタシの負け! しまって!」
アタシは真っ赤になって慌てて両手を振る。
それを見た周囲の狼たちから、一斉にドッと大きな笑い声が沸き起こった。
張り詰めていた雪山の張り詰めた空気が、ようやく少しだけ、温かく和らいだ。
◇
「フジ! 早くおいで!」
「はいっ、今行きます!」
あれから、あの小柄なコボルトウルフの子と正式に契約を交わした。
名前は『フジ』と名付けている。
(四十代の元おばちゃんが、雪の岩山で見つけたウルフ。これもう、名前は『フジ』一択でしょ? 異論は認めないわ)
このフジ、とにかく素直で良い子だった。
「フジ、これ運んでくれる?」
「はい!」
「そこで少し待っててね」
「はい!」
「危ないから、アタシの後ろに下がって!」
「はい!」
とにかく返事だけはいつでも百点満点。
何事にも一生懸命についてこようとする姿は、見ているだけで「よしよし、おばちゃんが美味しいもの食べさせてあげるからね!」と貢ぎたくなる魅力がある。
契約を終えた後、『テラとトラの館』でフジのスキルを調べてもらった。
そこで判明した、フジが最初に覚えたスキルは【虎咆】。
自身の咆哮を強烈な衝撃波へと変えて放つ、強力な遠距離攻撃スキルだ。
なんでも、魔獣が最初に覚えるスキルは、契約直前に受けた【強い経験や記憶】が色濃く反映されるらしい。
つまり、フジがこのスキルに目覚めた原因は――。
(……あのクソ猫獣人の、山をも揺るがした大絶叫のせいよね?)
チャトランが情け容赦なく叫んだあの声が、巡り巡ってフジの強力なスキルになったらしい。
(めちゃくちゃ役に立つスキルなんだけど……なんか、すっごく癪に触るわ……!)
一方、ミルの方にも大きな変化があった。
【逃げる】→【逃がす】
【縮小】
【盗む】
泥棒から万能薬を奪い返した経験によって【盗む】を覚え、あの洞穴でアタシを逃がせなかった後悔から、【逃げる】が【逃がす】へと進化したらしい。
【逃がす】は、触れた相手をアタシのそばまで瞬時に転移させる補助スキル。
【盗む】は、相手が身につけている物や所持品から、狙った物を一つだけ確実に奪い取るスキル。
(うん、めちゃくちゃ役に立ちそう……なんだけどさ)
(というかアタシの相棒、犯罪の匂いしかしないスキルばかり覚えてない!?)
現在はゼノムさんと一緒に、それぞれのスキルの限界値を調べているところだった。
「フジ、虎咆じゃ」
「はい!」
フジが深く息を吸い込む。
「ガアアアアアッ!」
周囲の空気が強烈に震え、目に見えるほどの衝撃波が地面を這うように一直線に駆け抜けた。
ドォンッ!
少し離れた位置にあった巨岩に命中し、砕けた石礫と砂埃が派手に舞い上がる。
「もう一発」
「はいっ!」
二発。
そして三発。
フジが四発目を撃とうと身構えた、そのときだった。
アタシの足元が、急にぐらりとふらついた。
「うっ……」
頭の芯を強引にかき回されたような、強烈な眩暈。
視界が急激に歪み、アタシはその場に膝をついた。
フジ自身はまだ全然動けそうなのに、アタシの方の身体が、もう限界を訴えている。
「ふむ、今日は三発が限界じゃな」
ゼノムさんは手帳に何やらペンを走らせながら、淡々と頷いた。
「少し休んでから、次はミルじゃ」
アタシは地面に座り込み、酷い息苦しさと眩暈が治まるのをじっと待った。
「……もう大丈夫か?」
「多分……さっきよりは、少し」
「ではミル、これを盗んでみい」
ゼノムさんは懐からひょいと木の実を取り出すと、自身の手のひらの上に載せた。
「うん」
ミルの姿が一瞬だけ、陽炎のように霞む。
次の瞬間にはゼノムさんの手から木の実が消え去り、ミルの小さな前足にしっかりと挟まっていた。
「あっ、凄い!」
「二回目」
またしても、一瞬で消える。
「三回目」
さらにもう一度。
ゼノムさんが四回目を命じようとした瞬間、今度はアタシの目の前が完全に真っ暗になった。
「ちょっ……待って、限界……っ」
全身からすうっと力が抜け、アタシはその場へ派手に尻もちをついた。
「アヤ!」
ミルとフジが、慌てた様子で同時に駆け寄ってくる。
「なるほど。【虎咆】を三回使ったあとでは、【盗む】も三回が限界というわけか」
ゼノムさんはアタシを心配する素振りすら見せず、やっぱり淡々と手帳にデータを書き込んでいる。
(いや、おじいさん、少しくらいはアタシの心配をしてよ……!)
「同じスキルであっても、その日の体調や精神状態によって使える回数は細かく変動する。そして限界を超えて使えば、今のように術者自身が倒れることになる」
そうなのだ。
魔獣がスキルを使うたびに消耗するのは、魔獣の体力ではなく、指示を出す術者――つまりアタシの『精神力』だった。
精神力が尽きれば、アタシは意識を保てなくなる。
そうなれば魔獣に指示を出すことも、スキルを使わせることもできなくなるのだ。
フジとミルがどれだけピンピンしていても、好きなだけ戦わせられるわけではない。
自分たちがあと何回スキルを使えるのか。
どの能力を、どの順番で発動させるのが最適なのか。
それらを正確に把握することもまた、魔獣師にとって最も重要な訓練の一つだった。
◇
一通りの訓練を終え、ゼノムさんと別れて家へと戻る帰り道。
フジはアタシの半歩後ろを、雪を蹴る静かな足音だけを響かせてついてきていた。
だが、不意にその歩幅が緩む。
「アヤさんは人間ですから、僕たちの話は、少し変に聞こえるかもしれません」
前を見据えたまま、フジがぽつりと呟いた。
「ん? 何が?」
「僕たちコボルトウルフの群れでは、長の命令は絶対なんです」
「……そんなに厳しいの?」
フジは迷いなく、小さく首を縦に振った。
「もし、それぞれが自分の考えで勝手に動き始めたら、群れは群れじゃなくなります。一瞬で壊れてしまう」
「でも……もし、その命令が明らかに間違ってたら?」
「それでも、従います」
返事はあまりにも早かった。
迷う素振りも、綺麗事を探すような間さえもない。それが当たり前だと、魂に刻み込まれているかのように。
「例えば、子どもが崖から落ちそうになったとします」
「うん」
「でも、長が『動くな』と言えば、僕は動きません」
あまりに淡々とした言葉に、アタシの足がピタリと止まった。
振り返ると、フジの金色の瞳がじっとアタシを見つめていた。
「……助けないの? 目の前で子どもが死にそうでも?」
「助けたいです。心が引きちぎれそうになります」
フジは俯きもせず、真っすぐアタシの目を見て答える。
「でも、一匹が情に流されて飛び出せば、二匹目も飛び出します。三匹目も続いてしまう」
フジは視線を、遠くの白銀の雪原へと向けた。
「そうして、群れ全体が崖崩れに巻き込まれて全滅する。それが一番やってはいけないことです」
冷たい風が、アタシとフジの間をヒュウと吹き抜けた。
その声には、迷いも後悔も、冷酷さすらもなかった。ただ、過酷な自然を生き抜くための、絶対的な生存戦略。
「一匹を助けようとして、群れ全部を失う。長は、みんなの代わりにその責任を背負って、嫌われ役になります。間違っていても、恨まれても、群れを生き残らせるためなら、絶対に命令を曲げないんです」
(群れ……家族……組織……)
フジの言葉が、アタシの胸の奥を重く打つ。
規模はまったく違うけれど、前世のスーパーでチーフをやっていた頃、パートさんたちの生活やお店の利益を守るために、心を鬼にして非情な決断を下さなきゃいけなかった時の感覚が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
誰かを守るための『長』の重圧。それを、この小さな身体でフジは理解しているのだ。
「――だから」
フジはアタシの前に回ると、ピシッと背筋を伸ばして頭を下げた。
「今はアヤさんが、僕の『長』です! アヤさんの命令なら、僕は命を懸けます。これから、よろしくお願いします!」
向けられたのは、純粋で、あまりにも重い信頼。
ただの可愛いペットを飼うのとは違う。アタシはこの子たちの命を預かる『長』になったのだ。
おばちゃん、ちょっと身が引き締まっちゃうじゃないの。
「いやいや……うん! 頼りにしてるよ、フジ。アタシも全力で頑張るから!」
アタシは精一杯の笑顔を浮かべ、フジの頭をくしゃくしゃと撫で回した。
絶対に、この子たちを死なせたりはしない。心の中でそう強く誓いながら、アタシたちは再び、家路へと歩き出した。




