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遊初軒

夜が明け、早朝に五百人の兵を率いて京を目指した。伊丹城を立ち、山陽道を東進していると落とされたばかりの茨木城の前を通った。辺りには合戦の痕跡が所々にまだ残っており、屍も所々に転がっている。其処から一刻ほど東進を続けると摂津と山城の国境に差し掛かった。此処で進路を北に取り、京都への進軍を続けた。また一刻ほど北進を続けると長岡京跡に着いた。


街の所々に嘗ての都だった形跡が残っており、風情というのはこういう物なのかとしみじみと思った。此処で一旦兵を休ませ、私はその間に長岡天満宮に参拝した。北進を再開し桂離宮に差し掛かった頃、北西の空が騒がしくなってきた。何かと思い道行く人に聞くと、どうやら西岡の被官達が嵯峨城の香西元長に反旗を翻したらしい。私はこの報を聞くと直ぐ様西岡の被官等に加勢する旨の書状を送り、軍勢を桂川沿いに進めた。


軍勢が嵐山山麓に到着すると、嵯峨城は千の兵に囲まれつつも未だに持ち堪えていた。嵯峨城は北に桂川、西と南は山に囲われいる。其の為、西岡勢は東の平野部より攻めていた。然し、嵯峨城は軍事的な性格の強い山城であり、一方向からの攻撃で落とすのは至難の技であった。私は軍勢の中からよりすぐりの者十名を率いて、嵐山南西の松尾大社より嵯峨城に奇襲を仕掛けることにした。農民を道案内につけ、松尾山を登っていくと磐座があった。我々は磐座に作戦の成功を祈った後、また登り始めた。松尾山山頂へ到着すると、尾根伝いに嵐山を目指した。四半刻ほど駆けていくと嵯峨城に着いた。嵯峨城の兵士達は此方の存在に気付いていない。木に登り、城内の様子を見てみると丁度兵士が少なくなっていた。之を好機と見た我々は城内に侵入し、近くに居た兵士の装備を剥ぎ取り、城門へ向かった。


我々は外の味方と合図し閂を外した。すると、外から味方の軍勢が雪崩込み、嵯峨城はあっという間に落ちていった。然し、城内の到る所を捜しても城主の香西元長は見付からなかった。どうやら籠城戦が始まると京へ抜け出したようだ。

もう日が落ちかけていたので私は嵯峨城に入り、兵を休ませる事にした。


翌日、細川民部少輔高国、細川右馬助政賢、細川淡路守尚春が率いる二千の軍勢が嵯峨城に到着した。私は三人を饗し、明日の段取りを決めた。高国が大将を務める事になった。


「明日の早朝に赤沢、三好の軍勢と共に京の遊初軒を攻める。猪名殿はその際、先鋒を務めて貰いたい。」


高国は私にそう言い残すと部屋から出て行った。


真夜中に、嵯峨城を出発した。桂川を渡河し、京に向け東進を始めた。

半刻ほど東進を続けると、洛中に入り、赤沢と三好の軍勢に合流した。其処からまた半刻ほど東に進むと、かの花の御所があった室町通に着いた。其処で進路を北に取り、澄之勢が布陣する遊初軒を目指した。一条道を横切ると遊初軒に布陣する澄之勢と対峙した。朝焼けが両軍を紅く染めた。

法螺貝が合戦の開始を告げた。


合戦が始まるや否や、澄之勢から二人の若武者が歩み出て来た。

若武者は配下の兵五十余人を率い、二千を超える敵軍に一か八かの突撃を仕掛けた。然し、多勢に無勢とは正にこの事である。奮戦虚しく尽く討死し、首実験でその若武者の名は、一宮兵庫助と矢野八郎左衛門尉と言う者だという事が後に分かった。


丁度同じ頃、私は高国に従い薬師寺長忠の宿所を攻めていた。遊初軒から移動してきた香西元長、香川満影、安富元顕、三野五郎太郎等が率いる香西勢凡そ二百の兵が屋敷に立て籠もり、高国勢を追い返していた。私は之を見て高国に屋敷への放火を提案した。高国は之を妙案と了承し、私は大急ぎで近くの民家から油を収奪して、屋敷に火を放った。私は屋敷の門前に立ちはだかり、熱さに耐えかね出てきた敵の首を刎ねた。


然し、敵が屋敷の火を消し止めた為、私は手勢を率いて屋敷に突入した。

私が具足も着けずに戦っていた香西元長を討とうとすると、私の兜斬は前田孫五郎によって受けられた。私と鍔迫り合いをしながら孫五郎は元長に対しこう叫んだ。


「殿!お逃げ下さい。具足も持って参りました。」


「孫五郎!お前……!」


私は兜斬をもう一振りし、孫五郎を具足ごと斬ると逃げようとする元長の首を刎ねた。振り返ると最初は二百人いた敵勢は三十人程に迄に減っていた。敗走する敵軍を眺めながら、私は高国の元に戻って香西勢の敗走を報告した。


私が香西勢に勝利を収めた頃、澄之もその生涯を終えようとしていた。

高国勢に攻められる中、『梓弓 はりて心は 強けれど 引手すくなき 身とぞなりぬる』という辞世の句を詠んだ後、波々伯部宗寅の介錯で自害した。

波々伯部宗寅も又、『長らへて 思はばいとど 憂かるべし 我が世の果ての 近き嬉しさ』という辞世の句を詠み、その句を孫の五郎宗盛に届けさせ、

自害した。


高国勢が勝利に湧く中、屋敷に放った炎が周囲の建物に燃え移っていた。

気付いた時には既に手遅れになり、炎は京の町を焼き尽くした。死傷者は千を超え、京は応仁の乱に相当する被害を被った。将軍義澄は、近江に逃れ、高国は二千の軍勢を五百人以下に減らしながらも伏見に落ち延び、私は配下の兵五百人を連れ、嵯峨城に戻った。

将軍義澄は火事の責任を私に有るとし、征伐軍を編成しようとしたが、畠山氏の動向を不安視した澄元は征伐を見送る事にした。

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