澄元
遊初軒の戦いで京都を全焼させてから三日目、細川澄元から書状が届いた。内容は『上洛をして臣従を誓えば是迄の罪を全面的に赦す。』というものだった。
私は罠ではないかと思ったが、此の儘嵯峨城に籠城した所で時期に澄元が雲霞の如き大軍を率いて、征討に来るのは火を見るよりも明らかである。そうなると撃退するのは非常に困難であり、例え撃退した所で兵糧の蓄えも心許無い今、長期間に渡り籠城を続けるのは不可能である。其の為、私は罠で無い事に己の命運を託す事にした。私は直ぐに嵯峨城を立ち、桂川を渡り、其の儘京に向かって東進した。
京へ入るや否や私は驚愕した。何と、三日前に火の海になった此の町はすっかり元通りになっているのである。私は不思議に思いつつも、御所への道を急いだ。御所へ到着すると、細川澄元に拝謁した。
「猪名殿、私は貴殿を高く評価している。其の為に貴殿の重い罪も全面的に赦したのだ。」
「寛大な処分を下さり、感謝しても仕切れません。」
「そうか、では之よりは私に忠節を誓うように。」
「………承知致しました。」
私は此処で、澄元に対し上洛して以来ずっと思っていた疑問をぶつける事にした。
「所で、何故京の町が元通りに戻っているのですか?」
「………知りたいか?」
澄元は露骨に後ろめたそうな顔をした。
「えぇ、勿論。」
「天狗がやったそうだ。それ以上は私も知らない。」
「そうですか。」
私は之以上の詮索を辞める事にした。
私は御所を出ると、京の町を見て廻った。何処を見ても三日前に起きた、火事の痕跡は全く無い。朱雀大路を通っていると地面に円が書かれている。不思議に思って眺めていると、近くを通り掛かった若い男が「武士の兄ちゃん、それ天狗が書いたんですわ。」と私に話しかけて来た。
「天狗?」
「あぁ、天狗や。昨日、爺さんが道に変なもん書いたと思うたら、何かブツブツ唱え出して、そしたらぶっ壊れてた建物が皆直って、その爺さんの方見たら霞になって消えていったんですわ。」
全て言い終わると男は喧騒の中に消えて行った。『霞となって消えた。』と聞いて、私は初陣の前夜に遭った老人を思い浮かべていた。
確かに、あの老人も天狗のように妙な術を使っていたが、もしかして昨日此処に現れたと言う老人と同一人物なのだろうか………
そんな事を考えていると日が暮れていた。私は急いで宿を取ると、夕食を食べた後、直ぐに床に就いた。
翌日、遊初軒で討死した敵将の首実検が細川政賢によって行われた。澄之の遺体は洛北の紫野に葬られた。私も之に参加し恩賞として、銭二十貫と嵯峨城を頂いた。其時、澄元は三好之長等阿波衆に対しては恩賞を多く渡したが、高国等細川一門への恩賞は出し渋った。
翌日、宿で朝食を取っている際に外が騒がしくなってきた。何かと思って、外に出ると武田大膳大夫元長の軍勢が御所に向かって進軍していた。軍勢の列は途切れる事無く何処迄も続いており、やっと終わったと思うと四半刻も過ぎていた。
其の日の正午、京を再び散策していると三好之長の部下が配下の兵を率いて、民に狼藉を働いている所を目撃した。民家に押し入り金品を略奪し、旦那を殺害して家の女房や娘を輪姦していた。
私は、高国に掛け合って三好之長の部下の狼藉を澄元に訴たえると、澄元は憤慨し、阿波に帰国すると言い出した。この事を聞いた義澄は澄元の私邸に赴き、説得の末に止めさせた。之長は、狼藉を働いた梶原某を殺害し、澄元に謝罪した。
翌日、澄元の命で赤沢長経が在京中の兵三千を率いて大和へ出陣した。大和の国人等や畠山尚順は之を聞いて、徹底抗戦の構えを見せた。
其の翌日、高国は澄元に『伊勢参りをする』と言って京を離れた。高国が京を立つ際、私に一通の書状を渡した。
「何です。之は?」
「後でゆっくり読むと良い。人目に付かない所で、ゆっくりと……」
高国はそう言い残すと東南へ去っていった。
夕方になって、澄元に大和へ後詰に向かうよう言われた。
私は直ぐに支度をして嵯峨城へと戻った。私は其処で高国から渡された書状を読んだ。すると、其処には衝撃的な文言が書いてあった。内容はこうである。
『之より伊賀で挙兵し細川澄之、三好之長等を討ち、京兆家の当主となる。働きによっては山城守護代の地位に就ける。』
と言うものだった。私は思った。高国が伊賀で挙兵した所で澄元の軍勢には到底敵わぬと。然し、別の巨大な軍勢で背後を突くと言うのであれば話は別である。そんな軍勢は、畿内中何処を見渡しても存在しない。畠山や六角でさえも、澄元に対抗するには力不足である。
然し、前将軍を擁するあの軍勢ならば十分に可能である。そして、守護代の地位は何としても手に入れたい。私は、西国から来る軍勢に全てを賭ける事にした。
其の翌日、澄元を恐怖に陥れる報告が西国より齎された。遂に、大内義興が前代未聞の大軍勢を率いて上洛戦を仕掛けて来たのである。
澄元は之を聞くと私に対して、嵯峨城の兵を率いて上洛するよう言って来たが私は嵯峨城の城門を閉ざし、澄元からの使者の首を刎ね、其の首を澄元の元に送った。
澄元は激怒し征討軍組織の為、高国と赤沢長経に召還命令を出した。高国は之を聞くと、伊賀で二千の兵を率いて挙兵し、丹波の内藤氏や摂津の国人等も之に同調した。
翌日、高国の軍勢が京に迫ると義澄は水茎岡山城へ、澄元は之長と京に放火し、甲賀へ落ち延びた。在京中の武田元長は、義澄に従い二千の兵を率いて水茎岡山城に入った。
翌日、高国が上洛を果たすと重臣等の会合により高国が新しい京兆家当主に選ばれた。
其の翌日には、私も五百の兵を率いて上洛し、高国から山城守護代に任じられた。然し、翌日には大和から引き上げてきた赤沢長経率いる三千の兵が山崎に到達し、澄元率いる二千の兵が、近江の小関越に到達した。
之を聞いた高国は京を捨て、二千の兵を率いて嵯峨城へ入った。澄元は京を占領すると、赤沢長経の軍勢と合流し、合計五千の兵で嵯峨城を囲んだ。然し、翌日の正午には大内義興が三万の兵を率いて堺に上陸したとの知らせが入った。高国は義興に降伏する旨の書状を送った。
之を聞いた澄元は陣を引き払い、瀬田の橋まで退却した。義興の軍勢は上陸の翌日に上洛を果たし、高国の軍勢と合流した。澄元は武田元長の軍勢と合流し、合計一万の兵を率いて京に迫った。澄元は如意ヶ嶽に布陣し、京都奪還の構えを見せた。




