第10章 出発
第10章 出発
模擬戦が終わったあとも、訓練場の緊張はすぐには消えなかった。
エルフたちは沈黙していた。
彼らはすでに十分すぎるものを見てしまっていた。
村の長が一歩前に出る。その視線は静かだが、そこには明確な敬意が宿っていた。
「見事な戦いだった」
称賛ではない。
感情でもない。
ただの事実。
しかしエルフにとって、それは十分だった。
彼は少し間を置き、続ける。
「ここに残ることを許そう」
短い沈黙。
「少なくとも冬の間だけでもだ」
それは軽い提案ではなかった。
シルヴァナもそれを理解していた。
だが返答は早かった。
「私は旅を続けます」
迷いのない声。
周囲のエルフたちがわずかに視線を交わす。
村長は驚いていない。ただ、考えているようだった。
「ならば急ぐな」
彼は森の方へ視線を向ける。
「外の森は危険だ」
まるで何かを“聞いている”ように、わずかに目を細める。
「出発するなら夜明けがいい」
短い間。
「今日は残れ」
シルヴァナは一瞬だけ考えた。
罠ではない。
「分かりました」
彼女は静かにうなずいた。
そのとき、訓練場の端から声が響く。
「父さん」
アリスだった。
彼女は少し離れた場所に立っていた。表情は緊張している。
「私も行っていい?」
沈黙。
返答はすぐに来た。
「駄目だ」
村長の声は先ほどよりも冷たかった。
「その話はやめろ」
*
夕方、村は予想外の雰囲気に包まれていた。
宴だった。
新しく来たエルフのための祝祭。
シルヴァナはそれを予想していなかった。
朝まであれほど規律的だった村が、今はまるで別の顔を見せている。
淡い魔法の光が家々の間に広がり、長いテーブルには料理が並び、笑い声が満ちていた。
若いエルフたちは特に賑やかだった。
酒や薬草酒を手に笑い、言い合い、楽しそうに騒いでいる。
一方で年長の者たちは静かだ。
少し離れた場所で、ゆっくりとワインを口にしていた。
シルヴァナはその光景を眺めていた。
どこか懐かしい。
前の世界の記憶が一瞬よぎる。
祝祭。
人々の声。
笑い。
——花火が見たくなるな。
そんな馬鹿げた考えが浮かぶ。
もし魔法を空に放ったら、この結界は耐えられないだろう。
彼女は小さく笑った。
それでも、その想像は不思議と温かかった。
ふと、視線が止まる。
アリスが立っていた。
輪の外。
どこにも属さない場所に。
シルヴァナは立ち上がり、近づいた。
「どうして村を出たいの?」
率直な問いだった。
アリスは一瞬だけ止まる。
そして静かに答える。
「ただ、そうしたいから」
シルヴァナは少しだけ視線を細めた。
「外は危険だ。想像以上に」
その言葉の奥で、過去の記憶が一瞬だけ揺れる。
——壊れた誰かの姿。
彼女は村の方へ目を向ける。
「ここはいい場所だ。静かで」
短い沈黙。
「ここで一生暮らすこともできる」
しかし次の瞬間、アリスの声が鋭く割り込んだ。
「私はもう“ずっとここにいる”の」
その声には、抑え込まれた感情があった。
彼女はシルヴァナを見据える。
「もう千年以上よ」
シルヴァナは一瞬言葉を失う。
千年。
百年ですら想像の外だ。
アンドレイの人生は、たった二十四年だった。
同じ場所でそれだけ生き続けるという感覚は、理解の外側にある。
彼女は静かに息を吐いた。
「……頑張って」
短い間。
「そして、自由でいて」
アリスは何も答えなかった。
シルヴァナは少しだけ彼女を見つめる。
初めて会ったとき、彼女はもっと違って見えた。
軽くて、明るくて、世界に対して開いていた。
だが今は違う。
村の中で。
彼女は少しずつ静かになり、そして——どこか遠くなっていた。




