第三章 丁稚奉公の少年は、甘いものを知らない
家を出る方法は、意外にもあっさり見つかった。というより、私が家出を計画するまでもなかった。
公爵家を訪れる商人の中に、王都で小さな商店を営む男がいたのだ。
彼の名は、ロイド。父の商売の取引相手で、以前から公爵家に出入りしているので信用できる。
私は彼に、焼き菓子の試作品を見せた。クッキー、パウンドケーキ、ジャムを挟んだ小さな焼き菓子。どれもレシピ集を参考に、エドに相談しながら改良したものだ。
ロイドは最初、全く期待していなかったが、一口食べると、目の色が変えた。
「お嬢様。これは、どこで?」
「私が作りました」
「ご冗談を」
「本当です」
「……公爵家で、菓子職人を雇われたのでは?」
「いいえ。私が作りました」
ロイドは、もう一度クッキーを食べ、そして、真剣な顔で言った。
「これを、私に売っていただけませんか」
「え?」
「王都で販売したいのです。これほど香りがよく、手軽に食べられる菓子は珍しい。きちんと作れば、きっと人気が出ます」
私は思わずミアと顔を見合わせる。
これは、チャンスだ。
私は公爵令嬢の立場を利用し、ロイドにいくつか条件を提示することにした。
製法を無断で他人に教えないこと。販売の利益を適正に分配すること。そして、私が王都で菓子店を始める際には、店舗探しと仕入れに協力してもらうこと。
ロイドはすべて了承した。
ただし、一つだけ理解できない条件があったようだ。
「お嬢様が、店を?」
「ええ」
「ご自分で?」
「そうよ」
「公爵令嬢が?」
「……それ、何回目ですか?」
ロイドは困ったように笑ったが、最終的に私の計画を応援してくれることになった。
そして、私たちがもう一人仲間にしたのが、トムという少年だった。
トムは十三歳。王都の下町にある小さな食堂で、丁稚奉公をしていた。
痩せた身体に大きすぎる服。伸び放題の黒髪。警戒心の強い灰色の瞳。
初めて会ったとき、彼は店の裏口で、捨てられたパンの耳を拾っていた。
「……何をしているの?」
私が声をかけると、少年はびくりと肩を震わせた。
「お、お貴族様…」
「それ、食べるの?」
「まだ食べられる」
少年は睨みつけてくるが、その瞳には、怒りと警戒、それから、ほんの少しの怯えがあった。
私はチクリと胸が痛んだ。
この世界にも、食べるものに困る子どもがいるのね。貴族の食卓では、食べきれないほどの料理が並んでいるというのに。
「悪くないわ」
私はそう言って、持っていた包みを差し出した。中には、焼きたてのクッキーが入っている。
「では、こちらはいかが?」
「……なんだよ、それ。毒でも入ってるんじゃないか?」
「疑うなら、私が先に食べるから見てて」
私は一枚を食べた。やっぱりおいしい。
「お嬢様、はしたのうございます」
「いいのよ、貴族じゃなくなればこんなことは珍しくもないはずよ」
少年は私の様子をじっと観察してから、そっと手を伸ばした。
クッキーを一口かじる。
その瞬間、彼の表情が変わった。
「……なんだ、これ」
「クッキーよ」
「こんなに甘いもの、食ったことねえ」
少年は、夢中でクッキーを食べた。
あっという間に三枚を平らげ、最後の一枚を手にしたまま、はっと我に返る。
「……ごめんなさい」
「何が?」
「全部、食っちまった」
「まだまだあるわよ」
私が笑うと、少年は困惑した顔をした。
その顔を見て、私は決めた。
「ねえ、トム。あなた、お菓子を作ってみない?」
「……は?」
「私、お菓子屋さんを始めようと思っているの。あなたが手伝ってくれるとうれしいのだけれど」
「俺が?」
「ええ。もちろん、ちゃんとお給金を払うわ」
トムはしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「……俺、字もろくに読めねえぞ」
「私が教えるわ」
「計算も苦手だ」
「一緒に勉強しましょう」
「失敗するかもしれねえ」
「失敗したら、次に成功すればいいのよ」
トムは、信じられないものを見るような目で私を見て、そして、小さな声で尋ねた。
「……本当に、俺でいいのか?」
「もちろん。うちのお店はね、おいしいお菓子を作る人が一番偉いの。身分なんて関係ないのよ」
その言葉に、トムは目を伏せ、しばらくして、彼は深く頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
こうして、三人目の仲間ができた。
ミアは接客と帳簿を担当し、トムは仕込みと焼き菓子の製造を手伝う。
私は商品開発と経営。
もちろん、最初からうまくいくはずもなかった。
最初のマドレーヌは真っ黒に焦げた。 最初のジャムは煮詰めすぎて飴になった。 最初のスポンジケーキは膨らまず、焼き上がりは石のようだった。
しかし、トムは失敗するたびに、真剣な顔で原因を考え、次こそはと全く諦めない。
ミアは材料の分量を丁寧に記録し、エドも公爵家の厨房で働きながら、こっそりと私たちに助言をくれた。
そして、少しずつ。私たちのお菓子は、おいしくなっていった。
あと最後に残された問題は、店を開く資金だった。
ロイドの紹介で小さな店舗を借りることはできたが、開店するための設備を整え、材料を仕入れ、看板を作るには今の蓄えだけでは足りなかった。
私は公爵家から持ち出した私物の装飾品をいくつか売り、ロイドからの前借りの資金とあわせることで、ギリギリ調達できた。豪華なドレスも、宝石も私にはもう必要ない。必要なのは、オーブンと小麦粉とバターなのだ
「お嬢様、本当に後悔なさっていませんか?」
開店準備の日、ミアが尋ねた。
私は店内を見回した。古びた木の床。小さなカウンター。壁に取りつけた棚。窓から差し込む午後の光。
決して立派ではない。けれど、ここが私の居場所だと胸を張っていえる。ここに私の未来がある。
「ええ。後悔なんてしないわ。さあ、始めましょう!」
看板に書かれた言葉は 『小さなお菓子屋さん』




