第二章 公爵令嬢、初めてのクッキーを焼く
「……お嬢様。本当に、厨房へ行かれるのですか?」
「ええ」
「公爵家のご令嬢がですか?」
「そうよ」
「ご自分で?」
「もちろん」
ミアは、訳がわからないという顔をしているが、それも無理はない。貴族令嬢が厨房に立つなど、普通では考えられないことだった。特に、マリアーナのような公爵令嬢ならなおさらだ。
彼女はこれまで、食事に完食することすらまれだったという。少しでも気に入らない料理が出れば、料理人を呼びつけ、厳しい言葉を浴びせた。
そんな令嬢が、朝から厨房に押しかけたのである。料理人たちの顔が引きつるのも当然だった。
「お嬢様、何かご用でしょうか」
料理長のエドが、慎重に言葉を選びながら尋ねた。
五十歳ほどの大柄な男性で、口ひげが立派だ。腕も太く、いかにも職人といった風貌をしている。そんな大男が腰をできる限り屈めている。
「クッキーを作りたいの」
厨房が静まり返った。
「……クッキー、でございますか?」
「ええ。小麦粉とバターと砂糖と卵はあるかしら?」
「それでしたら、菓子職人に――」
「いいえ。私が自分で作るわ」
準備を整え、レシピ集を開いて、クッキー作りを始める。
まずはバターを柔らかくし、砂糖と混ぜる。そこに卵を加え、小麦粉を混ぜて生地をまとめる。形を整えて、焼く。前世で読んだレシピとほとんど同じだった。
「お嬢様、バターをそのように潰してしまっては……」
「えっ?」
「いえ、その……」
エドが言いにくそうに視線を泳がせた。
私は手元を見た。バターは、見事に溶けかけていた。どうやら暖炉の近くで作業をしていたせいらしい。
「……問題ないわ」
私は強がった。問題しかなかった。さらに、砂糖を入れすぎた。卵を割るときに殻が入った。小麦粉を混ぜすぎて、生地は妙に固くなった。
それでも、どうにか形を整えてオーブンへ入れた。焼き上がりを待つ時間は、妙に長く感じられた。やがて、香ばしい匂いが厨房いっぱいに広がる。
エドが目を見開いた。ミアが鼻をひくつかせる。
焼き上がったクッキーは、少々不格好だった。表面にはひびが入り、形もばらばら。
しかし、黄金色に焼けた表面からは、甘く香ばしい香りが漂っている。
私は一枚を手に取り、口に運んだ。
さくり。
バターの豊かな香りが広がり、砂糖の甘みが舌の上でほどける。
「……おいしい」
前世で何度も食べた味とは違う。材料も、焼き窯も、きっと微妙に異なるのだろう。
けれど、それでも。これは間違いなく、お菓子だった。私が自分の手で作った、最初のお菓子。
「ミア、食べてみて」
「よろしいのですか?」
「もちろんよ」
ミアは恐る恐る一枚をほおばり、味わう。そして、彼女の目が丸くなった。
「……おいしい!」
厨房の料理人たちも、興味を隠しきれない様子でこちらを見ていた。
「皆さんも、どうぞ」
「では、一枚だけ……」
エドは困ったように頭を下げ、クッキーをほおばると、しばらく黙り込んだ。
「……これは」
「どう?」
「少々、形は不揃いですが……」
私は肩を落としかけた。
「香りがいいです。それに、食感が面白い。砂糖の甘みも、ちょうどよいと思います」
「お嬢様。ここまでの味はベテランの職人でもなかなか出せません」
私は顔を上げた。
「本当に?」
「ええ。もう少し焼き加減と配合を整えれば、貴族の方達にも受け入れられる見栄えになるでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸に火が灯った。
できる。私にも、できるかもしれない。
厨房を後にし、自室に戻るとミアに向き合い、考えている疑問を聞いてみた。
「ミア」
「はい?」
「この家を出るには、どうしたらいいと思う?」
ミアはクッキーを持ったまま固まった。
「……お嬢様?」
「私、貴族をやめて、自分のお店を持ちたいの」
「……」
「小さな店でいいの。焼き菓子を売って、自分で稼いだお金で、気楽に暮らしたいの」
ミアはしばらく私を見つめていたが、やがて、静かに口を開いた。
「お嬢様は……本当に、昨日とは別人のようですね」
その言葉に、胸がちくりとする。
マリアーナの記憶には、ミアとの思い出もあった。彼女は幼い頃からマリアーナに仕え、しばしば無理難題を押しつけられてきたのだ。
それでも、ずっとそばにいた。
「……今まで、迷惑かけたわね。ごめんなさい」
私が頭を下げると、ミアは目を見開いた。
「お嬢様!? お顔をお上げください!」
「あなたに、ずいぶんひどいことをしたわ。これからは改める。だから、もしよければ……私についてきてくれない?」
私は彼女をしっかりみつめて言う。
「お金持ちにはなれないかもしれない。苦労もすると思う。でも、あなたを大切にする。約束するわ」
ミアは唇を震わせ、そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……はい。もちろんです。どこまでも、お供いたします」
私は彼女の手を握った。
「ありがとう」
この世界に来てから、初めて心から安心できた気がする。
こうして、私の最初の仲間ができた。残る問題は、資金と技術と、家出の方法。それから、どうやって公爵家の目を盗むか、問題は山積みだった。
しかし、私はもう、未来を恐れているだけの少女ではなかった。私にはレシピ集がある。仲間もいる。
そして、何より、クッキーは、おいしかった。それだけで、明日が少し楽しみになった。




