第一章 目が覚めたら、悪役令嬢でした
人生には、取り返しのつかないことになったと絶望する瞬間が何度かあるかもしれない。
たとえば、大事な試験前日に寝てしまって落第を確信した瞬間。
たとえば、酔った勢いで元恋人に長文のメッセージを送信してしまったことに気がついた瞬間。
そして、たとえば。
「お前との婚約を破棄する、マリアーナ!」
王立学園のダンスパーティで婚約者から婚約破棄を宣言される瞬間。
もっとも、私はまだその瞬間に立ち会ってはない。
なぜなら、現在、私は自室のベッドの上で目覚め、天蓋を見上げている最中だからだ。
「……え?」
目が覚めたら、目に入ってきたのは知らない天蓋だった。
いや、周りを見渡せば天蓋で驚いている場合ではない。
天井から垂れ下がる薄桃色のカーテンには金糸で花の刺繍が施され、壁際には白い大理石の暖炉が鎮座している。
窓辺には繊細な彫刻が施された猫脚のテーブルが置かれ、その上には銀のティーポットと、見たこともない花が飾られた花瓶が見える。
そして、私自身が横になっているベッドは、経験したことがないくらいふかふかで、身体を沈めると全身が包み込まれるようだ。
控えめに言って、異世界。
私が住んでいた六畳一間のアパートとは、似ても似つかなかった。
「お嬢様? お目覚めになりましたか?」
扉の向こうから声がした。
入ってきたのは、紺色のメイド服を着た少女だった。年齢は私と同じくらいだろうか。栗色の髪をきちんとまとめ、心配そうにこちらを見つめている。
少女を見た瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
大量の記憶が、濁流のように脳に押し寄せてくる。
王都の名門貴族、イーストローズ公爵家。その長女、マリアーナ・イーストローズ。十七歳。
婚約者は、この国の第一王子、アルフリード
それがこの世界の私。
「うそ……でしょ?」
震える手で顔を覆った。
知っている。その名前も、その家名も、すべて知っている。
なぜなら、それらは、私は昨日まで読んでいた小説の世界そのものだからだ。
タイトルは『満天の星空の下で君を抱きしめて』。
王立学園を舞台に、平民出身の男爵令嬢リリアンが、第一王子アルフリードをはじめとする魅力的な貴公子たちと恋を育む、王道の恋愛ファンタジー。
そして私は、その物語に登場する悪役令嬢、マリアーナ・イーストローズ。
傲慢で、嫉妬深く、プライドばかりが高い令嬢。婚約者であるアルフリード王子が、天真爛漫なリリアンに惹かれていくことが許せず、あの手この手で彼女を陥れようとする。
そして、学園最後のダンスパーティで、マリアーナはリリアンを階段から突き落とし、彼女に大けがを負わせたと告発される。
マリアーナは突き落としたりしていない。
しかし、これまでの彼女の悪評とリリアンが流した涙、そしてアルフリードの証言によって、彼女が無実をいくら訴えても誰も信じてはくれなかった。
その結果、婚約破棄。そして、公爵家の名誉は失墜し、マリアーナは社交界から追放されてしまう。その後の彼女について、物語の中ではほとんど語られていない。
ただ、最後に一文添えられただけ。
『かつて学園で栄華を誇った公爵令嬢は、誰にも顧みられることなく、北の辺境でその短い生涯を終えた』
「いやー、いやー、いやっ!いやっ!」
私はベッドから飛び起きた。
「無理! 絶対に無理!」
短い生涯って何よ!
私は前世というか、体感としてはほんの一日前まで、毎日満員電車に揺られながら通勤し、しがない事務員として働いていた。
唯一の楽しみは休日にお気に入りのカフェでケーキを食べることだった。
それが27歳でなぜか死んでしまったの?かしら。
恋人はいなかったし、貯金もたいしてなかったけど。
それでも、明日も明後日も、その先も、何十年と真面目に生きていくつもりだったのに!
それがどうして、転生して、十七歳で断罪され、人生を終えることになってしまうことになるのだろうか……。
しかも、身に覚えのない罪で。
「お嬢様!? どうなさいました!」
「ミア! 鏡! 鏡を持ってきて!」
メイドの少女――ミアが慌てて姿見を運んできた。
そこに映っていたのは、息を呑むほど美しい少女だった。
艶やかな金髪。宝石のような青い瞳。すっと通った鼻筋に、形のよい唇。絵画の中から抜け出してきたような美少女。
しかし、そんな美しい顔にはとても不似合いな絶望的な表情が浮かんでいた。
「……この美少女が断罪されるの?」
もったいない。いや、そうじゃない。問題は顔ではない。このまま原作どおりに進めば、私を待っているのは破滅だ。
最後は婚約者に罵られ、貴族たちに嘲笑され、家族にも見放されてしまう。そんな人生は絶対に御免だ。
私は生きたい。できることなら、平穏に。贅沢を言うなら、おいしいものを食べて、好きなことをして、笑って暮らしたい。
そして、そう考えた瞬間だった。ふと、自分の手元に違和感を覚えた。右手に、何かを握っている。
分厚い本だ。
表紙には、色鮮やかなケーキやタルトの絵が描かれている。その中央に、金色の文字でタイトルが記されていた。
『菓子職人が教える、とっておきのスイートレシピ集』
「……何これ?」
ミアが首を傾げた。
「お嬢様がお目覚めになられときには、抱きしめておられましたよ」
「私が?」
「はい。大切そうに抱えて寝ていらっしゃったようです」
記憶を探ってみる。
マリアーナは読書が好きだった。ただし、彼女が好んで読んでいたのは政治書や歴史書、貴族の教養書ばかり。菓子のレシピ集を愛読していたという記憶はない。それなのに、なぜかこの本だけは手になじんだ。
ページを開とそこには、ふわふわのスポンジケーキ、艶やかなチョコレートタルト、果物をたっぷり使ったパイ、繊細な砂糖菓子など、さまざまな菓子の作り方が記されていた。材料も、分量も、手順も、驚くほど詳細だ。
私はページをめくった。そして、あるレシピに目を留める。
『失敗知らずの黄金色のバタークッキー』
材料を見た瞬間、私は息を呑んだ。小麦粉。バター。砂糖。卵。
ある。全部、ある。この世界の記憶の中に材料の記憶がある。しかも、作り方は前世で何度も見たものとよく似ている。
この世界にも、お菓子は存在する。しかし、マリアーナの記憶をたどる限り、庶民が日常的に食べる甘味はほとんどなかった。
砂糖は高価で、焼き菓子は主に貴族や裕福な商人のもの。王都には菓子職人がいるものの、技術は一部の工房に集中している。
つまり、このレシピ集には、きっと価値がある。
私は本をぎゅっと抱きしめた。
そして、この世界で目覚めてから初めて、自分の置かれた状況に希望を見いだした。
「……そうよ!」
ミアが不思議そうに私を見る。
「お嬢様?」
「貴族なんてやめしまえばいいのよ」
「はい?」
「私、貴族をやめるわ」
婚約破棄されるくらいなら、婚約なんてこちらから願い下げなのよ!
断罪を怯えながら待つくらいなら、断罪される前に逃げればいいのよ。
私は、世間知らずで、料理もしたことがない公爵令嬢だ。けれど、こことは別の世界で27年分生きて得た知識がある。
そして、このお菓子のレシピ集もある。
それなら、スイーツを作って、売って、稼いで、自分の人生は、自分のこの手で切り開けばいいじゃない?
「ミア」
「は、はい!」
「あなた、お菓子は好き?」
ミアは目をぱちくりさせた。
「ええと……好きですけれど」
「よし。では、私と一緒にお菓子屋さんを始めましょう!」
「……はい?」
その日、悪役令嬢の人生計画は盛大に焼き上がった。
ただし、本人はまだ知らない。
その計画が、王国の菓子文化をひっくり返し、やがて王族すら巻き込む大騒動へと発展することを。
そして何より。
この世界で最も恐ろしい存在は、怒れる公爵令嬢でも、冷酷な第一王子でもない。
甘いものに目がない者たちだということを!




