第三話「アスクレピオス」
白い戦艦の格納庫は、血の匂いがした。
いや、本当は血ではない。
焼けた金属。焦げた配線。漏れた冷却剤。
それらが混ざった、戦場の匂いだった。
ガンダム・オルフェウスは、片腕を失ったまま固定アームに拘束されていた。
白かった装甲は黒く焼け、胸部の青い装甲には細かな亀裂が走っている。
そのコックピットハッチが開く。
「降りろ」
下から整備兵の男が叫んだ。
ユウリ・アマギは、しばらく動けなかった。
操縦桿を握ったまま、指が固まっていた。
「おい、聞こえてるのか!」
「……聞こえてます」
声がかすれた。
シートベルトを外そうとして、手が震えていることに気づく。
何度も金具を掴み損ねた。
やっとのことで外し、梯子を伝って下へ降りる。
床に足がついた瞬間、膝が崩れた。
「うっ……」
吐いた。
胃の中にはほとんど何もなかった。
それでも体は、何かを外へ出そうとしていた。
整備兵たちが黙る。
誰も笑わなかった。
誰も慰めなかった。
それが逆に、ユウリには怖かった。
自分がたった今、何をしてきたのか。
この人たちは知っているのだ。
「医療班を呼べ」
鋭い声がした。
ユウリが顔を上げると、軍服姿の女性が立っていた。
黒髪を後ろで束ね、左頬に小さな古傷がある。
若く見えるが、その目は冷たく乾いていた。
「レイナ・クラウゼン艦長……」
整備兵が姿勢を正す。
彼女はユウリを見下ろした。
「ユウリ・アマギ。十五歳。セレスティア7居住区出身。父は民間工場勤務、母は七年前に病死。間違いないか」
「……なんで知ってるんですか」
「調べた」
「僕を?」
「君と、その機体の関係をだ」
レイナ艦長は、ガンダム・オルフェウスを見上げた。
「君は偶然乗った。だが、偶然起動したわけではない」
ユウリは眉をひそめる。
「どういう意味ですか」
「その機体は、誰にでも動かせるものではない」
「知らないよ、そんなこと……!」
ユウリは立ち上がろうとして、またふらついた。
レイナが手を差し出す。
ユウリはその手を見た。
白い手袋。軍人の手。
掴みたくなかった。
だが、体は限界だった。
彼はその手を掴んだ。
「……ミナは?」
「幼なじみの少女か」
「一緒に避難してたんです。セレスティア7に……!」
「生存者は回収している。全員ではない」
その言葉に、ユウリの胸が凍った。
「全員ではないって……」
「コロニー外壁の損壊が激しい。現在も救助中だ」
「助けに行かなきゃ」
ユウリは歩き出そうとした。
だが、兵士二人が前に立ちはだかった。
「どいてください」
「君は今、保護対象だ」
「どいてって言ってるだろ!」
ユウリは叫んだ。
格納庫の全員が、彼を見た。
「ミナがまだいるかもしれないんだ! 父さんだって、工場にいた! なのに、なんで僕だけここにいるんだよ!」
レイナは表情を変えなかった。
「君がガンダムを動かしたからだ」
静かな一言だった。
けれど、ユウリの胸に深く刺さった。
「ガンダムを動かした者は、もうただの民間人ではいられない」
「勝手に決めるなよ……」
「戦場では、誰かが決める。生きる者と死ぬ者を」
「そんなの、おかしいだろ」
「おかしい世界だから、戦争がある」
レイナの声には、怒りも悲しみもなかった。
だからこそ、ユウリは怖かった。
この人は、もう何かを諦めている。
何度も何度も、大切なものを失って、それでも立っている人間の目だった。
その時、格納庫に警報が鳴り響いた。
『第三区画にて暴動発生。避難民の一部が拘束区域を突破』
「避難民……?」
ユウリは顔を上げた。
レイナが通信機に触れる。
「状況は」
『民間人が艦内誘導に従いません! 家族を探すと叫んで――』
通信の向こうで悲鳴が上がった。
『待て! その区画は危険だ!』
ユウリは走り出した。
「ユウリ!」
レイナの声を振り切る。
通路は白く、冷たかった。
壁には非常灯が赤く点滅している。
角を曲がると、避難民たちが兵士と揉み合っていた。
「返して!」
女性が泣き叫ぶ。
「息子がまだコロニーにいるの! 出して!」
「危険です! 今外に出れば――」
「うるさい! 軍が来たからこうなったんでしょう!」
誰かが兵士を突き飛ばした。
小さな子供が泣いている。
老人が床に座り込んでいる。
誰もが何かを失っていた。
その中に、ユウリは見覚えのある赤いリボンを見つけた。
「ミナ!」
少女が振り返った。
ミナ・カシワギだった。
煤だらけの顔。
破れた制服。
けれど、生きていた。
「ユウリ……?」
次の瞬間、ミナは走ってきた。
ユウリの胸に飛び込む。
「生きてた……生きてたんだ……!」
「ミナ……よかった……」
ユウリはその場で泣きそうになった。
だが、ミナはすぐに顔を上げた。
「おじさんは?」
ユウリの父のことだった。
「……まだ、わからない」
ミナの表情が曇る。
「工場区画、爆発したって……」
ユウリの呼吸が止まった。
「嘘だ」
「私も見てない。でも、みんなそう言ってて……」
「嘘だ!」
ユウリはミナの肩を掴んだ。
強すぎたのか、ミナが顔を歪める。
すぐに手を離した。
「ごめん……」
その時、艦内放送が切り替わった。
『全乗員に告ぐ。前方宙域に敵艦隊反応。独立同盟ノクス所属艦と推定』
空気が凍る。
『第一戦闘配備。繰り返す、第一戦闘配備』
避難民たちがざわめいた。
「また来たの……?」
「もう嫌だ……」
「ここも沈むのか?」
ミナがユウリの袖を掴む。
「ユウリ、逃げよう」
「どこへ?」
「どこでもいい。この船も危ないよ」
どこでもいい。
その言葉が、ユウリにはひどく悲しく聞こえた。
セレスティア7は、彼らの家だった。
学校があり、商店街があり、夏祭りの準備をしていた広場があった。
でも今は、どこでもいいと言うしかない。
帰る場所が、もうないから。
通信モニターが壁に点灯する。
そこに映ったのは、銀髪の男だった。
片目に黒い眼帯。
冷たい顔。
ノクス軍司令官、カイゼル・ヴァルハルト。
『連邦特務艦アスクレピオスに告ぐ』
その声は低く、艦内全体に響いた。
『ガンダム・オルフェウスを引き渡せ。要求はそれだけだ』
避難民たちの視線が、一斉にユウリへ向いた。
誰かが呟く。
「あの子が……」
「あの機体に乗ってた子か」
「だから敵が追ってくるのか?」
ユウリは息を呑んだ。
違う。
僕のせいじゃない。
そう言いたかった。
けれど、声が出なかった。
カイゼルの通信は続く。
『我々は民間人への攻撃を望まない。ただし、連邦が兵器を盾に市民を隠すならば、話は別だ』
避難民の間に怒りが広がる。
「渡せば助かるのか?」
「だったら渡してよ!」
「そのガンダムのせいで、俺たちは……!」
ミナがユウリの前に立った。
「違う! ユウリはみんなを守ろうとしただけです!」
「守った? じゃあ俺の妻はどこだ!」
男が叫んだ。
ミナが言葉を失う。
ユウリは拳を握った。
胸の奥が熱い。
でも、それは怒りではなかった。
痛みだった。
自分だけが責められているわけじゃない。
ここにいる全員が、何かを誰かのせいにしなければ立っていられないのだ。
レイナ艦長が通路の奥から現れた。
「通信を切れ」
兵士が操作する。
カイゼルの姿が消えた。
「全避難民を第六シェルターへ誘導。抵抗する者は拘束しても構わない」
「艦長!」
ユウリは叫んだ。
「あの男は、ガンダムを渡せって言ってるんですよね」
「そうだ」
「渡せば、みんな助かるんですか」
「助からない」
レイナは即答した。
「なぜですか」
「敵が欲しがる兵器を渡した後、こちらを生かしておく理由がない」
ユウリは黙った。
「戦争ではな、ユウリ。相手の言葉を信じるより、相手が何を得るかを見ろ」
「……じゃあ、戦うしかないんですか」
「そうだ」
「僕が?」
レイナは、わずかに目を伏せた。
その沈黙が答えだった。
ミナが叫ぶ。
「だめ! ユウリはパイロットじゃない!」
「だが、オルフェウスは彼にしか動かせない」
「そんなの関係ない! さっきまで普通に暮らしてたんですよ!」
「普通はもう終わった」
レイナの声が低くなる。
「セレスティア7が襲撃された時点で、君たちの日常は終わった」
残酷な言葉だった。
でも、嘘ではなかった。
ユウリはミナの手をそっと外した。
「ユウリ……?」
「行く」
「何言ってるの」
「ここで行かなかったら、また誰か死ぬ」
「行っても死ぬかもしれない!」
「うん」
ユウリは笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「怖いよ。めちゃくちゃ怖い」
「だったら……!」
「でも、ミナが死ぬほうがもっと怖い」
ミナの目から涙が溢れた。
「そんなこと言わないでよ……」
「ごめん」
ユウリは背を向けた。
格納庫へ戻る道は、さっきよりも長く感じた。
ガンダム・オルフェウスは修理途中だった。
左腕はまだない。装甲も焼けたまま。
それでも、胸の青い光だけは静かに灯っていた。
整備兵が怒鳴る。
「無茶だ! 左腕なしで出す気か!」
レイナが言う。
「右腕とスラスターが生きていれば戦える」
「艦長、本気ですか!」
「本気でなければ、民間人の少年を戦場になど出さん」
ユウリはコックピットへ乗り込んだ。
シートに座る。
震えは止まらない。
『パイロット認証。ユウリ・アマギ』
機械の声が告げる。
『精神状態、不安定』
「知ってるよ」
『戦闘継続は推奨されません』
「じゃあ、代わってくれよ」
返事はない。
ユウリは操縦桿を握った。
「ガンダムってさ……本当は、誰かを守るためのものなんだろ」
モニターに、発進シークエンスが表示される。
『カタパルト接続』
『進路クリア』
『ガンダム・オルフェウス、発進位置へ』
レイナ艦長の声が入る。
『ユウリ。敵の狙いは君だ。無理に撃破する必要はない。時間を稼げ』
「時間を稼いだら?」
『アスクレピオスは民間人を乗せて離脱する』
「僕は?」
通信の向こうで、わずかな沈黙。
『回収する』
「本当に?」
『艦長命令だ』
ユウリは少しだけ息を吐いた。
「わかりました」
カタパルトが開く。
宇宙が見えた。
黒い敵艦。
無数のモビルスーツ。
そしてその中央に、一機だけ赤い機体がいた。
片目のようなセンサーを持つ、鋭いシルエットのモビルスーツ。
カイゼル・ヴァルハルト専用機――
グリムゲルデ・ノクス。
『出てきたか、少年』
カイゼルの声が届く。
『君に恨みはない』
「じゃあ、帰ってください」
『それはできない』
「なら、僕もどきません」
『君は兵士ではない』
「知ってます」
『なぜ戦う』
ユウリは一瞬、言葉に詰まった。
正義のため。
平和のため。
そんな大きなことは言えない。
彼はただ、見た。
背後のアスクレピオス。
そこにいるミナ。
避難民たち。
泣いている子供たち。
「僕の後ろに、まだ生きてる人がいるから」
ガンダム・オルフェウスの瞳が光る。
片腕の白い巨人が、宇宙へ飛び出した。
敵のモビルスーツ隊が一斉に散開する。
ビームが雨のように降る。
ユウリは歯を食いしばった。
逃げない。
逃げられない。
白い機体は、黒い宇宙に一本の線を描いた。
その姿は、英雄には見えなかった。
救世主にも見えなかった。
ただ、壊れかけの少年が、壊れかけの機体で、壊れかけの世界に抗っているだけだった。
そしてその日、戦場にいた誰もが知ることになる。
ガンダム・オルフェウスは、完成された兵器ではない。
乗る者の心を削りながら、奇跡に似た力を引き出す――
あまりにも残酷な白い棺だということを。
あらすじ




