第一幕 第四章 怒りの行方
その夜、宿屋「黒猫の亭」を包んでいたのは、いつも以上に濁った空気だった。
一階の酒場では、荒くれ者の男たちが安酒を煽り、下卑た笑い声を上げている。ロザリーはいつものように、煤けたバケツを抱えて階段の隅で汚れを拭き取っていた。
ふと、女将バーバラの部屋から漏れ聞こえてきた話し声に、彼女の指が止まった。
そこには、この街のしがない役人と、酒に酔ったバーバラがいた。
「……それにしてもバーバラ、あの火事は『出来すぎ』だったな。おかげでこの宿屋の借金も帳消し、あんたの手元にはあの娘というタダ働きの労働力まで転がり込んできた」
「しっ、声が大きいよ! ……まあ、あの家が燃えてくれたおかげで、私の懐が温まったのは確かだけどね。あんな立派な家、分不相応だったんだよ」
ドクン、と。
ロザリーの心臓が、耳元で大きく鳴った。
視界が、火事の夜と同じオレンジ色に染まっていくような錯覚に陥る。
(燃えてくれたおかげ……?)
(分不相応……?)
母さんの優しい微笑みも、父さんの誇り高い仕事も、すべてが「バーバラの借金を返すため」に焼かれたというのか。
偶然の不幸だと思い込もうとしていた悲劇が、醜い「欲」によって仕組まれたものだったかもしれないという疑念。それが、彼女の中で冷たい氷から、煮えたぎる溶岩へと変わった。
「……っ!」
声にならない叫びが喉を突き上げる。
いつもなら、ここで震えて隠れるはずだった。けれど、今のロザリーを支配していたのは、自分を愛してくれた人々への冒涜を許せないという、烈火のごとき怒りだった。
ロザリーは立ち上がり、ふらふらと地下の酒蔵へと向かった。
そこには、バーバラが最も大切にしている「黒猫の亭」の命綱――高価なエールやワインの樽が並んでいる。この酒が、男たちの理性を奪い、バーバラの財布を肥やしている。
(この酒が、あの人たちの命と引き換えに手に入れたものなら……)
ロザリーは、床に転がっていた重い金槌を両手で持ち上げた。
腕が震える。恐怖ではない。あまりにも巨大な怒りに、体が追いつかないのだ。
「……返して」
最初のひと振りは、樽の栓を直撃した。
パキィン、と乾いた音が響き、中から黄金色の液体が勢いよく噴き出す。
「返してよ! 私の家を、お父さんを、お母さんを!」
狂ったように金槌を振るう。二つ目、三つ目の樽が裂け、酒蔵の床は瞬く間に酒の海へと変わっていった。
鼻を突くアルコールの匂い。それは、ロザリーにとってはバーバラの醜い欲望の匂いそのものだった。
床を流れる酒を見つめながら、ロザリーは激しく息を乱した。
やっていることは、ただの子供の腹いせかもしれない。明日になれば、もっとひどい折檻が待っているだろう。けれど、止めることはできなかった。
(私は、もう『物』じゃない)
酒を流し、バーバラの「富」を泥水に変えることで、ロザリーは初めて、奪われ続けた人生に対して「NO」を突きつけたのだ。
「何してるんだい、この……この、疫病神がああ!!」
背後から、地鳴りのようなバーバラの怒鳴り声が響く。
だが、振り向いたロザリーの瞳には、以前のような怯えはなかった。煤と涙で汚れた顔に、凍てつくような、そしてどこか誇らしげな微笑みが浮かんでいた。
それは、絶望の底で少女が「怒り」という名の武器を手に入れた、決別の夜だった。
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