25: 僕だけ季節が過ぎゆく
[N/A]
本浄瑠璃が居なくなってから、また一人で勉強するだけの生活を始めた。
彼女が行方をくらませたこと、それから僕が暫く学校を休んでいたこと、それらを無関係と思う人間はいなかった。数日間クラスメイトが騒いだ後に、また元通りの日々が帰ってきた。皆は本浄瑠璃が精神的に追い詰められ、転校していったのだと考えていた。誰一人として本浄が本当に<法則>によって消えたとは思っていなかったようだ。あの日本浄のことを傷つけたやつですら、そうだった。本浄瑠璃を心の底から汚い存在だと思っていた人間は、このクラスにはいなかったのだ。そのことがこんな形で明かされた。
それから何年か経って、僕は彼女のいない高校を卒業し、何度も何度も同じ季節を繰り返した。相変わらず寝ても覚めても勉強の本ばかり開いていたし、シャーペンばかり握っていた。これまで以上にそれだけに打ち込む僕を心配する<世界>の声もあったが、すぐに僕を見放していった。それすら気にせず僕は生きていた。
何も考えないことと、何か一つのことだけを考え続けることは、ひょっとしたらほとんど同じではないか、そう思うことがある。どちらもスイッチの切り替えをせず、一つの状態を続けるだけでいい。0と1は同じなんだ。同じはずなんだ。なのに、どうして前者はとても楽で、後者はとても苦しいのだろう。僕は本浄瑠璃だけのことを考え続けていた。彼女と約束をしたような気がする。世界に手を伸ばすと誓ったような気がする。けれども僕は未だに孤独だ。僕のどうしようもないくらいひとりぽっちの自己は<世界>に到底手を伸ばせていない。あの日たまたま交差したふたつの<個人>が、奇跡のように重なり合った孤独と孤独が、その美しさが忘れられない。だからそれに拘泥したまんまだ。
ある日、通学途中、電車の広告に一冊の詩集の紹介が載っていることに気が付いた。表紙の絵には見覚えがあった。彼女があの日撮影して、その後、僕が父に手渡したものの一つだ。意外なことに、電車の中のカップルがその広告を指さして「この写真、いいよね」なんてことを話していた。
そう言えば本浄とゴッホの話をしたような気がする。ゴッホには到底なれなかったかもしれないけれど、本浄の写真は、彼女が消えた後に少しだけみんなに認められたみたいだ。ちなみにゴッホは生前売れなくて苦しんだわけじゃなくて、死ぬまでの10年しか画家をやっていなかっただけらしい。画家がたった10年で地位を築けるはずがない、きっとゴッホは売れないから死んだんじゃなくて、売れる前に死んだだけなのだろう、と思う。君もそうなのかもしれないよ、なんて呟いてみた。彼女はきっとそれを否定する。「無理ですよ。わたしは誰よりもこの世界に見放されていたのですから」そう言って諦めながら、薄幸そうな笑みを浮かべるのだろう。
本浄瑠璃は親族の間で行方不明という扱いになっているらしい。
もちろん僕は彼女について色んな人間に根掘り葉掘り問いただされた。それでも本当のことは何一つ言わなかった。言ったところで本浄の親族はきっと煙たがるだろうし、そんな風にして騒ぎ立てることをきっと彼女は望んじゃいない。本当は誰にも言わず消えようとしていた彼女なのだから、わざわざ騒ぎ立てることに意味はないのだろう。彼女の望んだとおり、僕は彼女のことを、初めからこの世界にいなかったものとして扱おうとした。
[N/A]
それでも七年の時が過ぎ、ついに彼女の失踪宣告がなされたとき、僕はふいに本浄が消えた場所に足を運んだ。本土の最南端、楽園みたいで、世界の果てまであと少しの岬へ。
そこは相変わらず暑くて、たくさんの亜熱帯植物が茂っていて、陽光を跳ね返す海はとても美しくて、けれどもやっぱり僕にとっての楽園には見えなかった。辺りを見回す。遊歩道はソテツに囲まれており、緑に囲まれた神社には男女が多く集まっている。縁結びのパワースポットなのだそうだ。まえに来たときはそんなこと気が付かなかった。
そうして、本浄瑠璃と最期に過ごしたまさにその地点にたどり着く。
確かにここからの眺めは綺麗だし、写真を撮るにも適した場所だ。だからそこに人がいても何ら不思議はないのだろう。そんなことを考えていたのだけれど、近づいていくうちにそれが赤の他人ではないことに気が付き始める。
「やあ、少年くん。久しぶりだね」
本浄と僕が最後に写真を撮った場所、そこに駄菓子屋の少女がいた。いや、もう少女という歳ではないだろうか。
彼女は当然のようにそこで佇んでいる。まるで僕が今日ここに来るのを知っていたかのようだった。どうやってこの場所を知ったのだろう。そもそもこの人は、本浄瑠璃が消えた、という事自体知らないはずだ。有り得ないのに気付けばそこにいる。相変わらず座敷童のようだ。すっかり見た目は大人になってしまっているけれど、それでも僕らは小さな頃からの知り合いのように思える。
「皮肉なものだよね」と彼女が言う。
「なにが」僕は問いかける。
「君は、本浄瑠璃が死んだとは思っていないんでしょ? 消えてしまったのは、死とは絶対に違う。そう考えている」
「そうだよ」僕は首を縦に振る。
やっぱり、彼女がどうして僕たちにまつわる話を知っていたのかはわからない。けれど、今更そんなことのつじつま合わせをする必要はないだろう。
「けれどもそれってさ、事故が起こった場所で死者に花を手向けるのと、見た目は何も変わらないじゃないか」
彼女は僕を指さして言った。僕は手に向日葵を持っていた。彼女と僕の日々を花で表すならば、それはきっと向日葵だろうと考えていた。
「知らないの?」と僕は返す。
「なにが」彼女が問いかける。
「ほんとうにたいせつなものは、目には見えないんだよ」と僕は言った。
彼女はそれを聞いて微笑んだ。
「つまり、君と私が見ている表面上の行為は、本質ではないってことなんだね」
僕は頷く。
それから彼女はお菓子を僕と同じ場所に置いて、その横に見たことのないような色をしたジュースを置いた。辺鄙な場所にある変な駄菓子屋にしか売っていないような、知らないメーカーの怪しい代物。
「『十円のスナック菓子を食べながら、わたしも世界の終わりを眺めていたいです。そして本当にわたし自身もお終いになりそうなとき、見たこともないような色をしたジュースを買って飲みつつ、もう夏も終わるなあとか思いながら哀愁に浸るの。どうですか』
あの子はそう言っていたね」
駄菓子屋の彼女は寂し気に微笑んだ。
「そういえば、そんなこともあったね」
「まあ、世界の方は終わっていないんだけどね、もうしばらく終わりそうにないや」と彼女が言った。
「本浄瑠璃の方も終わっていないよ」と僕は言った。
お菓子と飲み物をそこに置いたところで、彼女の用は済んだみたいだ。
「じゃあ、また」駄菓子屋の彼女が右手をあげてそう言った。
僕がそれに何も返さないでいると、彼女は不思議そうな顔をして「どうしたの」と訊く。
「たぶん、もう会うことはないんだよ」そう僕は彼女に告げた。何となくそんな気がした。
「そっか」彼女は驚きも訝しみもしなかった。代わりに優しく微笑んだ。
「じゃあ、これは冥途の土産だ」
そう言って手に持っていたビニール袋を手渡す。
安い駄菓子が三つ入っていた。多分帰りにでも食べるつもりだったのだろう。
「今昔の別れに送る品が60円か」僕は苦笑した。
「大丈夫だよ、三途の川だって六銭で渡れるんだし。私は駄菓子で渡ってきたんだからさ」そう言って彼女も笑った。
袋の中から一つだけ取り出す。梅の味がするとても小さなジャム状のお菓子。
「これ、まだ残ってたんだ。作ってる人が引退したから、もうないのかと思っていた」僕はそう言いながら封を切った。
「ああ、これは別の会社から発売されたものだよ。似て非なるものなんだ」
ジャムを舐める。酸っぱくなったかな、と思ったが、本物だって同じぐらい酸っぱかったような気もする。
もうあの頃の味とは比べようがないのだ。少し寂しい気持ちになった。
「やっぱり、変わらないものなんて存在しないのかな」と僕はつぶやく。
「どうだろう。パッケージと味が変わってしまったということは、そういう事なのかもしれない」
「でも、同じものを作ろうとして、それを今も売り続けてるってことは、元あったそれを守っているのと同じだ」
「だとしたら、懐かしさは守られようとしているわけだ」
「でも、君は歳をとってしまったね」
「じゃあ、やっぱりこの世は無常なのかもね」
「でも、君はあの日と変わらない笑い方をする」
「どっちなんだよ」再び彼女が数年前と同じ微笑みをうかべた。
「まあ、とにかく、僕はもう君に会わないと思うんだ。きっと、次に会うのは世界が終わる時なんだろうけれど、僕はそれまで生きている自信がないからね」
「そうかい。それなら仕方ないな。世界の終わりは私一人で行くよ。じゃあね、キョーダイ」
それから本当に、彼女とは二度と会わなかった。




