26: ふいにあの時の猫を思い出す
[N/A]
そうしてまた季節は目まぐるしく移ろう。
何の因果だろうか、あれほど普通に就職をすると息巻いていた僕は研究者になっていた。
かつてあれだけ普通の人生を求め、何かを生み出そうとすることを忌避していたというのに、僕は自分でも気づかぬうち、当然であるかのようにその道を選んでいた。
価値あるものを生み出すことを教えてくれた、誰かさんのせいだ。まったく、僕の傍からいなくなっても、彼女は僕の人生を動かしてくる。
数年ほど色んな場所を転々としたのちに、自分の通った大学に戻り、気付けば自分の研究室を持っていた。けれどもどうやら僕の研究は無駄だと馬鹿にされ、一部からは笑いものになっているようだ。世間からの評価は決して高くない。研究資金は年々減っている。僕が世の中の役に立てようと思っていないのだから当然なのだろう。学生の意欲もどんどん下がっている。僕が彼らに心からの誠意をこめて指導していないのだから当然なのだろう。けれども僕は、そんなことを意にも介さずに生きていた。
歳をとるというのは、やっぱり恐ろしい事だった。彼女に誓ったいくつかのことを果たせないまま時が過ぎた。初めのうちに感じていた焦燥感も、やがて消えていった。そして一番怖いのは、自分がひとりの<個人>ですらなくなってしまうことだった。加えて僕は未だに<世界>に手を伸ばせていない。溶け込めていない。自分自身が一人で静かに消えていくような感覚がした。けれども、いつしかそれすらどうでもいいと思い始めた。そんなある日だった。
「ほら、日向野先生。こんなところで寝ていちゃダメじゃないですか」
窓から差し込む光が少し暖かいある日、とつぜん誰かに肩を揺さぶられた。寝ぼけ眼で振り返ると、学生の一人が面倒そうな表情で肩を叩いた。
どうやら僕は、つい机の上で寝てしまっていたようだ。今日はこの後、新しい学生との面談があるらしい。僕はもちろんそれに参加せねばならず、彼女はそのために起こしに来てくれたようだ。
「あなたの研究室、年々人気が落ちているらしいですよ。第一希望で入ろうとする人間、この世で私が最後になっちゃったんじゃないですか」
「それは笑えない冗談だ」と言いながら僕は笑った。多分、本当の意味で焦ってはいなかった。たまたまここにいて、たまたま彼女のような学生と共に研究しているだけなのだ。きっと、学生のやる気が無くても、この研究室を失っても、僕は一人で孤独に同じことをやっているのだと思う。
しかし、この学生には一目置いていた。僕なんかの研究室を第一希望にしたことももちろん理由のひとつなのだけれど、加えて彼女の気ままな性格だ。時には何かに取り憑かれたように研究室に閉じこもるし、かと思ったら一か月以上ふらっとどこかへ消えてしまうこともある。流石に心配になった僕がどうしたのかと連絡を入れると、「研究のこと、忘れてました」なんて返ってくる。それで次の日には何もなかったかのようにもどってくる。久しぶりに来る彼女はやっぱり、他の学生よりもよく研究するし、頭もよく回る。
僕は大きく伸びをしたあと、「すまないね、わざわざ」と彼女に言った。けれども彼女は変わらず不満そうな顔をしていた。
「このままだと、わたしが卒業した後、大変ですよ。人が減ると精神的にも辛いですし、ここに入るお金も減っちゃうと思います。それでいいんですか、本当に」
加えてこんな風に、指導教官である僕を諭すような口ぶりになることもある。しかもそれが少しばかり説得力があるので、僕を唸らせる。
「確かにね。僕も孤独では寂しくて困るよ」
言い終えて、口から出まかせかもしれないな、と思った。心からそんなことを思っていないことは、この学生にも伝わってしまったようだ。それは彼女の表情からはっきりとわかった。
「じゃあ、それなのに、どうしてそんなふうなんですか。私、先生は他者を求めているように見えて、その実みずからすすんで独りを目指しているように見えるんですけど」
彼女は疑いの眼差しを向ける。
「そう見えるのかい」と僕は返す。
「そう見えます。あなたの他者との関わりは、いつも空虚であるように見えるんです」
やはり彼女はとても鋭い。
「そうだね、確かにそうだけど。口では偉そうなことを言っておいて、なのに今もまだ孤独を抜け出せていない。彼女には約束したのに、もう孤独をやめるって」
つい、彼女なんていう代名詞で話し始めてしまった。この学生は何も知らないのに。間違えたな、と思っていたが、学生はそのまま何も気にせず話を続けた。
「どうしてなんですか。あなたの周りには、少なくない人間がいるはずです。それなのに、孤独を選ぶんですか。そんなのって、少しおかしいです」
客観的に見たらそれが真実だろう。けれども違うのだ、と僕は思う。彼女も、今まで僕に気を掛けてくれた大勢と同じなのだろうか。一瞬だけ心配して、けれどもすぐに知らないふりをする、そんな人々と。
「子供の頃からずっと思っていたんだ。誰かのためだと思っていたことが、ふとした拍子に自分のためであると気づかされる。それが嫌になって、やがて人と関わるのをやめた」
何歳になっても偉い人はいつも言うのだ。『自分のためではなく、誰かのために生きるべきだ』なんてことを。そしてそれがどうしようもなく真理であるように思えるからこそ、そんな自分自身が嫌になっていった。
「そんな僕だからさ、きっと誰かのために生きようと思っても無駄なんだと思うよ。そんな気持ちじゃ誰も救えない。だからいっそのこと、関わらなければいい。そう思っていたらこんなに時間が経っていた」
我ながら子供みたいな言い草だと思った。けれどもそれはどうしようもなく事実なのだ。
「あなたは自分自身が誰かのために生きていないという事を知っていて、だから他者と関わる必要性を感じていないんですね」
僕は頷く。
「ここで考えていることだってそうだ。きっと僕が時間をかけたことは必ず無駄に終わる。成功したとしても、誰の役にも立たない。わかったところで、救われる人間は誰一人としていないだろうね、今のところは。僕は誰も救うことはできないよ」
「私もあなたの研究、付き合ってるんですけど。あなたのいうその『無駄な』研究を」
そうだったね、と僕は苦笑した。けれどもそれさえ良い事ではないように思える。彼女ほど頭の回る人間を、僕のエゴのような研究につき合わせるのは、マイナスにしかならないのではないか、そういう疑念を抱かずにはいられない。
「<法則>についての研究は、世間からしたら余計なお世話とさえ言われている。時折しか起こらない現象で、しかも要らないものが消えるだけなら、もうそのままでいいんじゃないか、何かを証明することには何の価値もないんじゃないか、なんて声がマジョリティだ。そのことは君だって知っているだろう?」
「……けれどもいつかは役に立つんです。数学者が発見した数式がその時点で社会の役に立ちますか? その後何十年、何百年と経ったのちに、少しずつ科学、人間社会に役立てられていくんです。そういうものです」
つまり、役に立つかわからない仕組みの理解でさえ、将来の変化に繋がる可能性がある。彼女はそう言っている。
「だとしてもそれはきっと、僕が死んだずっと後だ。それに何より、結局自分自身が自己満足だと思っている時点で、僕は駄目なんだよ」
「自己満足……ですか」
彼女は呆れたような言い方をする。それなのに、決してこちらを見捨ててはいないような目をしている。やはり不思議な子だ、と思った。
「先生の孤独の理由、少しだけわかりました。けれども……私には、あなたの中の何かが根本的に違うような、そんな気がするんです」
「根本的に違う?」
「そうです。あなたの考え方です。人を救えないと苦しんでいるところ。自己満足のためのコミュニケーションを忌み嫌っているところ。あなたの言うそれらは間違ってはいませんが……やっぱりそれだけが真実だとしたら、悲しすぎます」
学生は一つ息を吐いて、それから何かをずっと考えていた。きっと、僕にかける言葉を選んでいるのだと思う。彼女をじっと見ていると、目尻に少しだけ涙を浮かべていることに気付いた。どうして彼女はそこまでして考えているのだろう。僕のために自分の時間や感情を分け与えるのはどうしてなのだろう。彼女のそれは僕が生涯得られなかった、相手を救うための自己犠牲なのだろうか。
この子は一体、僕に何を伝えたいのだろう。
それから彼女は後ろを向いて目元を拭い、小さく深呼吸をして肩を上下させ、もう一度こちらを向いて口を開いた。
「人を救いたいと思うのはとても素晴らしい事ですけれど、人を救えると思うのはとても愚かなことです。私たちは人の痛みなんてわからないんですから、絶対にわからないんですから」
だから、あまり自分を責めないでください。学生はそう言った。その瞳はあまりにも穏やかで優しい。
けれど、だったらどうすればいいのかと思う。彼女が言っているそれはつまり、人間の本質的な孤独を露わにしているだけなのではないだろうか。
「それなら、人と関わることはやっぱり間違いなんじゃないのか。人の痛みがわからないなら、尚更だ」
彼女は首を横に振る。
「それでも人と関わって良いんですよ」
「人を救えると思ってはいけないのに? 自分の満足のために誰かを求めることを、認めてしまうの」
他者の理解が不可能であるというのなら、本当の意味でも繋がれるはずがない、僕はそう考えていた。
それなのに、彼女はゆっくりと頷いた。
「それが自分の為であると思っていいんです。私たちは自分自身のために、他人を想って構わないんです。みんな、そうしているんですよ」
「どうして」と僕は訊く。
「だって、私達は結局、他人がいないと幸せになれないんですから。あなたにとって一番幸せだった時を思い返してみてください」
僕にとって一番色づいていた時間、そんなのは考えなくてもわかることだった。その日々は確かに、他のどんな時期よりも一人の他者と深く関わっていた。その時、自分でも彼女に言っていたじゃないか。本浄のおかげで自分の価値を見つけられたって。そして本浄も、僕のおかげでひとつの価値を自分に見出せたと言っていた。僕らは助け合って生きていた。そうすることで、見ている景色がほんの少しだけ色づいた。
「君の言う通り、僕にとって一番の日々も、他者と関わった日々だった。あの時、僕と本浄は『自分が自分として生きるため』に互いと関わっていた」
そうでしょう、と学生が頷く。
「けれど、相手の痛みがわからないことも、自分の満足のために行動してしまうことも、人間にとっての欠陥のようなものだ。それでも僕たちは他者と関わって良いのかい。その果てに待っているのは、独りよがりゆえの虚しさだけではないのかい」
違いますと彼女ははっきり否定した。
「自分ではそれをコントロールできませんけれど……それでも確かに、相手を救える瞬間があるんです。あなたが自分の満足のために起こした行動が、誰かの道しるべになることがきっとあります。偶然なのかもしれませんが、それは今のあなたでもやっていることなんです。そうでなければ、この研究室にいる人たちは皆、あなたの元から完全に離れてしまうはずです」
「……うん、そうだね」
「そういう偶然が、奇跡みたいな価値が生まれるから、私たちは他者と関わることを赦されるんです」
この子が必死に考えて、言葉を選んで、僕に語り掛けている。僕はそこで何となく悟った。僕のためだと思っていたその葛藤や涙は、元を正せば彼女自身のための涙だったのだろう。
「思いやりの本質が自己満足でも構いません。それが本当は相手のためじゃないとしても良いんです。
……副産物としての優しさでも、誰かを幸せにできるんですよ」
そう言って、ずっと僕のために言葉を紡ぎ続けてきた彼女が、やっと表情を緩めた。
一つの前向きな諦めをすることで、僕たちはやっと他者に一歩踏み出すことができる。それは僕が生まれてからずっと考え続けてきたことの答えだった。
「大切なのは、『相手の痛みは本当の意味では理解できないこと』、それをはっきりと自覚していることです。そうしていれば、きっと私たちは繋がることができます。……たとえ、言葉さえ伝わらないとしても」
他者の完全な理解なんてできない。この事実はとても悲しい事だ。
けれど、それを認めることは、むしろ相手との繋がりを確かなものにする。相手のため、と思い込むことからの脱却。この子は今、それを僕に求めている。
「……なるほどね、僕はそんな簡単なことに気付けないぐらい、愚かな人間だったってことだ」
「大丈夫ですよ」彼女は優しく微笑む。「みんな、すごく苦しんで、やっとの思いでそのことに気付くんです。なのに、しばらくしたらまた忘れちゃうんです。そしてまた気付いての繰り返し。自分って、どうしようもないですよね。人生って、ままならないですよね」
「そうだね。そして、僕は人生がそうであることを、初めから知っていたような気もするよ」
「はい。私も同じです。それに、今日、もう一度気付けました」
僕がこれまで見ようとしていなかっただけで、それは初めから自明であったように思える。本浄には悪いけれど、やっぱり僕はひどいあまのじゃくだったようだ。




