24: 僕にはまだ親がいる
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首都圏に住んでいる父に出会うため、新幹線に乗った。夏休みの間、何日もかけて少しずつ南に行ったことが思い出された。今回はたった五時間でそれよりも長い距離を進んでいる。逃避行をしていた僕たちが永遠みたいな時間をかけて進んだ距離は、新幹線の四時間にも満たないのだ。
降りた先でしばらく待っていると、辺りを見回している男性が目に映った。僕はそれが自分の父であるとすぐに気づいた。母が昔言っていた通り、顔立ちが結構僕に似ていたからだ。後ろ姿に向かって僕が声をかける。その人は振り向いて、それから嬉しさと申し訳なさが混じったような表情をした。それだけで彼が本当に駄目な人間だったわけではないことを察し、僕は少し安堵した。
「初めまして」と僕は言う。父は少し躊躇した後に微笑んで返事をした。
「久しぶり。と言っても、初めましてみたいなものなのかな」
そこで、父は僕が生まれた後に家を出たことを初めて知った。
それから近くの喫茶店に入った。好きに注文してくれ、と言われ、僕はアイスティーとチーズケーキを頼んだ。父はコーヒーを頼んでいた。
「どこから話せば良いだろうか」
注文した品が全て揃ったところで、父が話し始める。
「知っているだろう。世界で最初に<法則>が発動した日のことくらいは」
知っているよ、と僕は答える。
「僕のお祖父ちゃんがあの絵を完成させると同時に、隣で落書きをしていた子供の書いていた落書きが消えた。その子供があなたのことだったんでしょ」
「そう、あの日は完成間近で、マスコミが大勢駆けつけていたからな。その瞬間を多くの人が目撃して、それから世界中で少しずつ似たような話が取り上げられるようになって、そして親父は芸術家をやめた」
やはり僕の知っている通りのことだった。けれども本人から言われると、それがどこか他人事ではないように感じる。もちろん、家族にまつわる話なので元々他人事ではないのだけれど。
訊きたいことがあるから来たんだろう。そう父は言った。
一番知りたいことから尋ねるのはよした方がいい、そう思った僕は、まず当り障りのない質問から始めようとした。
「今は、何の仕事をしているの」
「文字を書く仕事だよ」と言って彼は壁を指差した。入り口付近の窓ガラスに、詩集の広告が張られていた。僕はその名前に見覚えがあった。いつだったか、本浄瑠璃との電車の中で同じ広告を見た気がする。まさかそれが自分の父の書いたものであるとは。まったく見当もつかなかった。
「やっぱり、お祖父ちゃんと同じ絵を選ばなかったことには理由があるの」
僕はそう尋ねた。その質問をしたのは、僕自身がそうだったからからだ。ピアノを選んだのは、祖父と比較されてしまうからだった。だから、きっと父も同じなのだろうと思っていた。けれども彼の答えは微妙に違っていた。
「親父が芸術から足を洗ったのは、俺のせいだと思ったんだ。ある日、親父が絵をやめた日のことを知った。幼い頃のことだったから、俺は忘れていたんだ。忘れて『親父のような芸術家になるんだ』って息巻いていた。だから、それを思い出してからは荒れたよ。親父から仕事を奪った俺は、絵を描く資格なんてないと思った。だから絵を描かないようにしていたし、アトリエには近付かないようにしていた」
それでも何かを創りたいという思いがあったのだと父は言った。それは血が争えなかったからなのだろうか。
「けれどもう絵は書かない、そう決めていた。だから言葉にした。絵を取り上げられて、たまたまそこに残っていたものを使っただけだったんだが、どうも俺には合っていたようだ」
とは言っても、親父には遠く及ばないけどな。そう言って少しばかり自嘲する。
「今の仕事の経緯はこんなところだ」
そう言って一つ目の質問が終わった。僕はチーズケーキに口をつけ、それからストローでアイスティーを飲む。そうして時間を置いた後、本当に訊きたかったことに話題を移した。
「どうして僕と母を置いて出ていったの」
その質問は覚悟していただろうけれど、それでも父は反射的に辛そうな表情をした。
僕は父が答え始めるのをゆっくりと待った。
父親は小さく深呼吸をして、それから意を決したように話し始めた。
「……昔、親父と同じことが起こったんだ。俺が売れ始めたころ、ちょうど最初の詩集を作ったときに、消えたんだよ。俺にとって、家族にとって大切なものがさ。……誰も気が付かなかった。一番近くにいたあの人さえ気が付かなかった。けれど、俺にははっきりとわかったんだ。もしかしたらそれは人によっては大切なものとは言えないようなものかもしれない……けれど、俺にとっては代わりのきかないものだった」
その日を心の底から後悔しているような顔を見せる。
「俺も親父と同じように、これ以上失いたくないと思った。……けど、それなのに自分の創る芸術も失いたくないと思ってしまったんだ。親父とは違って俺はまだ世間に認められていなかった。それなのにこんなところで終わってしまうなんて、そんなことできなかった」
「だから、家族から遠く離れた場所に行ったってことなんだね」と僕は訊く。
身も蓋もない言い方をするならば、父は妻と息子を見捨てたのだ。そして、それに対する罪悪感を抱き続けている。
「ああ、何の解決にもなっていなかったのにな、気付けなかったんだ。あの頃の俺は若くて青くて、馬鹿だった」
いや、きっと今も青くて馬鹿なんだろうな。そう言って父はコーヒーを啜り、息をついた。
それから父はしばらく僕の顔を伺っていた。見捨てられたことについて、僕が怒っているんじゃないかと考えているのかもしれない。確かに何か思うところはあるのだけれど、それは彼に対する怒りではないような気がした。だから僕は事実だけをただ淡々と受け止めた。
「僕の質問はこれくらいだよ。それより、あなたこそ訊きたいことがあるんじゃないの」
僕がなんの感情も示さなかったことが意外だったのだろうか。父は呆気に取られた表情をした後、それを誤魔化すようにカップに口をつけた。けれどもやっぱり戸惑っているようで、結局はそんな疑問を口にし始めた。
「こんな言い方をするのは失礼なのかもしれないが……俺は今日、贖罪のつもりでここに来たんだ。君に何と罵られようが構わない、そういう思いでいた。けれども君は不満を示すそぶりさえ見せない」
「確かに、普通の息子や娘だったら憤るだろうね。けれど僕はさ、そういう感情に少し疎いみたいなんだ。それに、そもそも怒る権利なんてないよ。遠くにいるあなたならまだしも、近くにいる母さんにさえ、何の感情もぶつけることができていない」
それを聞いて、父は複雑そうな表情を見せる。それから少し間をおいて、何かを思い出した顔をした。
「ああ、訊きたいことが一つだけあった。……あの人は今、幸せなのか」
言われて考えた。僕の母は今、幸せなのだろうか。何一つ文句も言わず食事を作り、仕事に行き、祖父の面倒まで見ている。おまけに息子とのコミュニケーションもほとんどとらない。まるで機械のような人間だ。今まで僕はそう思っていた。
「不幸じゃないけれど、幸せでもないよ。それが良い状態なのかどうかは、わからない」
けれども、もしかすると、それは母が不器用なだけなのかもしれない。今の僕はそんな気がしている。
「でも、いつか幸せになれるんじゃないかな」
両親揃って不器用なんだなと思い、それは僕も同じかと付け加えた。
それで話は終わると思っていたのだけれど、父は名残惜しそうな素振りをみせた。恐らく彼は会話の糸口を探していた。少しでも話せるように、どんなとりとめもない言葉でもいいから口に出そうと思っているみたいだ。その気持ちは僕にもよくわかった。つい最近、そんな経験をしたような気がする。詩人なんだったら言葉の一つや二つでもすぐに浮かんで欲しいものだが、なんてことを考えて、心の中で笑ってしまった。
「なあ、どうしてこんな法則が存在しているのか、どうして俺の親父が最初だったのか、わかるか?」
思い悩んだ後、父が口に出した質問がそれだった。僕らの直接の話題ではないけれど、確かに大事な話だ。
「僕は知らないよ。わかったらそれなりに世紀の発見だしね。……けれども、少しくらいは考えたよ」
「聞かせてくれないか」と父が言う。
それから僕は自分の仮説について説明し始めた。
祖父の芸術が偉大であったことが関係している、とは思ったのだけれども、それでも人類の歴史上で一番であるとは到底思えない。かなり譲歩しても、この上から100番目に入るかどうか、という程度だ。だからそれが直接関係しているとはどうしても思えなかった。
もしかしたらこの<法則>は、量子力学でいう観測問題的のような側面があるのかもしれない。観測されない限りは何もないかのようにふるまうのだけれど、ふとした拍子に気付いた場合、それからはまるっきり違った挙動を取る。たまたま父や僕の祖父がそれに初めて気付いて、同時に世界中が観測したことによって、世界の法則の挙動がはっきりと目に見える形で変わったのかもしれない。
もちろん、観測問題というもの自体、正解かどうかとても怪しい概念だ。だからこんな予想が正解であるとはまったく思えないけれど。
「驚いた。君は俺の知らないうちに、こんなに賢くなっていたのか」
話を聞き終えた後、父は驚いた表情を見せ、「俺も親父も、勉強はからっきしだったからな」と呟く。
「勉強が少しできるだけだよ。逆に、あなたやお祖父ちゃんみたいな才能はない」
勉強だって立派な才能じゃないか、なんて言葉をかけて僕を励ます。その姿は少しだけ本当の父親に見えた。一瞬だけだったし、僕は本当の父親の姿をほとんど知らないのだけれど。
それから僕は父に付き合い、とりとめのない質問を互いに投げかけ続けた。けれどもやはり物事には終わるタイミングがあって、僕たち二人はふいにそれを予感した。
「なあ……虫のいい話だとはわかっているが、一つだけお願いをしてもいいか」
店を離れる直前になって、父がそう言った。僕は頷いた。
「君と会った証明が一つ欲しい。どんなものでも構わない。きっと俺は、この先も君と繋がることはできない。そんな権利もない。だから、一つの拠り所のようなものを貰えないだろうか」
拠り所というよりは、お守りのようなものかもしれない。けれども父はそんな微かなものを求めている。僕は逡巡し、それから鞄を開けた。
「じゃあ、これだけ受け取ってくれないかな」
そう言って僕は写真を手渡した。本浄瑠璃のカメラに入っていた写真、その中で一番<綺麗>だった写真だ。
綺麗な少女だな、と父は言った。
「表情の細部まではわからないけれど、それでも彼女がどれだけ幸せだったのかははっきりとわかる」
父はそう言った。幸せだった、という言葉に僕は少し満足した。
「あなた一人の拠り所になんてしなくていいよ。いい写真だから、皆に見てもらわないと」
綺麗な写真を見てもらうこと、それはきっと彼女も望んだことだろう。そこに映った自分自身も見られることは望んでいないだろうけど。
「そうだな、芸術は見てもらうためにある」
そう言って父は笑った。僕が生まれてから初めて見た、父の笑った顔だった。
そんなことがあって、僕はほんの少しだけ家族との関係性を取り戻した。
家族を大切な存在だと思っていた本浄と一緒にいるうち、無意識のうちに僕の心境も変わっていたのだろうか。
それを失った彼女を憐れむわけではないが、僕も言葉くらいは交わしておこうと思った。そしてやっと、それが達成された。何かが劇的に変わるというわけではないが、それでいいんだろう。
色々なことが収束して、ひとつの形をぼんやりと作り始めていた。
けれどもまだ、確かな姿というものは全然見えてこなかった。




