21: 夏、南の果て、最後の日
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そうして夏休み最終日がやってきた。暑さも世界も終わらないけれど、その日は確かに、僕らにとっての最終日だった。
僕は本浄瑠璃と一緒に歩いた。
彼女と歩くのは楽しかった。このままずっと歩き続ければいいと思った。けれどそんなはずはない。僕たちはずっとずっと南の方まで来ているのだ。この物語ももうじき終わる。全てが終わった後、僕はどうなってしまうのだろう。本浄瑠璃はどうなってしまうのだろう。考えたくもなかったし、考える必要もないように思えた。僕が予想しなくても、真実はすぐそばまで来ている。
それなのに、今日も本浄は嬉しそうな顔で歩いている。それを見て僕も笑った。細い足が嘘みたいに軽やかなリズムを刻んでいく。なんだか彼女の足音すら大切なもののように思えた。
そして、僕たちはその終着点へとたどり着いた。
『本土最南端』
そう書かれている。つまり、僕たちが決めたゴールだった。
僕らはその周りを散歩した。
「とても良い場所ですね」と本浄は言う。僕は頷く。
そこは確かにとても素敵な場所で、緑や海が一望出来て、神社や遊歩道や展望台があった。
遊歩道は亜熱帯植物が多く、南国のような気分にも浸ることができた。
『もう少しで世界の果てに手が届く』
本土の最南端は、そんなキャッチコピーが書かれていた。
けれどもやっぱり、僕たちの考えていたような救いはなかった。確かにあと少しで届きそうだけれど、やっぱり楽園でも、世界の果てでもなかった。
「綺麗だけど、僕たちが夢見ていた世界とは少し違う気がするな」
「ええ、とっても綺麗ですが、楽園なのかはわかりませんね」
やっぱり、楽園なんて無かったんでしょうか、と彼女が呟く。
「きっとあると思うよ。たまたまここではなかっただけで。もう少しだけ先に行けば、きっと世界の果てにたどり着くよ」
そうだ。ここは本土の最南端でしかない。きっとこの南にはいくつか島があるだろうし、もっと遠い海の向こうにも別の国の島があるだろう。そこはもっと赤道に近いから、もっと暖かいはずだ。だからきっとそっちに楽園がある。
今から南の島に行くのはどうだろう、と僕は言った。
「楽園って、どこかの南の島にあるようなイメージがあるじゃないか。少なくとも僕はそんな気がするんだ、だから」
空回りしていることが、自分でもはっきりとわかった。これは本浄の望んでいるものではないことが理解できた。それでも僕は、必死に、希望にならない希望を彼女に提示し続けた。
「いいんです」と彼女は首を横に振った。岬の端から、さらに南の方向を見つめながら、そこへ行くことをはっきりと否定した。
僕は怯えていた。彼女との旅路がここでおしまいになってしまうことを恐れていた。だからここよりさらに南に行く、なんてことを言いだしたのだ。
「もう十分です。わたしのわがままに付き合ってくれてありがとうございます」
唐突に彼女が別れの言葉を告げた。
僕は何か彼女に言葉を返そうとした。
けれどもそれより前に、彼女が首を横に振る。
「わたし達は放っておけば、いつまでも南に行けます。でも、そうしていても意味がないんです。それじゃ永遠に終わらないですから」
きっと彼女は、これ以上南へ行っても仕方が無い事を知っていたのだ。今日を最後にすべきことを知っていたのだ。
幾ら南に進んでも、更に南に行くことができる。この星はそういう形になっているのだ。そうして気付いたら一周して元の場所へ戻ってくる。本当の意味での果てなんて存在しないようにできているんだ。永遠なんてない。楽園なんてない。少なくとも、僕たちがこんな共依存の逃避行をしている限りは。
「きっと、世界の果てというものは、楽園というものは、本当は存在しないからこそ価値があったのです。それはたぶんただの虚像ですが、わたし達はそれを追いかけることで、立ち止まらずに歩き続けることができます。だからそれは幸せな虚像なのです。それが虚像であると、本当の意味で理解してしまうような行動は、やってはならないのです」
本浄がそう言った。その意味が理解できてしまうことが辛かった。
「だから、わたし達の旅はここで終わりです」
彼女は旅を終わらせようとしている。
「そんな言い方をするってことはさ、本浄は自分で言っていた<世界で一番きれいな写真>を撮る目途が立ったの」
「そうではないですけれど、それと似たようなものです。わかっちゃったんです、日向野くん。いま思い返してみるとどうしてなのかは分かりませんが、わたしはずっと、一番きれいなものは一枚の写真だと思っていました。けど、違うんです」
「じゃあ、何なの。君にとって本当に綺麗なものは、何だったの」
ここに来ても僕は全くわからなかった。彼女もここは楽園ではないと言っていた。世界の果てではないという言葉に頷いていた。だとすれば、彼女は何を見つけたのだろう。
本浄がこちらに一歩近づく。気付けば唇が僕の耳元まで接近していた。そのままゆっくりと彼女が口を開く。
『------------------------------------------------------』
彼女がそれを言い終えた後、僕は長い時間をかけてその言葉の意味を咀嚼した。どういうことかは初めからわかっていたのだけれど、それでも長い長い時間をかけてそれを飲み込んだ。それから小さく深呼吸をし、「なるほどね」と返答をした。僕の声は震えていたような気もするし、ため息交じりだったような気もするし、怒っていたような気もした。
「ね? そういうことなんです」と彼女が微笑む。
「本浄は、ときどき賢いね。ときどき」
僕の口からこれが出てきたのはきっと、一つの諦めの合図だったのだろう。彼女のその発言を認めたという証拠だった。
「そうでしょう。誉め言葉として受け取っておきますね」
彼女はもしかすると、初めから気付いていたのかもしれない。ずっと目を背けていただけで、自分が消えるためのトリガーを理解していたのかもしれない。少なくとも無意識下ではわかっていたのだろう。彼女はもう、最も綺麗なものをその手に収めているんだ。それは写真じゃないけれど、確かに彼女が手に入れているものだった。
「ということはさ、もう君はいつ消えることもできるわけだ。自分自身のさじ加減一つで、醜い自分の存在をこの世から消し去ることができる」
そうです、と本浄が答える。
つまり、これが本浄瑠璃との最後なのだ。
もう少しだけお話ししましょう、と言った。
「ねえ、日向野くん。きっとわたしが消えてしまうのは、わたしが要らない存在だから、なんでしょうね。日向野くんには何度も言ってきましたけど、わたしは自分自身にこれ以上期待ができません。そのうえ、要らない存在であることが、世界からも認められちゃったんです。だから誰にも言わずに消えていくつもりでした。存在だけじゃなくて、皆の記憶からもわたしを消し去ってしまうつもりだったんですよ」
「要らない存在だというのなら、僕も同じだ。誰とも干渉しないし、自分自身にも大して期待をしていない」
「けれど、日向野くんはやっぱりわたしとは違います。この世界に生れ落ちた何かしらの意味があるんだと思います。だから、わたしだけが消えなければならないんだと思います。きっと、日向野くんにとって、わたしは足枷でしかないのでしょうから。わたしに付き合わせて、あなたの大切な時間を沢山使ってしまって、ごめんなさい」
「悲しいことを言わないでくれ。僕と本浄は一緒だって言ったじゃないか」
「今は一緒かもしれません。似たもの同士と言えるでしょう。けれど、日向野くん自身が思っているよりも、日向野くんは素敵な人間だと思います。だから、これからは幸せに過ごしてほしいと思います。わたしと違って、あなたはそうできる人です」
「<世界>が勝手に決めた尺度で、僕たちの幸福なんて決めつけないで欲しい、そう言ったのは本浄の方だろう」
そうですね、と彼女が微笑む。切なげな表情。
「わたしはこんな態度しか取れないから、<世界>に見放されてしまったんでしょうね。それは自分でもはっきりとわかります」
僕は何も答えなかった。
「それなのに、わたし、欲張っちゃったんです。わたしにとっての最後の日に、お別れする最後の瞬間に、一瞬だけでも何か価値を生み出したいと強く願いました。そしてそれはこんな歪んた形で叶ってしまったんです。それが<法則>でした。……ねえ、日向野くん。わたしのこの数か月は、どんな意味があったのだと思いますか」
「わからないよ」と僕は返す。口から出たそれは正直な気持ちだったような気もするし、真っ赤な嘘だったような気もする。それすらもわからなかった。
「わたしはわかります。きっと、この世界が美しいという事を示したかったんです。光輝く星空も、夏空の下の向日葵も、懐かしさを感じる駄菓子屋も。わたしがこれまで忌み嫌っていた町でさえ、観覧車の上から見れば、とても綺麗なものに思えました。きっと、そういうことを知るためだったんです」
僕は何も言えなかった。彼女の挙げたそれらの景色は、僕も一緒に見た景色だったから。そしてそれを僕も美しいと思ったからだ。今もそう思っている。
「世の中は沢山の辛いことやどうしようもないしがらみで溢れていて、それはもちろんわたし自身もそうで、けれど、そんなどうしようもない世界なのに、空は澄んでいます。とても長い時間がかかったけれど、青くどこまでも広がる空を綺麗だと思えるようになったことを、私は本当に心から嬉しく思います。そしてそれは、全て日向野くんのおかげなんです」
「やめてくれよ」
「この世界からさようならをする直前にしか、この世界を好きになることができなかったんですよ、わたし」
「もういいよ」
「不器用ですよね、けど、それでもいいんです。そんな綺麗な世界に、ほんの少しの間でも居られたことに、すごく感謝しているんです」
そしてそれは、日向野くんのおかげでもあります。
「だから、君にだけは最後までわがままを言ってしまいます。
――どうか、君だけはわたしのことを忘れないでください。
ずっと覚えていて、なんて大それたことは言いません。けれど、ふとした拍子に思い出してくれたら嬉しいです。
教室で誰かに勉強を教えるとき。一眼レフで星空を写したとき。女の子と二人でさびれたラーメン屋に行った時。駄菓子屋のベンチを見かけたとき。
そういう時に、同じようなことがあったな、って頭の片隅に思い浮かべてくれたら、それで十分です。
もう少しだけ欲を言えば、それが何か君にとっての利益となれば、わたしはこれ以上なく幸せです。
ちっぽけかもしれませんが、この世界にわたしがいたことの、たったひとつの意味になると思います」
彼女を見届けると言いながら、僕は心のどこかで、彼女が救われる方法を探していた。きっとこのままじゃ、彼女は満たされないままに消えてしまうのだろうと危惧していた。そして、今の今までそう思っていた。
けれど、違うのだ。
彼女は既に救われていた。そのことを今、僕に教えてくれているのだ。
それなのに僕は、ずっと未練のような感情を抱き続けている。いつか彼女に言った言葉を思い出した。
『誰かを大切にしようとしてもさ、ふとした拍子に、それが自分のためにやっている行為なんだなって思うんだ』
結局僕は、そんな思いを抱えたままだったのだろうか。彼女を最後まで見守るという行為は、自分が救われるための行為だったのだろうか。
僕は認めなければならなかった。彼女が消えていくことを、赦さなければならなかった。
彼女の考えは肯定しないと言った。けれども、彼女の思いは肯定しなければならない。覚悟や、優しさや、世界への愛を、僕も愛さなければならない。




