22: 短い旅の終わり、長い長い旅の始まり
息を吐いた。もう一度深呼吸をした。彼女はゆっくりと待っていてくれた。
「これはもう君にとって価値のない言葉かもしれない。けれどこれだけは言わせて欲しい」
「なんでしょうか」
「この数ヶ月間、僕は初めて<世界>から見放されている自分に、なにか意味のようなものを感じることができた。それは君のおかげなんだ。君が生み出した価値なんだよ、きっと」
僕は本浄瑠璃の生き方が好きだった。不幸で悲しくてどうしようもない人生だけど、けれども僕にはどこか尊いものに見えた。
「君の見る世界が好きだ。君がどれだけ要らない子だと言われようと、世界から汚いと烙印を押されようと、それでも綺麗な景色を綺麗だと言える君のことを、僕は心から尊敬していた」
「とてもありがたいです。でも、そんなこと言ってくれるの、日向野くんだけですよ?」
そう言って彼女は微笑む。それはそれは嬉しそうに。
「だから僕に教えて欲しい。僕はこれからどうすればいい。君の居なくなった後、僕はどんなふうに生きていけばいい。わかるようでわからないんだ」
「さっき言ったとおりです。今の日向野くんならきっと、<世界>に手を伸ばすことができるのだと思います。だって、こんなに醜いわたし達でさえ、ふとした拍子にその美しさに気が付くことができたんですよ?」
彼女は空を見て、自然を見て、海を見た。それから少し遠くで歩いている老人を見て、ランニングをしている男性を見て、ベビーカーを押している夫婦を見た。
「だから、もっとこの<世界>のことを愛して欲しいです。そうすれば気付ける美しさがあると思います」
「けれども、僕らが世界の美しさに気付けたのは、むしろ逆の理由かもしれないよ。<世界>から見放され、一番遠い場所で傷つけられたからこそ、美しさに気付けたのかもしれない」
そうかもしれませんね、と本浄は笑った。
「だとすれば、これまでわたしたちが見てきたのは、辛い中で見える美しさです。けれどもわたしは、幸せな中で見える美しさもあると思います。今のわたしの願いは、それを知ることです。けれどもそれはもう叶いません。だから、それを見つけて下さい。わたしの代わりに、あなたが」
「むしろ、幸せな中で見える醜い世界もあるかもしれない」
僕は最後まであまのじゃくのようなことを言っていた。
「構いませんよ」と彼女は言った。
「それならそれで安心できます。だって、わたし達のような孤独な存在にとっては、周りは怖くて醜くて汚いものだらけです。けれど、幸せなあの人たちにも、ちゃんと醜くて汚いものがあったんだって、そう思えるなら。それはそれで必要なことなのだと思います」
そこでやっと僕は彼女の言葉を受け入れた。もしかすると、僕はもう少しだけ彼女と話していたかっただけなのかもしれない。最後の会話は、そのためのあまのじゃくな言葉遊びにすぎないのかもしれない。けれどもそれは先ほどまでの空虚な先延ばしと違う。最後に彼女のことを少しでも焼き付けておこうとする、そんな一つの前向きな諦めだ。
「それなら、僕はこれから先少しでも他者と交わろうと思う。世界の一部になろうと思う。たとえそれが失敗に終わっても、その先に楽園は待っていないとしても。それでも走り続けるよ。君の言う、本当に大切なもののために」
根差した孤独はきっと永遠に拭えないだろうけれど、一本の糸ぐらいなら届くはずだ。誰かと結ぶことができるはずだ。その先でやっぱり孤独の方が美しいと感じたとしても、きっと遅くはない。何も知らないよりも知っておいた方がいいだろう。それが彼女の望んだことならなおさらだ。
「そうですね。その先に楽園があるかどうかなんて、きっと関係ないのだと思います。これまでもわたし達はそうしてきました」
楽園が無いことなんて半分はわかりきっていたけれど、僕らにとって、楽園を目指したこの数日間はとても大切なものだった。僕はこれから、それを再び行うのだ。<世界>に手を伸ばしたその先に、本当の楽園や幸福や美しさがあると信じることで。
「しかし、やっぱり美しさがあると信じるのは違和感があるな、だって僕らは今、一つの美しさの到達点にいるようなものなのだから」
本浄は「確かにそうですね」と笑ったうえで、「でもやっぱり、ここが終わりではないのだと思います」と続けた。
「孤独を知り、孤独ではないことも知る。そうすることで、初めてわかるものがあるのではないでしょうか」
「さっき君が言った、『辛い中で見える美しさ』と、『幸せな中で見える美しさ』の両方、ということかな。じゃあきっと、僕は世界の美しさの半分しか知らないんだろうね」
「はい、わたしもです。そしてわたし達は、『辛い中で見える醜さ』と『幸せな中で見える醜さ』も、半分しか知ることができていません」
「けれど、その半分は、君が教えてくれたんだ。だから、ありがとう」
きっとまだまだ言いたいことはあって、僕のこんな気休めじゃ彼女の本質的な孤独や悲しみを拭うことなんて到底できないのだろう。
けれども彼女は優しく言葉を紡いだ。
「だとしたら、とても嬉しいです。最後の数ヶ月間だけは、わたしに価値があったんですね」
「ああ、綺麗な世界を綺麗だと思えた、そんな君のおかげでわかったんだ。だから、最後に残すのは綺麗な世界だけじゃ足りない。汚くて醜い心しか持っていないけれど、それを綺麗だと思えた君の姿も一緒に残そう」
「わかりました。けれどもわたしだけじゃなくて、日向野くんも一緒です」
「どうして」と応える。
「言ったじゃないですか。それらすべてをわたしに気付かせてくれたのが、あなただからです」
そうして僕らはカメラを用意する。最後の準備をしていた。彼女自身が消えるための準備はそれはそれは悲しくて、けれども僕はやっとそれを眺めることができるようになった。
「そういえば、わたし、自分がこれまで何を失ってきたかがわかったんです」
準備の途中で彼女は口を開き、そんなことを言った。
「綺麗な写真を撮るたび、これまでわたしが失っていたものは、何なのか。きっと、身体を消す前に消えているのは、身体の中にある何かなんだろう、ということは明らかでした。そこまではずっと目星がついていたんですが、肝心のそれが何なのか、それがやっとわかりました」
それは感情ですと本浄は言った。
「どうしてそのことに気付いたの」と僕は問いかけた。
ひとつ、それなりに大事な感情が失われていることに気付いたんです。そう彼女は答えた。
「だって、男の子がこれだけ優しくしてくれたんです。これまでずっと孤独だったわたしの手を取って、閉ざされたセカイで一緒に踊ってくれたんです」
普通だったら、恋愛感情を抱かないはずがないじゃないですか、と彼女が笑った。
「それは残念だ、そうであってくれれば嬉しかったのに」
「本当ですか」
「本当だよ」
僕はわかりやすい嘘をついた。きっと彼女はそのことに気付いていたと思う。僕が本浄に抱いていた感情も、恋愛感情ではないことは明らかだった。抱いていたのは、もっと……一つの共感か、あるいは羨望、極端なことを言えば彼女への信奉のようなものだったのだと思う。諦めや絶望の淵に立たされて、今にも消え入りそうなのに、それでもなお美しい彼女。そんな彼女が好きだった。根差したその感情はきっと、異性であるかどうかなんて、関係がなかった。
「わたしはむしろ良かったと思います。あなたに対する恋愛感情が失われてしまったこと」
「どうして」と僕は訊く。
「そのおかげで、恋人に対する想いだけが愛じゃないことを知れたんです。そして、事故のおかげで、父と母を失ってしまったおかげで、家族や親族に対する想いだけが愛じゃないことを知れたんです。
恋人や家族に限定されたものよりも、もっと別の形の愛がそこにありました。そのことに気付けたんです。それがわたしにとって、一番の幸せなのだろうと思います」
そんな愛の形に気付けた、そのことを心から喜びながら微笑む本浄瑠璃は、まさに僕が信奉していた彼女だった。
そして本浄瑠璃はカメラの準備を終えた。三脚を立て終わり、一番美しい景色がよく映る場所を、一番僕らに光が当たる場所を選び終えた。
そうしてタイマーをセットした彼女が、小走りでこちらに駆け寄る。
このカメラは時限爆弾みたいなものだ。あと20秒すれば、この世界から彼女の存在は丸ごと消えてしまう。
「ねえ、日向野くん」本浄が隣にいる僕に問いかける。
「なに」と僕は応える。
「きっと、この世界はね、わたし達の場所や見方で、良くも悪くも見えるんですよ」
「うん」
「だから、本当に綺麗なものなんて、わたし達の誰にもわからないのかもしれませんね」
「そうだね、僕もそう思うよ、本当に」
心からそう思う。心からそう思えるようになりたい。
僕らは笑った。
最後のシャッターが切られると、そのまま本浄はあっけなく消えた。
ひとりの人間の存在が消えるのは本当に一瞬で、まるで世界に対する、一人の人間の相対的な価値を示しているようにさえ見えた。
僕は涙を流さなかった。この喪失感は数ミリリットルの涙で説明できるものではないと知っていたからだ。それに、あの日、<世界>に傷つけられた彼女も涙を流していなかったのだ。僕がこんなところで泣くわけにはいかない。そう思った。
「僕は元に戻るだけだ。君とのイレギュラーな数か月を忘れて、そうでない十六年に戻るだけ」
だから、何にも問題ない、とまでは言えないけれど、きっとそういうものなのだ。そう自分に言い聞かせた。
ああ、でも、『ふとした拍子に思い出して』なんて言っていたけど。
きっと僕は、ずっと覚えているんだろうな、君のことを。
彼女との思い出、ひとつひとつを思い出せた。どうやら僕にとって、彼女との日々はとても大切なものだったらしい。
僕もそれなりに世界の中では浮いていた。そんな中、ひとりぼっちのはぐれもの同士が重なった。それは奇跡のような数か月だった。少なくとも、僕にとってはそう思えた。だから、彼女と話し始めた最初の頃のことだって思い出せる。
そう、確かあの日、教室で勉強をしていた僕のもとに、物理の補習プリントを持った彼女がやってきて----
一つの可能性に気づいて、息を呑んだ。
すぐに本能が気のせいだと言い、その仮説を消去しようとする。放っておいたら風に掻き消されてしまいそうなそれを、僕はもう一度必死に手繰り寄せた。
それは奇妙な感覚だった。
世界は完全に否定しているのに、僕だけがそれを完全に肯定しているような。
最初の会話。
彼女に教えたエネルギー保存とはなんだ?
何かが消えると、釣り合いを保つために同じだけの『価値のある』何かが生まれる?
つまり、
綺麗なものの代償に失われるものは、『汚いもの』ではなかったのではないか?
むしろ、真逆なものだったのではないか?
僕の頭の上に、一つの言葉が浮かぶ。
コペルニクス的転回。
天動説と地動説が入れ替わった瞬間。僕の中で同じことが起こった。
こうして僕と本浄瑠璃の、ままごとのような短い旅が終わった。
そしてここから、僕一人の、長い長い旅が始まる。
もう少しだけ続きます。




