20: あの日、彼女は幸せだったのだろうか
[8/30]
「おはようございます、日向野くん」
本浄は微笑みながらそう言った。今日の彼女はやけに気分が良さそうだった。心身ともに安定している様だった。僕はそれだけでなんだか嬉しかった。
僕らは南へ進んだ。
彼女は一度も足が痛いと弱音を吐かない。だからいつも僕が疲れたタイミングで休憩を入れる。昨日や一昨日の状態が嘘みたいだ。それとも、やせ我慢をしているのだろうか。けれども彼女の表情を見ると、そんなことはないように見える。
それから少しだけ町の方に来たみたいだったので、僕らは喫茶店で昼食をとった。
アトリエカフェ、と書かれた場所に入った。名前の通り店内はアート作品が並んでいて、なんだかお洒落だった。少し僕たちには不釣り合いだろうか、なんてことを考えていた。
「こんな場所来たの、初めてです」と彼女が微笑む。僕もだよ、と頷く。
椅子がソファーになった席に二人並んで座る。メニューを見てそれぞれ注文し、しばらくするとプレートに乗ったランチが運ばれた。
美味しいねと彼女が笑う。相変わらず小さな口をゆっくりと動かす。彼女が学校で弁当を食べていた光景なんて、はるか昔のことのように思えた。
食べ終わった僕たちはくつろぎながら店の中を見回す。展示されているあれこれに、本浄が感嘆の声を漏らしていた。そんな風に見てくれる客が嬉しいようで、店員もなんだか満足そうな表情を浮かべていた。
「芸術に興味がある高校生なんて、今時いないんじゃないの。とは言っても、本浄なら色々と知っていても驚きはしないけれど」
彼女はそういう事はやけに知っていることがある。僕がそう言うと、彼女は少し考えてから、一つの話題を挙げた。
「フィンセント・ファン・ゴッホを知っていますか?」
そう言いながら、壁に飾られていた有名な向日葵の絵を指差す。
「知らないわけがないよ」と言う僕の反応に対し、彼女が「でしょうね」と笑う。
「今では有名な彼ですが、生前は全く絵が売れなかったらしいですよ。誰にも相手にされなかったらしいです。その絵を理解してくれた人間はとても少なかったのだとか。けれども、今となっては彼は一躍有名人です。天才画家と言われています。けれども、彼自身は自らの名声を知らないまま死んでしまったんです」
彼女が言いたいことが何となくしか理解できなかった。きっと、自分に重ね合わせようとしている、というのはわかるのだけれど。
「つまり、自分の生み出した物の価値が証明されるのは消えてからでいい、ってこと?」
彼女のカメラロールを見て、ぼんやり写真を眺めながら答える。
「そんなわけがないじゃないですか。わたしだってできることなら、今すぐにでも認められたいですよ」と本浄が笑う。
「あまのじゃく」と僕は言う。
「あなたもですよ」と彼女は返す。
僕はカメラロールから気に入った写真を探していた。それをのぞき込んで彼女が嬉しそうに口を開く。
「ほら、芸術に興味がない、美しいものに興味がない、なんて、嘘じゃないですか」
僕もそう思う。
それから僕らはまた歩き続けた。ずっと南に向かって歩き続けている。
しばらく歩くと再び足も痛くなってきた。疲弊している時ほど余計なことを考えてしまうのは当然で、僕はこの先に待っている出来事について、一抹の不安を抱いていた。
本浄は少し額に汗をかいているけれど、それでも表情はとても穏やかだ。昨日は今の僕と同じようなことを考えていただろうに、どういう風の吹き回しなのだろう。
僕は昨日、傲慢にも彼女にこの旅の意味を語った。幸福か不幸かはわからなくても、何か目的に向かうことが価値なのだと。けれどもやっぱり、その先に幸福が得られた方がいいではないか、なんて矛盾したことを今更考えてしまう。
「僕たちは幸福だったのかな。<世界>の誰かが僕らを見て、今の状況を幸福だと思うのかな」
僕がそう訊くと、彼女は首を横に振った。けれどもそれは単なる否定ではなかった。
「<世界>からみると、わたし達は不幸極まりない存在です。けれど……誰かが定めた幸福なんて、そんな<世界>が勝手に決めたものさしで、わたし達を決めてほしくはないですね」
そう言ったあと、「でも」と付け加える。
「わたしの物差しで考えるなら……わたしは今、幸せですよ」
彼女が微笑む。
それならいいやと思った。
終わりが近い。




