18: 僕と彼女の逃避行が始まった
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電車を乗り継ぎ、五時間ほどかけて、最も人口密度の低そうな地域へと向かう。僕達は南へ南へと下っていった。
「そう言えば」電車に揺られながら、彼女が話し始める。僕等は膝の上にさっき買った駅弁を乗せていた。彼女は鰆の西京焼きの弁当、僕はとり天の握り寿司だった。
「これって言わゆる、逃避行なんでしょうか」
「わからないや、何かから逃げているような気がするし、何かを迎えに行っているような気がする」と僕は答えた。
本当にこの国で一番人口密度が少ない場所は僕らの住む町よりも上の方にあったのだが、僕らは下に行くことにした。
「逃避行の物語って、南に下っていくものが多いですよね」
「そうなんだ」
「わたし、思うんです。それは南の方が暖かいからではないでしょうか」
「そうかもしれないね」と僕は返した。「暖かくなれば、何かが救われるような気がする」僕はそう信じたかった。
彼女は箸で鰆を掴み、小さな口元までもっていってゆっくりと咀嚼していた。それを飲み込んでお茶を飲んだ後、、もう一度口を開く。
「こうやって南へ南へ下っていけば、その先にはきっと楽園みたいな場所が待っているんです」
「でも、僕達が行くのは一番南ではないよ。その少し右上の、人口密度が少ないところだよ」
「そうでした、それなら仕方がありませんね。わたしたちは楽園には行けない運命のようです」
そこまで距離は離れていないんだから、両方行けばいいだろう。目的地に着いたその後に、更に南に下ればよいだろう。そんなことが一瞬頭をよぎったけれど、すぐに思い直した。それを口にするのは野暮でしかない。彼女に「その後」があるかどうかなんて、わからないのだ、もう。
そのまま僕らは電車から降り、それから適当なバスを見つけて乗り込んだ。
行く地域は決めていたのだけれど、正確な場所までは決めていなかった。できれば少しでも喧噪から離れた場所がいい、それくらいのものだった。
思い立ったタイミングでバスから降り、適当に歩き、再び見つけたバス停で待つ。そんなことの繰り返しだった。バスから見える景色は単調な畑と道路の連続だった。乗り始めたころにはまだ飲食店などの建物が見えていたのだが、適当に乗り継いでいるうちに人の気配はすっかり消えてしまっていた。
その間も彼女は綺麗な風景を探し、そうであるかもしれないと思った対象を撮影していた。
彼女の家を出たのは朝の9時ごろだったような気がする。時間の経過は僕が思っているよりもあっという間だった。あてもなくさまよっているうちに、世界はすっかり茜色に変わっていった。
何度目か忘れてしまったバスの降車を終え、僕たちは三十分ほど田舎道を歩いていた。太陽が落ちるのも時間の問題だ。そろそろ暗くなりますね。宿はどうしようか、なんてことを話していると、僕等の前に一台の軽トラが止まった。さっきからしばらく車も人もすれ違っていなかったため、僕達は突然のことに少し警戒した。
窓が開き、運転席から女の人が顔を乗り出してきた。おそらく三十代だろう、それなりに僕らより年上なのはわかるが、それにしても若々しい。この人をおばさんと呼んだら失礼だと言われるだろう。そんな雰囲気だった。
「あなたたち、どうしてわざわざこんなところに?」女性が不思議そうな顔で僕達に訊いた。
「わけありなんです」と僕は答えた。
「そうですね、わけありです」と本浄が微笑んだ。
「君たち高校生でしょ? もしかして駆け落ち?」
「少し違いますけど」と僕は返答したが、「面倒だから駆け落ちという事にしておくね」とお姉さんに無理やり押し通された。
「お姉さんにひとつ聞きたいんですけど」と僕は切り出す。
「この辺りで泊まれるところってありませんか、どんな所でも構いませんから」
「あたしの家があるよ?」お姉さんはさも当然であるような顔をしてそう言った。
「良いんですか」と本浄が尋ねると、お姉さんは笑って親指を立てた。
「うん、あたしも一人じゃ退屈していたところだったんだ」
暇つぶしの相手ができて嬉しいよ、と彼女は笑う。しかし僕は、それが純粋な善意と信じ切ることができなかった。
「こんなことを言うのは変かもしれませんが……どうして僕たちを泊めてくれる気になったんですか」
僕たちは客観的に見て、明らかな訳ありだ。田舎だからといってこんなおおらかで良いのだろうか。
「そりゃ、あなた達のことが気に入ったからかな」
「どこがですか」と僕は尋ねる。こんな薄幸そうな少年と少女を見て、どう気に入るというのだろうか。慰めか何かだろうか。そんなことを僕も本浄も考えていた。他人を信じるには、僕等は自分以外の<世界>に嫌われすぎていたから。
「一つは、あなたたちの駆け落ちが面白そうだから。もう一つは、あたしのことをおばさんじゃなくてお姉さんって呼んでくれたから。これで百点満点中、二百点」
だから、乗りな。そうお姉さんが言った。そう言って親指を立て、後ろを指差した。軽トラに後部座席はなかった。
釈然とはしないが、僕らはひとまず納得した。
「荷台に乗るなんて経験をするとは思わなかったな」
「わたしもですよ、けれども少し楽しいですね」
そう言ってお互いに笑い合う。トラックが夕陽の方向へと走っていく。タイヤが石ころを踏み越えるたび、がたんがたんと揺れる。その振動がなんだか心地よかった。
「ああ、なんか本当に"逃避行"って感じがしてきた」
「そうですね、そして"世界の終わり"って感じもします」と彼女も笑った。
実際に終わるのは彼女だけで、世界はきっと何百年後も続いていくのだろう。けれどそんなことはどうでもよかった。彼女と僕にとっては、おおよそ世界の終わりと相違ない。仄かな終わりの匂いを感じつつ、終わりに向かっていくこの幸せな時間を楽しんだ。
空いている部屋、ひとつしかなかったや、ごめんね。そう言って僕らは十畳ほどの空室に案内された。
「じゃあ、ごゆっくり、駆け落ちのお二人さん」とお姉さんが言い、障子を閉める。
「お姉さん、またわたしたちのことを駆け落ちだって言ってましたね」
本浄は笑いながら何度もその言葉を繰り返した。きっとよっぽどおかしかったのだろう。
「まあ、確かに周りの人から見ると、間違いなくそう見えるんだろうね」
「そうですね、全然違うのに」
「そうだね、全然違う」
僕等は互いに対して何らかの特別な感情を持っているし、どうしようもないような場所から共に逃げている。けれども何もかも、世間一般で言うところの駆け落ちとは違う。
駆け落ちをするような男女とは感情の内容も異なるし、その動機も全く違う。それなのに客観的にはそうであるようにしか見えないのだろう。
僕らは荷物を置いて、それから二人で仰向けに寝転んだ。彼女と星空を見ていた時から思っていたが、僕はこんな風に上を見上げてぼんやりとしている時間が好きなようだ。
「とりあえず、寝る場所が楽に決まってよかったです」と本浄は言う。その通りだと思った。僕らが向かった田舎は思ったよりも田舎で、もしかすると今頃、宿がなくて途方に暮れていたかもしれない。
ごゆっくり、と言っていたにも関わらず、お姉さんは30分ほどで僕達を呼び出した。
「そういえば食事がまだでしょ? シャワーを浴びたら食卓に来なよ」
本浄が先に浴室へと向かい、その後入れ替わりで僕もシャワーを浴びた。着替えて髪を乾かした後、言われた通りに食卓へ向かった。箸と同じ数だけ、酒が置かれていた。酒は僕等の分まで何故か用意されていた。
「好きなだけ食べていいよ。育ち盛りでしょ、君たち」
お姉さんの顔は既にほんのり赤く染まっており、台所の空き瓶の意味がわかった。
「育ち盛りには不適切なものがあるんですけど」と僕は尋ねる。
「あれ、君たち、飲んだこととかないの? アウトローなのに」
アウトロー、という言葉が僕らに向けられたものだと気づくまでに時間がかかった。僕と本浄にはあまりにも似つかわしくない響きだ。確かに僕は家出同然だし、彼女だって現実から逃げ出している。そういえば僕は最終日、学校でクラスメイトを殴ったな、なんてことを思い出した。すっかり忘れていたが、あれは無罪放免ということで良いのだろうか。今となってはどうでもいいか。
「でもさ、これを飲めば君たちは、文字通りの本当のアウトローになれる。簡単でしょ」
そう言って彼女は勝手にビール瓶のふたを開け、グラスにそれを注いだ。
「飲めませんよ。アウトローを目指しているわけでもないし。そもそも僕達は普段大人しくしているような人間ですよ」
「駆け落ちをしている人間が今更真面目ぶっちゃうなんて、おかしいの」
お姉さんは既に気分が良いようだ。
「だから、駆け落ちじゃないですよ」と僕は言う。
「違うの? でも君たち、恋人なんじゃないの? 恋人が二人、幸せのために逃げ出してるんだとしたら、それは立派な駆け落ちじゃん」
そうお姉さんが言った。
「違いますよ、わたしと日向野くんは違うんです、そういうのではないんです」
もしかしたらはっきりと否定することは失礼にあたるのかもしれない、僕がそんなことを思っている間に本浄ははっきりと否定し、それが杞憂だったと気づかされた。
「わたしたちはそんな風に結ばれていません、本質的には孤独なんです。たまたま二人とも世の中に見放されたから、同じように隅っこで歩いているだけなんです」
「君は詩人だね」とお姉さんは笑い、「けれども、なんだかわかる気がするよ」と悲しそうな顔を浮かべた。
彼女が未亡人であるということを聞いた。そうなったのは最近のことであると知った。
「愛想をつかして消えていく、なんて話だったらまだよかったんだけど」
そう言ってからグラスに残ったビールを勢いよく飲み干し、それから大きな息を吐く。
「あたしのせいであればどれだけマシだったことか。理不尽の方が、よっぽどつらいよ」
世の中には背負いたくても背負えない罪がある。彼女の夫は事故で死んでしまったのだという。彼女とは全く関係のない場所で、仕事中に。
僕は本浄の両親のことを思い出していた。客観的に見て、本浄の両親の死は、彼女のせいであるはずがない。それなのに彼女はそれが自分の罪であるとした。そうすることで、ある意味では楽になる部分もあるのだろうか。罪を求めているお姉さんを見ていると、そんな考えが浮かんだ。
「お姉さんがわたしたちを泊めてくれた理由も、わたしたちがお姉さんに惹かれた理由も、なんとなくわかりました」
そう本浄が言い、僕も首を縦に振った。
きっとあのお姉さんも、自分のことを<世界>に嫌われたひとりぼっちだと感じているのだと思う。
それから僕と本浄は瓶を開け、グラスにビールを注いだ。どうせならお姉さんの言うアウトローとやらになってしまったほうが面白いと思ったんだ。
「じゃあ、三人の孤独に、乾杯」
お姉さんの合図とともに三人のグラスがぶつかり合い、心地よい音を立てる。
僕と本浄はその日、初めて酒を飲んだ。
本浄はどうやらかなり酒に弱かったらしく、真っ白だった肌が一瞬にして朱色に染まっていった。彼女の頬が赤子のように変わっていく様は、なんだか見ていて面白かった。最初の方、本浄はうとうとしながらもなんとか起きていたが、酔いによるまどろみはいつしか深い眠りへと変わっていった。僕は寝潰れてしまった本浄を部屋まで運び、そのまま自分も眠ることにした。本浄の身体は細く、女の子にしては軽すぎるように感じた。それでも僕にとっては十二分に重かった。それはきっと命の重さだ。
[8/27]
朝、目が覚めると、部屋の前に朝食と短い手紙が置かれていた。
『畑で作業をして、それから買い物に行ってきます。鍵は開けたままで構いません』
手紙を裏返すと、もう一行のメッセージが書かれていた。
『真の幸福に至るのであれば、それまでの悲しみはエピソードに過ぎない。そうでしょう?』
きっと僕たちはあのお姉さんのことをほとんど知らない。知っているのはほんの一部分だけだ。
ラップで覆われていたご飯と味噌汁と焼き鮭を食べた。冷めていたけれど、そこには確かな温もりがあった。
それから荷物を整え、僕らは再び旅を続けることにした。消えるための旅を。
南に逃げるの、憧れますよね。
いつか暖かい場所にたどり着けば、全てが報われるような、そんな気がしますよね。
イリヤの空のせいですかね。




