14: 彼女はずっと不幸だった
「わたし、小学校六年生の頃から、父も母もいないんです」
どれだけ長い時間が経っただろうか、ぽつりと本浄が話し始める。
「あの頃からわたしは内向的で、自分の意見を話さない性格でしたが、それでも人並みに童心を持っていました。ある日、わたしは珍しく遊園地に行きたいと駄々をこねます。父も母も仕事の疲れが残っていましたが、わたしがあんまり喚くのでついには折れてしまいました。父と母とわたしで、車に乗って近くにある遊園地に向かいます」
話し始めると、本浄は雪崩のようにすべてを吐露させ始めた。僕は黙って話を聞いた。
「しかしその日はたまたま運が悪く、高速道路で事故が起こりました。わたしたちの目の前で車と車が衝突しました。その巻き添えとして、わたしたちの車も他の車に衝突してしまいました。わたしは衝撃からすぐに記憶を失ってしまったため、そこからはよく覚えていません。覚えているのは、運転席と助手席は酷く歪んでしまっていたということ、そして死の匂いはとんでもない異臭であるということ、それだけです」
彼女にはもう家族が居ないという事を、この日僕は初めて知った。
「なんの因果かはわかりませんが、最初に衝突した車の運転手は生きていたらしいです。彼の呼気からは明らかなアルコール反応が見られたらしいです」
僕に父親がいないことを察せずに、必死に謝っていた彼女の姿を思い出した。あんなに謝った自分は母親までいないのに。僕の父親と違って、二人とももう二度と会えないのに。
「両親はいつも土日は家でゆっくり本でも読んでいて、わたしも同じようにそうしているか、ときどき近所の図書館に一人で遊びに行くか、それぐらいのものでした。本当にたまたま、年に一回あるかないかのわがままだったんです。それなのに、そのせいでわたしは何もかもを失ってしまいました」
そこで僕は先週彼女と行った場所を思い出した。あの遊園地は彼女にとって、とてもとても大きな意味を持った場所だったのだ。僕の考えていた『行きたくても行けなかった』なんて比にならないほどの感情を彼女はそこに残していた。
むしろ、何もなくなった今だからこそ、やっと彼女はあの地に行けたのかもしれない。
「あの頃からわたしは、自分が要らない存在なんじゃないかと思い始めました。今まではただの役立たずならいいだろう、と思っていたところが、親を殺してしまった罪悪感から一気に壊れてしまいました」
僕は今、彼女が孤独になっていく過程を聞いている。
きっと今僕が感じている痛みは、彼女が本当に感じた痛みの10分の1にも満たないのだろうけれど、それでもこの上なく辛かった。
「幸い、親戚に沢山お金を持っている人がいました。けれども優しい心はそんなに持っていませんでした。わたしは今のアパートに一人で住まわされました。『わたしたちはすぐ近くに住んでいるから』と言っていた彼等は、わたしに何の連絡もなく引っ越してしまいました。こうしてわたしは本当のひとりぼっちになりました。毎月お金がもらえるだけマシだったと言えるのでしょうか」
フィクションみたいな話ですよね、でも本当なんです。彼女はいつも以上に消え入りそうな声でそう言った。
「そんなふうに一人を強いられて、わたしはわがままを言うのをやめました。自分のために、人に何かをしてもらおうとすることをやめました。金銭面を親族に頼ることだけは仕方ないとして、それ以外で誰にも頼ることなく生きようと決めました」
彼女が連絡手段を持っていないことが脳裏をよぎる。頑なにそれが必要ないと言っていたのは、ふとしたとき誰かに助けを求めないようにしたかったからだ。帰りが遅くなっても連絡の必要が無いのは、そもそも連絡をするような人間がいなかったからだ。これまで交わした彼女との会話が、すべてむき出しの腫瘍であったことを知った。
「けれども、わたしは一人で生きていくにはあまりにも足りない子だったんです。それは日向野くんもよく知っていますよね。一人で生きていくには、勉強も運動もコミュニケーションも全く足りていませんでした」
いつものように本浄の卑下が始まった。けれども、今の僕はその理由を知ってしまった。彼女の絶望に潜む背景を知ってしまった。くどいような彼女の自己否定は、本当はそれでも足りないほどなのだということを知ってしまった。
「それでも一度決めたことは守ろうとしました。他人に迷惑をかけるほどの価値はないのだから、それなら自分が押しつぶされて死んでしまうほうがまだましなくらいだろう、そう何度も自分に言い聞かせました」
僕は黙って彼女の話を聞いた。
「馬鹿にされても、それを当然だと思おう。他人の怒りは、自分の能力の無さゆえのものだろう。わたしが傷つけられた時、わたしを傷つけたその人も不快な思いをしているのだろう、そしてそれはきっと、わたしのせいなのだろう」
僕は彼女の顔を見る事を躊躇した。ただ黙って星空を見ていた。彼女はどのような表情をしていただろうか。2185種類のどれよりも深い感情を抱えているであろう彼女は。
「しかし、そういう風に考えていても、少しずつわたしの心はくたびれていってしまいました。そして高校に入ったあたりから、わたしの頭の中を二つの選択肢が埋めるようになりました」
疲れ切った人間が浮かべる選択肢は往々にして両極端なものだ。まして、これほどの傷を負った彼女がどのような判断をするのか、そんなことはわかりきっていた。きっと、自分をないがしろにしてしまうに違いない。
「ひとつは、やっぱり誰かに迷惑をかけて生きていくか、ということです。
しかし、それによって伴う別の罪の意識に、わたしは生涯とらわれることになるでしょう。生きる価値もない人間が、生きる価値のある人間の人生を利用してしまうのですから。それに、今まで自分が守ってきたたった一つのルールが失われてしまっては、わたし自身というものさえ本当に見失うのではないか、という危惧もありました」
いや、そもそも、そんな選択肢しか与えられていないのだ。自分を守る選択なんてなかった。世界も認めなかったし、彼女自身もそれを自ら切り捨てていた。
「だから浮かんでいたもう一つは、誰にも迷惑をかけずに、このまま消えていくか、ということです。そうすればわたしの価値というものは、本当の本当になかったことになります。けれど、誰かに迷惑をかけることもなくなるでしょう」
自分の心を殺すか、自分の存在を殺すか。そんなどうしようもなく不幸な二択。それを彼女は自分に課していたのだ。




