第九章 純粋なる竜
滅びの淵から立ち上がり、新たなる「種族の再構築」へと歩み始めたドラグニアの地。ベネット・ド・ドラグニアの手によって打ち出された壮大な改革の第一歩は、古代より竜人族が知らずにいた「自らの根源」を深く掘り下げる作業から始まった。焦土の瓦礫を撤去し、壊れて久しい地下の資料庫を捜索していたベネットは、かつて父ヴァルディスが手記として遺していた羊皮紙の古文書を発見する。そこに記されていたのは、世界に語り継がれる神話の真実であった。かつて数千年の昔、二足歩行で人型をとる「竜人族」とは明確に異なる存在――天を覆う巨大な翼と神のごとき魔力を持ち、世界の生態系の頂点に君臨していた古代種「純粋なるドラゴン」たちが存在した。しかし、人間やゴブリンたちの急速な増殖と、近代兵器や魔法技術の発達、そして何より彼ら自身が築き上げた「数と組織」の文明構造の前に、古代のドラゴンたちは次第に世界の中心から姿を消していった。彼らは矮小な種族たちの泥沼の紛争を忌み嫌い、人の足の届かぬ極寒の氷原、灼熱の火山帯、あるいは空の果てといった極限の秘境へと身を潜めたのだ。そして古文書の末尾には、ドラグニア家の血脈に関する驚くべき真実が刻まれていた。ベネットの直系のご先祖にあたる存在。それは、かつて北極の永久凍土を統べ、その吐息一つで海を凍てつかせた伝説の古代竜「氷王竜ギガフロスト」であった。ギガフロストは古代の争乱の果てに自らの巨躯を捨て、人との交流を選んでその姿を人型へと変えた。それこそが、ドラグニア竜王領の開祖であり、ベネットたちの祖先だったのである。(……だからこそ、私の中には、これほどの『力』が眠っていたのですね)ベネットは父の手記を大切に閉じると、静かに胸元の内ポケットに手を当てた。三十億のゴブリン王国に対抗し、竜人族を独立した一大勢力として再構築するためには、単なる制度の模倣だけでは足りない。古代から脈々と受け継がれてきた「竜の本質」を再発見し、力と知恵を現代の文明と融合させる必要がある。ベネットは同胞たちに復興の基礎工事を託すと、父の手記に記されていた秘境の一つ大陸南方に位置する巨導火山帯「グロリアス」を目指して、一人旅立った。そこは、常に黒煙と溶岩が噴き出し、人間やゴブリンの魔導飛空艇すら熱気によって墜落する、生命の拒絶された絶対の死地であった。沸き立つマグマの河を越え、過酷な熱風が吹き荒れる火口の奥深くへ、ベネットは一切の防具もつけずに進んでいく。その火口の最深部、真っ赤に煮たぎる熔岩の湖の中央に、巨大な岩山と見紛うばかりの怪物が横たわっていた。赤黒い岩石のような堅牢な鱗、一振で城塞を粉砕する太い尻尾、そして目を開くだけで周囲の空間を蒸発させる強烈な熱量を放つ巨躯。
古代から生き続ける絶対者――「炎王竜マグママントル」であった。
ベネットの接近を察知したマグママントルが、ゆっくりと巨大な頭部を持ち上げた。その両眸は煮えたぎる熱湯のように眩い黄金色に輝いている。「……ふ。無様にも、竜族から竜人族へ転生した――氷王竜ギガフロストの子孫か。この炎王竜マグママントルに、何の用だ?」マグママントルの声は、大地そのものが地鳴りを起こしたかのような重低音となって火口内に響き渡った。その言葉には、かつて己のプライドと巨躯を捨て、二足歩行の矮小な人型を選んだギガフロストとその血脈に対する、隠しきれない蔑みと冷酷な侮蔑が込められていた。「自らの肉体を矮小化させ、人間やゴブリンの真似事をして泥に塗れた結果が、あの一万二千の哀れな惨状か。血を汚し、数を減らし、挙げ句の果てに弱小種族として駆逐される……滑稽の極みだな」マグママントルは鼻孔から数千度の火柱を噴き上げ、巨躯を揺らして嘲笑した。その絶大な威圧感の前には、どんな勇者も、百万人規模のゴブリン大軍勢すら一瞬で戦慄し、平伏するであろう。しかし、足元に佇む銀髪の少女――ベネット・ド・ドラグニアの表情には、恐怖の欠片すら見当たらなかった。ベネットはただ静かにマグママントルを見上げ、淡々とした声で応じた。「……あなたが、マグママントル……父が言っていた。最も短気な竜だと」その一言に、マグママントルの黄金の瞳が激しい怒りの炎で揺れた。矮小な竜人の娘が、怯えるどころか、実の父親から聞いた世間話のように自分を評したからである。「ほう。ならば話は早い。消えろ。竜人の姿で、我らの領域に立つな」マグママントルは大気を震わせる咆哮とともに、巨大な前脚を叩きつけた。火口の熔岩が爆発し、空を覆うほどの火柱が立ち上る。「我らは人間の歴史やゴブリンの社会などという浅薄な仕組みには一切の興味はない。弱者どもが群れをなし、構造を築いてイナゴのように繁殖しようと、我ら絶対の個の前には無価値。去れ、ギガフロストの不肖の末裔よ。さもなくば、その小さな肉体ごと一瞬で灰燼に変えてくれる」古代竜のプライド。自分たちこそが世界の真の覇者であり、群れるしか能のない矮小な種族や、その真似事をして人に成り下がった竜人族など、視界に入れる価値すらないという絶対の傲慢。ベネットは火柱の熱風を静かに浴びながら、暗い洞窟の火口を見渡した。マグママントルが誇る「古き竜の絶対的な個の強さ」。それは確かに圧倒的であり、一頭で一つの国家を焦土に変えるほどの絶大さを秘めている。しかし、彼らは文明を拒絶し、孤立し、ただ秘境に閉じこもっているだけだ。それでは、時代が進み、さらに強力な近代兵器や三十億の数が押し寄せてきた時、過去の遺物として討ち取られる未来しか待っていない。
(……この方々もまた、過去の『強さ』に囚われたままなのですね)
ベネットは静かに吐息を漏らした。彼女が目指しているのは、過去への先祖返りでもなければ、単なる竜人族の自己満足でもない。古代竜の圧倒的な潜在能力を取り戻し、それを現代の社会構造や文明の知恵と融合させること。それによってしか、竜の血脈が未来永劫生き残る道はないのだ。説得の余地がないことを悟ったベネットは、静かに言った。「…………。……そうですか。なら、仕方ありませんね」ベネットの深い蒼の瞳が、ふっと閉じられる。
次の瞬間――。
カチリ、と世界の時間が止まったかのような感覚が火口内を包み込んだ。ベネットが双眸をカッと見開く。深く澄んでいた蒼い瞳の虹彩が、眩いばかりの純金光へと塗り替えられ、その中心に神聖にして凶暴な「十字の光芒」が鮮明に浮かび上がった。「竜眼」。氷王竜ギガフロストの血脈の真なる覚醒。その瞳が開いた刹那、火口を満たしていた煮えたぎるマグマの動きがピタリと停止した。数千度の熱気が一瞬にして氷点下数百度の極低温へと反転し、吹き荒れていた赤黒い火柱が、一閃の青白い閃光となって凍りついていく。「な……なに……!? この魔力の密度は……!?」絶対の威厳を誇っていた炎王竜マグママントルが、初めてその巨躯を戦慄させ、目を見開いた。目の前の華奢な少女から解き放たれたのは、先祖であるギガフロストどころか、古代の竜王たちすら遙かに凌駕する、神話の領域の絶対的な力場であった。ベネットの銀髪が神聖な蒼い光を帯びてなびき、彼女の背後に、天を突くほどの巨大な「氷の幻影竜」の姿が立ち現れる。
「私が欲しいのは、過去の誇りではありません」
ベネットの声が、凍りついた火口の中に、美しくも冷酷な響きとなって響き渡った。「竜の血脈が、未来へと生き残るための『力』と『知恵』です。……マグママントル様、貴方には私の言葉に耳を傾けていただきます」言葉とともに、ベネットは滑らかな一歩を踏み出した。古代から眠る絶対の竜と、時代の理を悟りし史上最強の竜人少女。竜の根源を巡る真の激突が、秘境の火口で静かに始まろうとしていた。




