↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/10

第七章 最強と最弱

 硝煙と血の匂いが充満するバルツ平原。五十万の魔物の大群が一瞬にして塵へと変わり、澄み渡った青空の下には、削り取られた滑らかな巨溝だけがまっすぐに伸びていた。一打の閃光で天地を叩き割った少女――ベネット・ド・ドラグニアは、静かに背を向け、何事もなかったかのように歩み去ろうとしていた。「ま、待て……! 待つのだ、ベネット!」金箔の指揮飛空艇から滑り降りるように駆け下りてきた第一王子ジェナール・ド・シンフォニーは、膝をガクガクと震わせながらベネットの背中に声を張り上げた。その顔からはかつての高慢な笑みは姿を消し、青ざめた肌には滝のような冷や汗が流れていた。彼に従う側近たちも、武器を構えることすら忘れ、ただ恐れおののいた目でベネットを見つめている。べネットは足を止め、滑らかな動作で振り返った。深い蒼の瞳には、一切の波紋も浮かんでいない。



「……ベネット・ド・ドラグニア?」



 ジェナールは自らの目を疑うように、上から下へとベネットの華奢な姿を検分した。王宮から追放したはずの、滅びかけた弱小種族の娘。だが、眼前に佇む彼女からは、先ほど平原全域を呑み込んだ絶望的な力場と同質の、計り知れない威圧感が漂っていた。



「お前……何をした?」



 喉を乾かせたジェナールが、掠れた声で問いかける。ベネットは首をかしげ、ごく当たり前のことのように短く応じた。「魔物を倒しました」「……一人で?」「はい」あまりにも静かな肯定。ジェナールの背筋を氷のような戦慄が走り抜けた。百五十万の正規軍と四千門の魔導重砲を総動員し、何万という犠牲を払いながら押し込まれていた五十万の魔獣。それを、たった一人の少女が、魔法の詠唱すらなく、ただ手を一振しただけで全滅させたという現実。その真実の重みに、ジェナールは声も出せず言葉を失った。しかし、その場に遅れて駆けつけてきた豪奢なドレス姿の令嬢ジャネット・ネアンフォルトは、眼前で起きた事態の異常性を正しく理解できていなかった。彼女はゴブリン兵たちの死体と硝煙で汚れたドレスの裾を気にしながら、不快そうに鼻を鳴らし、いつもの調子でベネットを指さした。「な、何ですの、その不躾な言い草は! たまたま古代の魔導兵器か何かを隠し持っていただけでしょう!? 威張り散らすのも大概にしなさいな!」ジャネットは尖った耳を揺らし、嘲笑を浮かべながら胸を張った。「だいたい、竜族は全種族最弱でしょう? たった一万二千人しか存在せず、我がリューネゴブリン王国の保護がなければ生きていけない哀れなトカゲの生き残り……それが貴女たち竜人族ではありませんの!」ジャネットの言葉は、かつて王宮の大ホールで浴びせられたものと全く同じ蔑視に満ちていた。普通ならば激怒するか、自らの真の力を誇示して踏み潰す場面であった。しかし、ベネットの表情には苛立ちの欠片すら浮かばない。ベネットはただ静かにジャネットを見つめ、淡々と答えた。「……私は、そう聞いています」「ほら、ご覧なさい! ご本人も認め投稿なさっていますわ!」勝ち誇ったように笑うジャネット。だが、ジェナールはそんな愛人の能天気に激怒する余裕すらなく、額の汗を拭いながら、すがるような目つきでベネットへと一歩踏み出した。彼の中にあったのは、全種族の頂点に立つ絶対王者としての矜持と、いま目の前で突きつけられた圧倒的な個の暴力に対する猛烈な拒絶反応であった。「そうだ……! ジャネットの言う通りだ!」ジェナールは自らに言い聞かせるように、震える声を張り上げた。「お前がどれほどの珍しい破壊力を持っていようと、一人の力など取るに足らん! 我がリューネゴブリン王国こそが世界最高の国家であり、世界最強の種族なのだ!」ジェナールは広大な平原を埋め尽くす(今や半壊した)自軍勢と、遙か彼方にそびえる王都の方向を指し示した。「我々は三十億を超える! 三十億六千万人という果てしない人口、それを支える高度な行政組織、無限の経済力、そして百五十万の軍を瞬時に編成できる国家システム! これこそが強さだ! これこそが世界を支配する真の力なのだ!」ジェナールの叫びには、一種の狂信的な自負が宿っていた。個の戦力で魔物に及ばずとも、一人ひとりが弱小であろうとも、三十億という莫大な「数」と「組織」を結集すれば、世界中のどの種族も屈服させることができる。それこそがゴブリン族の築き上げた絶対的な文明の誇りであった。ベネットは反論しなかった。ジェナールの叫びを遮ることもなく、怒りを露わにすることもなく、ただ静かに彼の言葉に耳を傾けていた。そして――ベネットの心の中で、これまで絡まり合っていた思考の糸が、静かに解けていく感覚があった。旅の途中で目にしてきた幾多の文明。人間たちの「学問と制度」、エルフたちの「精霊と継承」、ドワーフたちの「技術と産業」、獣人たちの「結束と本能」、魔族たちの「階級と威圧」、そしてゴブリンたちの「数と構造」。それらの景色と、いまジェナールが怒鳴り散らした言葉が、彼女の中で完璧に結びついた。



(……ああ、そうだったのですね)



 ベネットの深い蒼の瞳に、かすかな開眼の光が宿る。彼女はこの会話によって、生まれて初めて重要な真理を理解した。「最強」と「強者」は、同じではないのだと。個人の戦闘能力がどれほど突出していようとも、世界で最も強い破壊力を持っていようとも、それは単なる「最強の個」に過ぎない。一人の戦闘能力が最強だからといって、その種族全体が社会として強いとは限らないのだ。竜人族がまさにそうであった。一人ひとりは万の敵を薙ぎ払う力「最強」を持ちながらも、数を増やさず、制度を作らず、協力の構造を築かなかったが故に、種族としては「最弱」であり、一夜にして滅ぼされる脆さを抱えていた。



そして逆に――。



 ゴブリン族のように、一人ひとりの個体が「最弱」であっても、数と制度と圧倒的な協力構造を持つならば、それは社会として巨大な力を持つ「強者」となることができる。「一人の強さ」と「種族としての強さ」は、全く異なる概念なのだ。ベネットは自らの掌を見つめた。この手に宿る、山を穿ち空を断つ「最強の力」。しかし、その力だけでは家族を護れず、故郷を失う結果となった。なぜなら、自分はただの「最強の個」であり、ゴブリン王国という「強者」の社会構造に立ち向かう術を持たなかったからだ。「……よく分かりました」ベネットの口から、小さく、しかし透き通った声が漏れた。「ベ、ベネット……?」ジェナールは彼女の静寂な佇まいに押され、思わず息を呑んだ。「貴方がたの言う『強さ』の形、確かに受け取りました。数と、制度と、協力……それこそが世界を動かす構造なのですね」ベネットは怒るでもなく、相手を見下すでもなく、ただ真実を学び取った者として静かに頷いた。「ですが……それだけでは守れないものがあることも、私は知っています」

手の中にある、姉の髪飾りと弟の玩具。構造や数だけでは満たされない、温かな家族の温もりと居場所。個の極致である「最強」の力と、社会の極致である「強者」の構造。その両方を知った少女は、どちらか一方に固執するのではない、新たな道へと歩み出す準備が整っていた。



「では、私はこれで」



 ベネットは二人に再び深く一礼した。「な、待て! どこへ行くというのだ、ベネット!」ジェナールが制止の声を上げたが、ベネットが再び足を止めることはなかった。彼女が軽く一歩を踏み出すと、その身体はまるで風に溶け込むかのように加速し、次の瞬間にははるか地平線の彼方へと消え去っていた。あとには、削り取られた滑らかな巨溝と、呆然と立ち尽くすゴブリンたちの群れだけが残された。自らの過ちに気づき始めたジェナール王子と、何も理解できずに罵声を上げ続けるジャネット。世界の構造を悟った「竜族史上最強の少女」の旅は、真の変革と救済を求めて、新たな局面へと進んでいくのであった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。