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第六章 魔物の群れ

 リューネゴブリン王国の東部国境に位置するバルツ平原。かつて平穏な穀倉地帯であったその広大な大地は、いまや異様な漆黒の情念と地鳴りのような咆哮に包み込まれていた。地平線の彼方から湧き出でたのは、古代の魔界より解き放たれたと見紛うばかりの巨大な魔物の群れであった。体長十メートルを超える剛角を持つ暴走巨獣、空を覆い尽くす凶悪な有翼魔獣、そして大地を這う巨大な異形の魔虫群。その総数は実に五十万頭。しかも一頭一頭が、並の騎士団が一小隊がかりで挑まねば討ち取れぬほどの強烈な凶暴性と個の戦力を有していた。魔物の大群は、押し寄せる黒い津波となって王国の防衛線を次々と踏みつぶし、東部要塞を数時間で粉砕して王都へと迫っていた。この空前の危機に対し、リューネゴブリン王国は即座に大規模な出撃命令を発令した。「全軍、突撃せよ! 我が国の誇り高き絶対的な力を、あの野蛮な魔物どもに見せつけてやれ!」前線陣地の中心、金箔で彩られた豪奢な指揮飛空艇の甲板上で、第一王子ジェナール・ド・シンフォニーが高らかに剣を掲げて叫んだ。彼が率いるのは、リューネゴブリン王国が誇る第一東部方面軍。その総兵力は実に百五十万人。さらに最新鋭の魔導重砲四千門、魔導飛行戦艦二百隻、重装甲車二万台が平原全体を埋め尽くしている。三十億六千万人という膨大な人口を背景とする王国にとって、百五十万の大軍動員など造作もないことであった。「我々は世界最大の王国だ! 三十億の民を背負う絶対の覇者だ! たかが数十万の知性のない獣どもに、我が国の進撃が止められるはずがないではないか!」ジェナールの傲慢な声が、魔導拡声器を通じて全軍に響き渡る。ゴブリン兵たちは一斉に盾を叩き、勝どきを上げた。数と技術の力で世界を統治してきた彼らにとって、百五十万の軍勢が敗北するなどという事態は、想像すらできない空論に過ぎなかったのだ。



「全魔導重砲、放てーっ!」



 司令官の号令とともに、四千門の砲口が一斉に火を噴いた。無数の高熱光線と爆裂魔導弾が夜空を焦がし、魔物の群れのど真ん中に壊滅的な着弾の嵐を降らせる。平原全体が激しい爆光に包まれ、地煙が天を突き破った。「ふははは! 見たか! これが我が国の技術と圧倒的な物量だ!」ジェナールは腰の剣を叩き、勝ち誇った笑みを浮かべた。しかし爆煙が風に流された直後、ゴブリン軍の前線に驚愕と恐怖の悲鳴が走った。「な、なに……!? 魔物どもが……止まっていない!?」煙の奥から現れたのは、高熱の魔導砲撃をその強靭な外皮で完全に弾き返し、さらに狂暴さを増した魔物の群れであった。太古の魔力を帯びた彼らの肉体は、近代兵器の広域破壊を力任せに耐え抜いたのだ。


「グルオオオオオオオオオッ!」



 地響きとともに、五十万の魔獣が一斉に牙を剥いて突撃を開始した。「ひ、ひいっ!? 敵が……敵が速すぎる! 第一防衛線、突破されました!」「左翼の魔導重砲大隊、完全に蹂躙されました! 全滅です!」「空の有翼魔獣群が降下してきます! 飛行戦艦が……落ちるーっ!?」平原に狂乱と絶望の悲鳴が吹き荒れた。個体の圧倒的な強度と戦闘能力を持つ魔物の前に、近代的なフォーメーションを組んでいたゴブリン兵の陣形は、まるで紙くずのように食い破られていく。重装甲車は叩き潰され、歩兵隊は踏みにじられ、天空からは撃ち落とされた飛行戦艦が炎を上げて叩きつけられた。百五十万の兵力と、五十万の魔物。数の上ではゴブリン軍が三倍圧倒していた。しかし、個の戦闘能力の格差があまりにも絶大すぎた。数頼みの弱小なゴブリン兵たちは、魔物の圧倒的な個の暴力の前になす術もなく砕かれ、数分ごとに何万という単位で屠られていく。「殿下! 敵が強すぎます! このままでは本陣まで呑み込まれます!」血煙と泥にまみれた側近の将校が、悲鳴を上げながらジェナールにしがみついた。



「バ、バカな……! あり得ん!」



 ジェナールは青ざめた顔でガタガタと震えながら、後退していく自軍の惨状を見下ろした。「数ではこちらが圧倒しているのだぞ!? 我がリューネゴブリン王国は三十億の民を持つ世界最強の国家だ! なぜだ……なぜこのような知性のない獣どもに、我が精鋭が破れるのだ!?」「数だけでは耐えきれません! 一頭一頭の力が違いすぎます! 殿下、至急ご撤退を――」「退けるかぁっ! ここで退けば第一王子の私の威信が失墜する! 全軍突撃だ! 命を捨てて敵を食い止めろ!」ジェナールが狂乱し、無謀な命令を撒き散らしていたその時。前線の悲鳴と狂乱の真っ只中を、一人の少女が何事もないかのように歩いていた。透き通るような銀髪を風になびかせ、吸い込まれるように深い蒼の瞳をした少女。ベネット・ド・ドラグニアであった。彼女は世界の理と「強さ」の本質を探し求める旅の途上、たまたまこの国境付近を通りかかり、惨劇の渦中へと足を踏み入れ入れていたのだった。兵士たちが踏み荒らし、魔物の足跡で黒く汚れた惨状のなかで、彼女のたたずまいだけが異質なほど静謐であった。ベネットの視線が、目の前でゴブリン兵たちを次々と噛み砕き、本陣へと進撃してくる巨大な暴走巨獣の群れへと向けられる。「……あれを倒せばいいんですか?」べネットは近くで腰を抜かし、ガタガタと震えていたゴブリンの兵士に、淡々とした声で尋ねた。兵士は血走った目でベネットを見上げ、叫んだ。「は、はあ!? 何言っていやがる貴様! 無理に決まっているだろう! あれは五十万の超大型魔物だぞ!? 我が国の百五十万の大軍と四千門の魔導重砲でも止まらない化け物どもだ! 死にたいのか、逃げろ――」兵士の言葉が最後まで紡がれることはなかった。ベネットが、静かに一歩を踏み出したからである。彼女の深い蒼の瞳が、ふっと黄金色へと輝きを変えた。「竜眼」の解放。一瞬間、バルツ平原の全域を覆っていた悲鳴、激震、爆音のすべてが、まるで世界から消し去られたかのように完全な無音と化した。ベネットを中心に、大気が急激に圧縮され、空間そのものが軋み声を上げる。「な……なんだ……この圧迫感は……!?」指揮艇の上で乱心していたジェナールも、その圧倒的な存在感に息を呑み、目を見開いた。ベネットはただ静かに、前に向けて右手を一筋、一筋の閃光のように振り抜いた。武器など持っていない。特別な魔法の詠唱もない。ただ、その華奢な腕を滑らかに一閃させた――それだけであった。



直後。



ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン―――――――ッ!!!!



 天地をひっくり返すような超巨大な衝撃波が、ベネットの手元から解き放たれた。それは攻撃という概念を超えた、純粋な神の威光のごとき破壊の嵐であった。空間を削り取り、大気を断ち切り、地殻を数十メートルにわたって削り取りながら、一直線に平原を突き抜けていく。ベネットの一撃から放たれた真空の刃と極大の衝撃波は、前線に蠢いていた五十万の魔物の大群を丸ごと呑み込んだ。「グル……!?」魔物たちが悲鳴を上げる余裕すら与えられなかった。体長十メートルを超える暴走巨獣も、空を覆う有翼魔獣も、硬質の外皮を持つ巨虫も、ベネットの解き放った圧倒的な衝撃の前に、一瞬にして細胞レベルで粉砕され、霧となって雲散霧消していった。衝撃波はそのまま平原をはるか百キロメートル先にまで突き抜け、はるか彼方に聳え立っていた岩山群を一瞬で真二つに両断し、空を覆っていた分厚い暗雲を一直線に吹き飛ばした。ほんの数秒前まで平原を埋め尽くしていた五十万の魔物の大群。そのすべてが、たった一撃で、文字通り「消滅」した。あとに残されたのは、ベネットの足元から遙か彼方まで一直線に削り取られた、平坦で滑らかな巨大な窪地と、雲一つない澄み渡った青空だけであった。



静寂。



 あまりにも突如として訪れた絶対的な静寂が、バルツ平原を支配した。生き残った数十万のゴブリン兵たちも。指揮艇の上で立ち尽くしていたジェナールも。全員が言葉を失い、目を見開いたまま、何が起きたのかを理解できずに硬直していた。百五十万の大軍が手も足も出ず、壊滅の危機に瀕していた絶望的な戦況。それを、たった一人の少女が、ただ手を一振しただけで完結させてしまったのだ。「……個の強さだけでは、種族を守ることはできない」

べネットは削り取られた大地を見つめ、小さく呟いた。「ですが……目の前の惨劇を止めることくらいなら、私にもできるのですね」ベネットの瞳から黄金の光が消え、元の深い蒼色の瞳へと戻った。彼女は手の中に残る、姉の髪飾りと弟の玩具の感触を胸の奥で確かめると、圧倒的な力を見せつけた後だというのに、自慢する様子も誇る様子も微塵も見せず、クルリと背を向けた。何事もなかったかのように、元来た道を静かに歩き出し、立ち去ろうとする。「あ、あ……あ……」腰を抜かしていたゴブリン兵が、去り行くベネットの背中を指さし、ガタガタと顎を鳴らしながら声を絞り出した。「た、助けてくれたのか……? お前は……一体……」ベネットは足を止めず、振り返りもせずに、小さく言った。「では、私はこれで」その声は、どこまでも淡々としており、風に乗って静かに消えていった。指揮艇の上で呆然とそれを見下ろしていたジェナール王子は、全身から冷や汗を吹き出し、歯をカチカチと鳴らしていた。



 (あ、あの女は……べネット・ド・ドラグニア……!? バカな……バカなバカなバカな目だ! あのような怪物を、私は『全種族最弱』と笑い、追放したというのか……!?)



 ジェナールの胸に、初めて純粋な「恐怖」という感情が芽生えた瞬間であった。三十億の人口も、百五十万の大軍も、四千門の重砲も、彼女の一撃の前にはただのゴミ屑と同義であるという恐ろしい現実。だが、ベネットはジェナールに見向きもせず、ただ静かに焦土の彼方へと消えていった。彼女の探す「強さ」の答えは、まだこの惨劇のなかにはなかった。ただ、世界の命運を揺るがす少女の歩みは、さらなる波乱を呼ぶべく、次なる地へと続いていくのであった。


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